第16話 涙
逃げるように病院を飛び出したあと春樹は、日の暮れかかった駅近くの公園のベンチで、ボンヤリと行き交う人々を眺めた。
自分の人生に何のかかわりも持たない人々の波は、不思議と頭の中を空っぽにしてくれる。
そうやって気持ちを落ち着かせた後、携帯を取り出し、通話ボタンを押した。
「調査、終了しました。・・・今から会えますか?」
春樹が電話でそう伝えると、咲子は『へえ。もう終わっちゃったんだ。早かったね』、とサバサバした調子で言った。
そして、もう自宅アパートは出てしまって、安いビジネスホテルを寝ぐらにしてるから、そこに来て欲しいと場所を指定してきた。
本当に客など居るのだろうかと思うような、薄汚れて老朽化したそのホテルに着いたときにはもう、すっかり日が暮れていた。
教えられた部屋番号のドアをノックすると、すぐにドアが開き、ラフな紺のナイトドレスを纏った咲子が「おいでよ」と手招きした。
室内はごく普通の簡素なシングルルームだ。
薄いカーテンの引かれた小さな窓がひとつ。TVや装飾品もなく、ただ、白いシーツのベッドがひとつ。
ここは咲子が、春樹の答えを待つ事だけを目的に、用意した空間なのだ。
春樹はそんなことを思いながら、咲子がベッドの横に置いてくれた椅子にちょこんと座ると、咲子を見上げた。
その様子を見ながら、ひとつ小さく笑うと、咲子も春樹の正面のベッドの淵にドスンと腰掛けた。
「警戒心ないね、あんたは。クスリやってるかもしれない、半分まともじゃないこんな女の部屋に、のこのこ入って来るなんてさ。危機管理がなってない」
「調査、終了しました」
春樹は咲子の言葉には応えず、ただ淡々とそう言った。
「へえ。言い切ったね。それで、町田は見つかった? ちゃんと見つけて連れてくるって言ったけど」
「報告してもいいですか? ちゃんと全部聞いてくれますか?」
「・・・もちろん」
咲子の勢いが揺らいだ。
それはほんの一瞬であり、春樹にしか分からない咲子の“覚悟”だった。
「そのつもりで春樹に依頼したんだから」
「じゃあ、報告します。町田健一郎さんは見つかりました。20日前から行方不明だったんですが、今日の朝、由布川渓谷を流れる川の下流で、遺体となって発見されました」
春樹は真っ直ぐ咲子を見ながらそう言った。
咲子は人形のように生気を無くした表情をして、部屋の隅に視線を預けていたが、やがて見開いた眼球を小刻みに震わせ始めた。
「・・・そう」
絞り出したような咲子の声を聞いた後、春樹は尚も続けた。
「町田さんが仕事を辞め、生まれ故郷の大分に帰ったのは、病気療養に専念するためでした。その何年も前に計画していた実家の売却を実行し、退職後しばらくの生活資金を作ったんです。
東山のりんご農園の借家のことは咲子さんに教えてもらったんですよね。町田さんは、住み込みで農園の手伝いをしながら、近くの大学病院に通っていたんです」
「病気? ・・・へえ・・・そうなんだ」
咲子は、空気が漏れるような声で、ぼんやりつぶやいた。
「咲子さんはその農園の借家へ、行ったことがありますね?」
「・・・行ったことないよ」
「行って、そして、仲良くしている女性がいることを知ったんですね」
「行ってないって言ってるでしょ。・・・もういいよ。町田がもう居ないことだけ分かれば、それでいいんだから。あんたは凄いよ。たいしたもんだ」
「まだです。まだ咲子さんの知らないことがいっぱいある。僕は調べたことを全部あなたに伝えたい。伝えなきゃならない」
「私の、知らないこと?」
春樹はちいさく頷いた。
「町田さんは咲子さんが好きだった。でも病気のことがあったから、咲子さんと離れたんです」
「ばかな。病気がなんだっていうのよ」
「町田さんが通っていたのはHIVの拠点病院でした。彼と親しくしていたのは、その病院の担当看護師です」
「・・・HIV」
咲子は思いがけなく飛び出してきたその病名が、思考に浸透してこず、ポカンと口を開けて固まった。
「あの看護師は町田さんの事が好きだったけど、町田さんには東京に残してきた想い人が居るんだって言ってたそうです。水商売の人で。でも、身を退くんだって」
「嘘よ」
「嘘じゃない。これが全てです。町田さんは、あなたが好きだったから、・・・それ以上好きになるのが辛くて、この街から離れた。あの人は優しくて、そして臆病だったから、知り合いのいるこの東京で、今まで通りの生活をしながら病気治療をすることが苦しかったんだと思う。あなたから逃げ出して、別の地で他の女の人と暮らしてる訳じゃ無かったんです。咲子さん、勘違いだったんです」
「何のつもり? 春樹! あんたは何のつもりでそんな話を私にするの?」
「僕が探偵だから。そして、あなたが“僕”にそれを依頼したから」
顔を歪めながら苦しそうにそう言った春樹を、咲子は呆然と見つめた。
「私が・・・春樹に・・・依頼したから?」
春樹はゆっくり深く息を吸い、咲子を見つめ返した。
「あなたは、どうして僕にこんな依頼をしたんですか? どうして僕だったんですか? 僕なら、辿り着かないと思ったから? ただのからかい半分? ただのゲームだったんですか?」
春樹の目から涙がひと筋、頬を伝い流れ落ちた。
拭いもせず、ただそのままじっと、咲子を見つめた。
「春樹・・・。もしかしてあんたは、最後まで辿りついちゃったの?」
咲子の掠れたように細い声に、春樹は答えずにただ、咲子を見つめた。
「ねえ、春樹。すべて分かったんなら、あんたはなぜこんな怖い女の所へ来たの? 人ひとり殺した、狂った女の所へ、どうしてたった一人でやってきたの?」
「僕は・・・」
「仕事だから? だったらばかよ。アル中でヤク中の女なんて、何するか分からないのよ? こんな所に来る前に、警察に突き出せばいいものを」
「ぼくは・・・」
春樹は再び顔を辛そうに歪め、ささやくように言った。
「あなたの中の、死の馬を見たかった」
「・・・え?」
「あなたの中にほんの一瞬見た死の馬は、なぜだか少しも怖くなかった。甘くて優しくて、温かな光に包まれて。その正体をちゃんと見たいと思ったんです。もしかしたら、僕の痛みとか苦しみも、解き放ってくれるかも知れない。その馬が、どこへ行けばいいのか教えてくれるのかも知れない。あなたと同じものを感じてみたいんです。僕にはもう、他に求めるものが、何も無くなっちゃったから・・・。
僕はあなたが求めるものを、ちゃんと調べて、あなたに伝えた。ちゃんとやり遂げた。
だから・・・見せてください」
咲子は、笑い飛ばすでも、不思議がるでもなく、ただじっと春樹の言葉を聞き、ゆっくり顔を近づけて、心を覗き込むように春樹の目を見つめてきた。
「何の苦労も知らず、ぬくぬくと育ってきた坊やだと思ってたけど・・・そうじゃないね。今になって、分かってきた。 ああ・・・きれい。何て綺麗な目なんだろう。やっぱり私、この目が欲しい」
そう言って咲子は柔らかく笑った。
「教えてよ春樹。私はどうすればいい? 私に、どうしてほしい?」
「僕に触れてください」
春樹は掠れるような声で小さく呟いた。
「この目が欲しいなら、さしあげます。僕にあげられるものなら、すべて。だから・・・僕の肌に触れてください。あなたの中の、死の馬が見たい」
咲子はふわりと笑うと立ち上がった。
「バカな子」
悲しみと、愛おしさと、苦しさと。
全てを込めた吐息のようにそう言うと、咲子は柔らかな裸の腕で春樹の頭を包み込み、涙の浮かぶその目に、頬に、唇に、優しく口づけをした。




