第18話 残酷と静寂の朝
レース越しの小さな窓から、柔らかな白い光が流れ込んでくる。
こんなに静かな気持ちで朝を迎えられるのは、何年ぶりだろう。
すっかり身支度を整えた咲子は、まだベッドに横たわり、静かに寝息を立てている少年を、愛おしい気持ちで見つめた。
性交の合間に口移しで飲ませた強い睡眠薬のせいで、その少年はシャワーを浴びることも叶わぬまま、まだ咲子の匂いを体に纏わらせ、深い眠りに落ちている。
今は危険だとして製造を禁じられているバルビツール酸系睡眠薬。
たった一錠でも、体質によっては呼吸停止に至る。
この少年は、何のつもりであの時、口移しで入れられたカプセルを、躊躇いもなく飲み下したのだろう。
咲子を信頼しきっていたのか、それとも、その真逆か。
そのクスリの作用で、この少年が息絶えてもいいと、ほんの一瞬この自分が思った事を、この子は知りもしないだろう。
眠りに落ちた少年の首に手をかけて、本当に連れて行ってしまおうと思ったことなど、この子は想像もしないだろう。
咲子はそんなことを思いながら、朝日をほんのり映し、透けるように白く浮き上がった少年の頬を撫でた。
薄い布一枚を下腹に掛けただけのその体は人形のように美しく、儚く、咲子は自分が犯してきたどれよりも大きな罪を感じて、ひっそりと嗤った。
「あんたが悪いんだよ。私に近づくから。私を掻き乱すから」
咲子は身勝手な言い訳をこぼしながら、少年の上に屈み込んだ。
その白い胸にも、腹にも、昨日の名残の赤い刻印が鮮やかに浮かび上がっている。
“消えなければいい。 ずっと、このまま”
ふいに大きく息を吸い込む気配を感じて、咲子が顔を上げると、まだ目を閉じ、眠りの中から抜け出せないままでいる少年が、辛い夢でも見ているかのように顔を歪ませ、そして呟いた。
「美沙・・・」
その声を聞きながら咲子は花がほころぶようにやんわりと笑い、そして、涙をにじませた。
「馬鹿な子・・・。馬鹿な子・・・・・」
裸の体に優しく毛布を掛け直してやりながら、咲子はゆっくり立ち上がり、ベッドの横に置いてあった、小さなバッグひとつを手に持った。
「じゃあね。春樹。バイバイ」
もう一度だけその頬に触れるだけのキスを落とした後、咲子は静かに部屋をあとにした。
◇
隆也はムッスリとした目をして、春樹のマンションの部屋のドアをひとつ、小さく蹴飛ばした。
やはり春樹は帰っていない。
予備校の午前中のカリキュラムは何とかこなしたが、どうにも授業に集中できず、午後の授業はすっぽかして帰ってきてしまったのだ。
自分のこういう性格が全てに災いし、受験をも困難にしているのだとは分かっていたが、ひとつ気になると、まるで他に考えが回らない性分は、どうにも直らない。
何度ドアホンを押してみても、同じだった。
昨日の昼も、夜も。共通の友人の所にもいない。
相変わらずメールも電話も、返して来ない。もう3日だ。こんな事は今まで一度も無かった。
自分と同じ18歳の、それも仕事をもつ男に2、3日連絡がつかないといって、取り立てて騒ぐことではないのは分かっている。
けれど相手が春樹となると、そうもいかない。
あれだけ美沙を頼り、大事にし、そして唯一秘密を知っている同性の隆也に、何でも胸の内を話してくれた春樹だ。
しかも、ここ何日かの春樹の憂鬱そうな目を見ている隆也には、心配しないでいられるはずもなかった。
ちょっと美沙が傍いないと、何故こうも脆くなるのか。
隆也は春樹のどうしようもなく弱い部分に腹が立ち、そして同時に美沙に腹が立った。
もう一度ガンとドアを蹴飛ばした後、ふとまた別の不安が隆也の脳裏をよぎった。
もしかしたら春樹は熱でも出して、部屋の中で寝込んでいるのではないだろうか。
インターホンにも出られないほど伏せっていて、あるいは脱水症状など起こし、動けなくなってるのでは。
隆也は一度沸き上がってきた不安に頭を占領され、ソワソワと落ちつきなく、ただ左右を見渡して「どうしよう」と呟いた。
鍵を開けてもらおう。
友人だし、構わないはずだ。しかし、ダレに? 管理人って、どこにいるんだろう。
隆也は前の廊下を行ったり来たりしながら一人考えを巡らせ、結局美沙に訊くしかないのだという結論を出した。
美沙に頼るのは少々腹立たしいが、この際仕方がない、と。
その時、シンと静まりかえったフロアの端で、エレベーターの軽い起動音が聞こえた。
振り向くと上昇してきたエレベーターがこの階に停まり、今まさに開こうとしている。
丁度いいとばかりに、それに乗り込もうと走り出した隆也は、ドアの中の人影にハッとした。
エレベーターから降りてきたのは春樹だった。
紙のように白い顔をして、ぼんやりとただ目を開いているだけの、生気の感じられない体。
まるで魂を抜き取られたかのように、頼りない。
それは、春樹に似せた、ただの人形のように思えた。




