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第23話 受容体

「美沙・・・どうして? まだ病院じゃなかったの?」

目を見開いたままそう言った春樹の表情は蒼白だった。


「ええ。2日ほど退院を早めてもらったのよ。経過が良かったから」

あれほど求めていた少年を目の前にしているというのに、春樹の中に、美沙の回復を喜ぶ余裕がないことを悟ると、美沙はどうしようもなく心が冷えて固まっていくのを止められなかった。


「そう・・・。良かったね。退院おめでとう。・・・ごめんね、毎日顔出せなくて。ちょっと・・・遊んでたもんだから」

そう言って春樹はぎこちなく微笑んだ。

「いいのよ。毎日来ることないって、私が言ったんだもの」

「うん・・・。あの、携帯も、ちょっと調子悪くて、ちゃんと読めてなくて」

「いいって言ってるでしょ」

美沙は静かに言ったつもりが、春樹はそれにビクリと震えた。息を飲むのが美沙にも伝わってくる。


この少年はどうして嘘ばかり吐くのだ。

どうして少しも本心を見せようとしないのだ。

美沙は沸き立ってくる悲しみと怒りで、足元から崩れ落ちそうだった。


「あと2日は休みにしてあったんだし、あなたがどこで誰と遊ぼうと自由よ。だけどね」

美沙はデスクの横に立ったまま、やはり同じように2メートル先に立ちつくしている春樹を真っ直ぐ見つめた。

「仕事と称して勝手な行動を取るのはどうかと思うな。もしも春樹一人の時に依頼が入ったのなら、私か局長に相談するべきでしょ? 違う?」


美沙を見つめる春樹の瞳が頼りなさげに揺れた。

琥珀色の瞳は更に薄く色を無くし、美沙を見つめているのか、その向こうを透かして見ているのか分からなかった。

「この依頼の説明をしてもらえる?」

美沙が、藤川咲子の依頼書をデスクの上にヒラリと置くと、春樹はただボンヤリそれを眺め、やっと口を開いた。

小さく、こぼれ落ちるような力のない声だ。

「それはもう、捨ててください。もう・・・必要ありません」

「調査報告書は?」

「いいんです。その仕事はキャンセルになりました」

「そんなこと無いはずよ。藤川咲子さんは、ちゃんとあなたにやり遂げてもらったって言ってたから」


春樹は弾かれたように視線を上げ、美沙を見た。

その驚愕の目がさらに美沙の中の何かを刺激する。

「あなたへの支払が済んでいないからって、さっきここに来たのよ。これは個人的な依頼だからあなたに全額渡してくれって。このメモといっしょに。あなたはどんな契約をしたの? 一体どんな調査だったの?」

次第に棘を含んだ強い追求になったが、春樹はそれを聞いているのかいないのか分からない目をして、ひとり虚空に佇んでいた。

美沙が現金の入った分厚い封筒と、その上に先程の四つ折りのメモを乗せてデスクの上を滑らせると、春樹はぎこちない手つきで一旦それらを掴みあげたが、封筒の方だけポトリとデスクに落とした。


すっかり血の気を無くし、蒼白になった指先で春樹はゆっくりとメモを開き、じっと見つめた。

そしてそのまま固まったように動かない。小刻みに薄い色の瞳だけが揺れていた。


「春樹?」

「嘘ばっかりだ」

「え?」

春樹はくしゃりとメモを手の中で握りつぶし、足元に落とすと、そのまま力のない視線を部屋の隅にぼんやりと置いた。泣いてもいず、表情を歪めるでもなく、ただ他人には伺い知れない何かに打ちひしがれている。


春樹に触れるほど近づき、その足元にしゃがみ込んで、美沙はくしゃくしゃに丸められたメモを拾い上げた。

その刹那、春樹からフワリと微かに、今までと違う香りがした。

ムスクだ。

眩暈に似た絶望を堪えながら美沙が開いたメモ用紙には、ほんの短いメッセージが綴られていた。


《あなたは神様がくれた、初めての至福だった。 私は生きていくから。 あなたも、生きなさい》


「・・・嘘ばっかりだ。」

春樹がもう一度、声を震わせて呟く。

美沙はただじっとその少年の横顔を見ていた。

そしてもっと早く気が付かなければならない事に、今やっと気付いた。

それが悔しくて情けなくて、叫び出しそうだった。気が狂うほどに。


・・・間宮光浩の事件の時に気付くべきだったのだ。

この少年は人の心を盗み見る力を持って生まれたのではない。

触れた人間の心に犯されてしまうだけの受容体なのだ。

自分から仕掛けることなど何一つ無い。

触れて、触れられて、その悲しみも苦悩も狂気もすべて取り込み、傷つき、処理できずに戸惑い、尚も自分の特異性に悩み、贖罪で縛られる。

『あの子は脆いから。しっかり手を握っててやらないと』

そんなことあの女に言われるまでもない。全部分かっている。

けれどどんなにそう願っても、この少年をしっかりつなぎ止めて守ってやることなどできない。

この子が受信する器である限り、自分は守ってはやれない。

それどころか、『壊す』側なのかもしれない。

あの女は何も知らず、ただ戯れに春樹を犯したのだ。

そして訳知り顔でそれを自分に伝えに来たのだ。・・・


煮えたぎるような嫉妬と屈辱と無力感が美沙の胸を押しつぶした。

少年に対する激しい感情がマグマのように熱を帯び膨らみ、口をついて吹き出しそうだった。


---“ 春樹。 愛してる! 愛してるのに! ”---


けれどその言葉は美沙の口から出ることを許されず、代わりにこぼれてくるのは歪んでしまった最悪の言葉だった。


「もう・・・やめて。・・・苦しいよ、春樹」


少年は一瞬、刑の宣告を受けたように体を強ばらせたが、やがて何もかも受け入れ、そして諦めたような弱々しい微笑みを浮かべて俯くのを、美沙はただ後悔と共に見つめることしかできなかった。





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