第7話 悲しい女
「本当に町田さんの情報を、奈津実さんは知ってるんですか? だったら僕は、キスだって何だってします」
春樹は横に座る奈津実に向き直り、真剣な目で言った。
自分がいったい何を言ったのか、その意味を春樹自身充分わかっているつもりだった。
それでもその瞬間、奈津美の自分に対する軽い愚弄が許せず、その言葉を吐き出してしまった。
その春樹の気迫に、ほんの冗談のつもりで言った奈津実は虚を突かれたように目を見開いた。
「やあね・・・冗談よ。そんなふうに言われると、私すっごく悪いことしてるみたいじゃん」
「悪いことしてんのよ、奈津実は。あんたの負け。この子は真剣なのよ。ね、そうでしょ? 春樹くん」
リツコは柔らかい笑みを春樹に向けてきた。
「・・・はい」
けれども、そう答えた春樹の胸はザワザワと不規則にざわめき、胃に砂を流し込まれたような不快感が残った。
自分自身がたった今言った言葉に、改めて嫌悪した。
『キスでも何でもします』
それは譲歩でもなんでもない。
女の肌に触れ、こちらが欲しい情報を全て絡め取ってやりたい。
そういう事だったのではないのか。
春樹は次第に動悸が激しくなっていくのを必死でなだめながら、平静を保つのに全神経を集中させた。
今は余計なことを考えるな、と。
「残念ながら、町田さんが今どこにいるのかは私たち、誰も知らないわ。君がもし咲子に頼まれて町田さんを捜しているのなら、私たちが役立つことは無いのかもしれない。咲子のほうが、町田さんに詳しいはずだもの」
落ち着いた声でリツコはそう言った。
「でも、咲子さんは何も教えてくれなかったんです。もしかしたら、僕を試しているのかも知れない。・・・あの、何でもいいんです。些細なことでもいいから、情報が欲しいんです」
あっさりと依頼人を認める発言をしてしまったが、ホステス3人はもう茶化したりはしなかった。
そして春樹にも、もう、何を隠す意味も感じられなかった。
どんなにカッコ悪くても、能力を使わずに情報を得て、咲子を納得させることに集中したかった。
「試す・・・ねえ。咲子が考えてることは、昔から分からなかったけど・・・。いいわ、ここで過ごした町田さんのこと、思い出してみましょうか。なにかヒントになるかもしれない」
リツコはそう言って、ぐっと身を乗り出してきた。
「春樹君は、町田さんと咲子のことを、どこまで知ってるの?」
「町田さんのことは、以前の勤め先の名刺を一枚もらっただけです。咲子さんについても、ここで働いていて、町田さんと親しくなったと言うことだけで」
ホステス3人は、軽く目配せをした。
「咲子はもしかしたら本当に町田さんのこと、何も知らなかったのかもね。私たちが思ってた以上に。可哀想な女。結局のところ、最後の望みにも逃げられたのよ」
奈津実があまり感情の籠もらない声でつぶやいた。
そのあとリツコは、どんな言葉も聞き逃すまいと、じっと見つめてくる春樹に、まずは二人の出会いについて簡潔に語り始めた。
それは一見、どこにでもある客とホステスの出会いだった。
一人のホステスが、ある日客として訪れた1サラリーマンに惚れてしまった話であり、その男が半年前に忽然と姿を消してしまって、儚く終わった恋の話だった。
どこにでもある陳腐な物語。
町田の人間性なり、交友関係なり、田舎の話なりを書き留めようと手帳を開いた春樹だったが、そこを埋めたのはほんの数行だった。
けれど、「でも、本当の二人の関係を知りたいなら、もっと深い話があるよ。咲子の生い立ちからの話になるけど、聞く? あの子は客に自分の身の上話をするのが好きだったから、別に怒りはしないと思うし」、というリツコの前置きのあとで聞いた話は、春樹を震撼させた。
それは余りにも仄暗い、悲しい女の物語だった。
藤川咲子。
母を早くに亡くし、父親の元で育つが、父親のアル中と暴力により児童相談所に保護され、そのまま施設で育つ。
中卒で住み込みの紡績工場で働くが、20歳で水商売の世界へ入る。
すぐに恋仲となった男と暮らし、その男の仕事を手伝うが、不動産サギ紛いの商法だったとして、男は逮捕され5年の実刑。
片棒を担いだ咲子も、長期の裁判の末、半年ばかりの保護観察処分となった。
その後、本名の「咲子」を源氏名に使い、再び水商売の世界に戻るが、転がり込んできたヒモ男の影響で次第にドラッグに手を出すようになる。
ヤクザとのからみや、横流し、売買と言ったことはなかったが、販売元の思わぬリークから薬物所持を摘発され、ヒモ男は懲役。咲子には一年の執行猶予がついた。
男を愛しては騙されて利用され、また愛しては捨てられ。
あんなに自分を苦しめたドラッグを尚手放せなかった愚かな女が、やっと出会えたのが町田だった。
町田はいつもただ黙って咲子の隣に座り、咲子の話を聞いた。
客の話を聞いてやるのが仕事の咲子が、いつも自分の身の上を語り、愚痴を言い、町田は静かにそれらを自分の中に収めてくれた。町田が自分から語るのはただ、幼い頃遊んだ田舎の話と、飼っていた犬の話くらいだったという。
話の弾みで、ドラッグの話が出ると、町田はいつになく強い口調で、今すぐやめるように約束させた。
そのころ咲子がやっていたのは合法ドラッグであったが、それでも町田は真剣に咲子を説得した。
そして、「ちゃんとやめられたなら、なにかお祝いをしてあげる」と町田は言い、咲子は「オフの日にドライブに行きたい」と子供のように笑った。
その約束の日から咲子は合法も非合法も、全てのクスリをやめた。
けれど期を同じくして、町田も姿を見せなくなった。
それが今から半年前だ。
一瞬咲子の前に舞い降りた天使は去り、代わりに死神が住み着いた。
昔、同棲していた組の構成員の男が、再び転がり込んできたのだ。
アルコールが入ると暴力を振るうその男をアパートに住まわせながら4カ月、咲子は町田を待った。
けれど結局身が持たず、咲子は店をやめ、男から逃げるように、アパートを出て行ってしまったのだ。
これが、その時リツコが語ってくれた咲子の半生だった。
◇
春樹は、事務所横のいつものファーストフード店にふらりと入っていった。
ボンヤリした頭でドリンクを注文し、空いているカウンターのスツールに腰掛けると、鈍く痛む頭をそっと、冷たいカウンターの天板に伏せた。
「どうした? 春樹」
カウンターにしばらく突っ伏していた春樹の髪に、ポンポンとやさしく触れる手があった。
春樹が疲れて居るだろう時は決してふざけて肌に触れてこない、優しい友人の手。そして声。
自宅からも予備校からも遠い癖に、なぜかいつもここで出会う。
時にその優しさは強引だったりもするが、心も体も疲れ切っている時には、その存在に胸が熱くなるほど救われ、勝手だと思いつつも甘えたくなる。
「うん。ちょっとね。・・・今日は疲れた」
春樹がカウンターに伏せたまま、顔だけ声の方に向けて笑ってみせると、隆也は「そうか」、とだけ言い、もう一度春樹の頭をポンポンと叩いた。
「気持ちいい・・・」
春樹がぼんやりそう言うと、隆也は秋の木洩れ陽のように、静かに笑った。




