第15話 降下
春樹が自宅マンションに辿り着いたのは、午後3時を回った頃だった。
荷物をポンとソファの上に投げ出すと、鉛のように重い体を休めることもせず、すぐさまローテーブルの上に置いてあるノートPCを立ち上げた。
朝、キヨスクで買った朝刊には、春樹が知りたかった情報はどこにも載っていなかった。
当然だ。昨日の今日だ、とは分かっていても、どうにも落ち着かず何も手に付かない。
けれど、たった今検索に掛けた地元新聞社のサイトには、まるで春樹がページを開くのを待っていたかのように、その記事が掲載されていたのだ。
《3週間前に行方不明の男性、秘境の渓谷の果てで、遺体となり発見される》
《遺体は腐乱がひどく、行方不明になったその日に、転落死していたと見られる》
《事故か自殺か。昨日、“崖下に死体のようなものが見えた”との少年らしき声の通報により、半信半疑ながらも警察は、大がかりな捜索へ踏み切った》
《通報者に目撃されたという場所より、はるか下流で発見されており、警察では通報との食い違いに不信感。通報者に名乗り出るように、強く呼びかけている》
やはり、そうなのだ。
春樹は体の中の臓腑が急に冷えて固まっていくのを感じた。
どこへ行こう。
足元から崩れ落ちそうな気持ちを抱えて、自分はこれからどこへ行こう。
春樹は一人部屋の痛いほどの静寂に耐えられず、泣き出しそうな人恋しさを抱えてマンションを飛び出した。
◇
何日ぶりだろうか。
春樹は美沙の居る総合病院のエントランスを抜け、真っ直ぐエレベーターに向かった。
清潔な匂いのする病棟に入ると、不思議とそれは美沙を思わせる懐かしさに代わり、自分から足を遠ざけていたにもかかわらず、早く会いたくて堪らなくなった。
声が聞きたい。ちゃんと顔を見て、話がしたい。
メールや電話に出なかったことを厳しく叱られるだろうが、それでも構わなかった。
ただ、寂しく、悲しく、苦しい、自分の中に育っている重い感情を、美沙に払拭してほしかった。
自分がこれから対峙することへの不安を、紛らわして欲しかった。
会いたい。
エレベーターを降り、足早にナースステーションを横切り、病室へ向かう角を曲がった春樹は、しかし、目にした情景にハッとし、身を退いて隠れた。
廊下の端に並べられたベンチには、パジャマ姿の美沙が座り、そしてその横には、美沙に寄り添うように立花聡が座っていた。
きっと彼は見舞いに来ただけなのだ。
隠れることなど無いじゃないかと思いつつも、春樹の体は動かなかった。
内容は分からないものの、密やかに話す二人の声が、かすかに聞こえ、時々美沙の笑い声が交る。
軽やかな、少女のような声。
いつも保護者であろうと立ち振る舞う美沙が、春樹の前では決して見せない女性らしさだ。
春樹と話すときには感じられなかった開放感、安らぎ、そういうものが、そこにはちゃんと有った。
そこにいる美沙は、これから恋をして花開くであろう、美しい一人の女性の顔をしていた。
春樹は息を詰めてそっと二人の様子を伺った。
部屋に戻ろうとしたのか、美沙がゆっくり立ち上がろうとしたところ、ふいにその足元がふらついた。
壁の方に咄嗟に伸ばした美沙の手を、聡が力強く掴んだ。
春樹の心臓がドクリと跳ねる。
聡はそのまま、美沙を気遣うようにさりげなく肩を抱き、立ち上がらせた。
美沙の、慌てたような「大丈夫ですから」という声が聞こえてきたが、聡はその手を取ったまま、美沙の歩調に合わせながら病室の方へ誘導していき、そしてやがて春樹の視界から消えていった。
春樹はゆっくり向きを変えると、再び来た通路を戻り、エレベーターの扉の前に立った。
「あれ? 君はたしか、戸倉さんとこの・・・。久しぶりじゃない。もう戸倉さんの所に寄った?」
美沙の担当看護師、北山が声をかけてきた。
春樹は意思の無い人形のような緩慢な動きで振り向き、ほんの少し笑みを浮かべたあと、「いえ」と呟いて首を横に振った。
不思議そうに春樹を見る北山。
何か言いたげな看護師に、春樹はひとつ小さく頭を下げると、ちょうどドアを開いたエレベーターに乗り込んだ。
後はただドアを閉め、階下へのボタンを何度も何度も執拗に押した。
そして、自分を押しつぶそうとしている苦しい感情の全てを心のどこかに押し込んで、その扉に鍵を掛けた。
不気味な機械音と共に、果てしなく加速して落ちて行く。
その感覚だけが春樹を捉え、呑み込み、いつまでも放さなかった。




