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第20話 その女

入院してから、実に10日ぶりだ。

美沙は緊張と不安と、僅かな期待を込めて、事務所のドアを押した。

けれどもやはり鍵が掛かっており、春樹は来ていなかった。

休業中なのだから当然と言えば当然なのだったが。


急性膵炎とはいえ軽度だった事もあり、美沙の場合、入院の予定は普通の患者よりかなり短い2週間だった。

2週間できっちり復帰したくて、絶食、点滴、血液検査、エコー等、大人しく耐えてきた美沙だが、どうにも春樹のことが気になり、心の方が参りかけていた。

半ば担当医と険悪になりながらも、何とか通院と食事療法を守るという約束で、2日早い退院を勝ち取ったのだ。

「春樹君に宜しくね」、と笑ってくれた担当看護師の北村に礼を言い、「2カ月は絶対禁酒ですからね」と無愛想に言った担当医師に頭を下げ、退院手続きを済ませた美沙は正午過ぎ、早々に病院を後にした。


『退院する時は迎えに行くから、声を掛けてね』、と言ってくれた立花聡局長の事を思い出したのは、自宅マンションに着いた頃だったが、そんなことよりも、美沙の心は別のことでいっぱいだった。

不安な気持ちを抑え、マンションの同じフロアの春樹の部屋を訪ねたが、反応は無かった。

携帯に掛けてもいっこうに繋がらず、美沙は一縷の望みをかけて、この鴻上事務所に来てみたのだ。


事務所内は、美沙が入院する前日よりもきちんと整理され、ホコリひとつ無いほど綺麗に掃除されていた。

空気も澱んでいない。

隆也が言っていたのは本当だったのだ。

春樹は三日前までちゃんと出勤し、掃除をし、資料整理や溜まった事務処理をしていたのだ。

綺麗に拭かれたデスクを手でなぞり、きっちり並べられたファイルの背に触れ、美沙は少しずつ込み上げてくる愛おしさと切なさに、胸が苦しくなるのを覚えた。


どこにいるのだろう。

隆也も知らない友人と遊んでいるだけなのだろうか。

それともこの数日間に、春樹に何か変わったことがあったのだろうか。


“新規の依頼のことでも悩んでるみたいだったし。”

そう言えば隆也はそんな事を言っていた。

そんな事は許可していないし、春樹が自分一人で依頼を受けるなんて有り得ない。

そう思いつつも美沙はじっとしていられず、契約書のファイルを棚から取り出し開けてみた。


「何、これ」


その最新ページにあったのは、美沙の知らない契約書だった。

藤川咲子、39歳。調査対象者:町田健一郎。

対象者との関係を書く任意欄は、不自然にボールペンで黒く塗りつぶされている。

更にその下の備考欄には、女子高生のノートの落書きのような字で、《ハルキくん個人に依頼する。がんばってねー》と走り書きされていた。

「何なのよこれ・・・」

美沙はまた一人、言葉を漏らした。

春樹個人に依頼とは、どういうことなのだ。事務所を通さない仕事など有り得ない。

39歳にもなって、このふざけた契約書はいったい何なのだ。

ただのイタズラなのだろうか。


美沙は急に内蔵の一部が重くなったように感じ、自分のデスクの椅子にへたり込んだ。

きっとふざけた大人が入り込んで、春樹をからかっただけなのだ。

そう思いつつも、動悸が速くなって仕方なかった。


“春樹、あんたは何をやってたの? 今どこにいるの”

座っているというのに、貧血のように頭から血の気が引いていく。

どうしよう。どこから春樹を捜そう。

もしもこの案件に春樹が絡んでいるのだとしたら、自分はどこから後を追えばいいのか。


コンコンとドアをノックする乾いた音がしたが、デスクにうなだれるように頭を抱え込んでいた美沙がそれに気付くまでには、少し時間がかかった。

美沙がドアの開く音に気付き、そして顔を上げた時にはもう、その人物はドアの前に立ち、美沙の方を少し驚いたような表情で見つめていた。


その見知らぬ‘女’は心底胸をなで下ろした声を出した。

「ああ・・・良かった。春樹だったらどうしようかと思った」


ラメ紺のチュニックに薄手の黒いコートとスカーフ。

40前後だろうが、どこか疲れ、生気の無い目をした化粧の濃い女。


夜の匂いがする。美沙は瞬間、そう思った。

太陽の出ている昼間だろうと、いつも夜の闇を腹の中に隠す人間の澱んだ匂い。

そして美沙の苦手な強いムスクの香りだ。


美沙は女の顔に視線を置いたまま、ゆっくりと立ち上がった。

腹の底から沸き立ってくる、確かな予感があった。

夜を纏い、春樹の名前を躊躇いもせずに呼び捨てにする品のない女。


「藤川・・・咲子さんですか?」

美沙は抑揚のない低い声で、まっすぐ女を見据えて言った。


女は否定も肯定もせず、赤い唇をゆっくり左右に引き延ばし美沙を見つめると、

「ああ、・・・あなたが戸倉美沙さんね。会いたいと思ってたのよ。 あなたに」

そう言って笑った。



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