最終話 その先にあるもの
今度もまた、この4階の住人だろうか。
そう思いながら隆也は、その階に止まったエレベーターのドアを見つめた。
もう午後の10時。
春樹がここを飛び出してから既に、気の遠くなる時間が過ぎたように思える。
それでも、ただじっと、石になってもじっとここで春樹を待っていようと隆也は思った。
春樹のドアの前で座り込んでいる自分に不審な目を向けてくる住人に小さく頭を下げ、携帯を握りしめ、尻が冷えて感覚が無くなるのも構わずに、ひたすら春樹を待った。
朝になっても構わないと思った。これは自分への戒めなのだと。
期待はせずに視線を送ったエレベーターのドアが開いた。
細いジーンズの足。
ゆっくりと降りてきたのは春樹だった。
「・・・隆也」
夕刻見た時よりも更に青白い顔をして春樹がこちらを見る。
隆也は痺れて半分感覚が無くなった足に少し慌てながら、ドアレバーを掴んでゆっくり立ち上がった。
「春樹・・・ごめん」
頭の中で何度もシミュレーションしたくせに、決まりの悪い言葉だった。
けれど、それでも良かった。無様で情けない自分を晒しても、春樹に謝りたかった。
それが単なる自己満足であったとしても、そうしないと、この自分はどこへも進めないのだ。
「ごめん、春樹。本当にごめん。もうしないから。もう絶対にあんなことしないから」
「・・・ずっとここに?」
春樹の声は、今目覚めたばかりのようにボンヤリしている。いや、疲れ切っていると感じた。
「ああ、ずっと。朝まででも居ようと思った。謝りたくて・・・」
「こんな寒いところで」
ふいに春樹の腕が伸び、隆也はそのままふわりと抱きしめられた。
それは思いも寄らない春樹の行動だった。
今までふざけて隆也が春樹に抱きついたことはあったが、春樹が自分から触れて来るという事は、隆也に対しても今まで一切無かったのだ。
隆也の目の奥で何かが白くスパークし、さっきまでの自分中心の思案は、別次元にはじき飛ばされた。
触れてきた頬が氷のように冷たい。
冷え切っているのは春樹の方だった。
「僕の方こそ、ごめん。・・・メールで何度もそう送ろうと思ったのに、出来なかった。・・・ちゃんと言葉で謝りたかった。・・・ごめん、隆也」
そう言いながらも春樹は体を離そうとしなかった。
ただ、自分の力で立っているのが辛いようにも、隆也の体温を確かめたがっているようにも感じとれる。
それとも、別の何かを求めているのか。
「・・・どうした?」
「・・・」
どうした? 春樹。・・・何があった?
再び心の中で春樹に訊いてみた。
一瞬動きも呼吸も止めてしまった春樹は、けれどすぐに体を離し、少しばかり赤くなった目をそらして笑い、首を横に振った。
「大丈夫。何もないよ」
離れてゆく瞬間、春樹の髪から知らない香りがした。そして、今まで見たことのない目をして笑う。
なぜ自分はこいつの心を読むことが出来ないのだろうか。
なぜこいつはいつも一人で苦しもうとするのか。
隆也は沸々と沸き上がる奇妙な感情に戸惑い、腹を立て、胸に重くのし掛かってくるのを為すすべもなくやり過ごした。
「そうか。・・・それならいいんだけど。じゃあ、また。・・・今度はメール、返せよな」
「うん、分かってる。ありがとう、隆也。・・・おやすみ」
春樹が静かにドアを閉めて部屋の中に入るのを確認すると、隆也は半日居座ったその場所をようやく後にした。
けれど自分の中によぎった感情は、尚も隆也の体内に居座っている。
この嘘つきで不器用で傷つきやすい友人をどうにかして楽にしてやりたい。守りたいと思った。
そのすべてが、今、伝わっただろうか。
この肌に触れて、あの友人の胸に届いただろうか。
植わったらいい。 芽吹くといい。 根を張ればいい。
隆也は自分でも処理仕切れないその感情を胸に押し込み、目を背けながら、エレベーターのボタンを押した。
-- エピローグ --
「あれ? この前来てくれた子よね」
花屋の店員は濡れた手をエプロンで拭きながら、店先に並んだ切り花を見つめている少年に声を掛けた。
確か10日ほど前、入院のお見舞いに持って行く花を探していた少年だ。
一度見たら忘れられない、透けるように白くきれいな肌の、可愛らしい子。
「あの病院、お花禁止だったもんね。どう? その、お知り合いの方のお加減は」
「おかげさまで、あのあと直ぐ退院できました。僕の大切な上司なんです」
少年は琥珀色の瞳を輝かせて微笑んだ。
柔らかそうな亜麻色の髪を、ゆるい冬の風がフワリと揺らしてゆく。
「それは良かった。じゃあ、今日は別の人への贈り物かな?」
「ええ、そう。・・・ああ、これがいい。この紫の花、全部ください」
「ぜんぶ? 50本くらいあるよ? これ全部?」
「全部ください。6時間ほど持ち歩いても大丈夫ですか?」
「ずいぶん遠くに持っていくのねえ。どこ?」
「大分の由布川。このあと新幹線で行くんです」
「ええ~? そんな遠くまで? ・・・私が言うのも変だけど、向こうに着いてから買った方がいいんじゃないかしら。荷物になるし、このトルコキキョウなら、どこのお花屋さんにも置いてあるし。あ、宿に泊るんなら、そこに宅配っていう手もあるよ?」
「いえ・・・。ここのお店のでないとダメなんです。ここで買って、この手で届けたいんです。由布川に眠るその知人に、僕の手で届けたいんです」
少年は穏やかな、けれども真剣な目をして店員にそう告げた。
「そう・・・。うん、わかった! 持ちやすいように、萎れないように、ちゃんと包んであげるからね。任せて」
店員の女は何かを感じ取り、あとはただ黙々と50本のトルコキキョウを包み始めた。
「じゃあ、気をつけて行ってきてね」
そう言って店員がコンパクトにラッピングした花束を渡すと、少年はとフワリと微笑んだ。
「きれい・・・。ありがとう。また来ますね。毎月、届けるって決めたから」
小さく頭を下げてそう言うと、少年は花束を抱えて、眩しい陽射しの中に消えていった。
・・・まるで秋の木洩れ日のようだ。
柄にもなくそんな事を思いながら店員は店の中に入っていった。
「大分の由布川って言ってたね、さっきの子」
奥の椅子に座っていた足の悪い店主の女が、広げた新聞を眺めながらポツリと言った。
相変わらず耳だけは達者だと、店員の女はこっそり笑う。
「そんなこと言ってましたね。湯布院の近くかしら」
「あそこでホレ、2日前にまた死体が上がったそうだよ。一週間くらい前にも、男の死体が見つかったって言ってたのにさあ。今度は女だってよ。絶景見に行くのもいいが、危ないよねえ、ああいう渓谷は。わたしゃあ、ああいう険しくて高い所は昔っから嫌いでね。観光しに行って死んじゃぁ、馬鹿らしいよね」
「へえ・・・そうなの。可哀想にね」
若い店員の女は束の間哀れむ気持ちになりはしたが、またすぐに慌ただしく次の作業に取りかかった。
またあの可愛い少年は来てくれるだろうか。
そんなことを思い、小さく口元をほころばせながら。
(第5章 END)




