第14話 それぞれの苦悩
渓谷を抜けた先に、ぽつんと佇む売店を見つけ、春樹は走り寄った。
その軒下に、今どき珍しいコイン式の赤い公衆電話が据え付けてあった。
春樹は周りに誰も居ないのを確かめた後、10円玉を入れて、一件電話を掛けた。
声が震えていなかったろうか。不審な電話と思われなかったろうか。
話し終えて受話器を置いた頃には、手の平は冷たい汗でぐっしょり濡れていた。
時刻はまだ昼過ぎ。
この町で自分がやれることは全て終わった。
けれども、その馬鹿みたいに重い体を引きずって、すぐさま帰路につく気にはなれず、春樹は桜ヶ丘の小さなビジネスホテルに一泊することにした。
見知らぬ天井を見つめ、備え付けのTVでローカルニュースを聞きながら過ごす夜はなんとも心細く、けれども自分の携帯に入ってくるメールも電話の着信も、全て無視し続けた。
電源を切ろうかとも思ったが、もし咲子が掛けてきたら応じようと思っていたので、切ることはしなかった。
メールは美沙だろうか。隆也だろうか。
“どうしたの?” “どこにいる?” “何をしてるの?”
そんな問いならば、答えられない。
何と答えればいいのか、分からない。
自分自身が一体、どこへ向かおうとしているのかも、分からないのに。
春樹はその夜、ゴウゴウと闇に落ち込む水しぶきを夢に見、汗びっしょりになりながら、まだ薄暗いベッドから飛び起きた。
胃の不快感はずっと取れぬままだ。
不気味な夢のせいか、体中が重く怠かったが、素早くシャワーを浴びた後、春樹は早々にホテルをチェックアウトした。
出費は痛かったが体調のこともあり、帰りは新幹線のチケットを買った。
このまま長距離バスなんかに乗ったらきっと吐いてしまう。
キヨスクで地元の新聞とコーヒーと菓子パンだけ買うと、ちょうど滑り込んできたひかり号に飛び乗り、窓辺の自由席に座った。
・・・ああ、そういえば。
4カ月前に、仕事でこの、少し古いひかり号に乗った。
あの時は真夏で、山口に行ったんだ。僕の隣には、美沙がいた。
ビールばっかり飲んで・・・駅に着いた頃には、酔いつぶれて大変だった。・・・
ほんの数ヶ月前のことを、春樹は遙か昔のように思い起こした。
その途端、鼻の奥がツンとし、にわかに視界が熱く歪み、春樹は堪らなくなって、手に持ったローカル新聞をぐっと力一杯握りしめた。
◇
「あれ? 珍しいわね。君が来てくれるなんて」
美沙は開け放たれた病室のドアから恐る恐る顔を覗かせた隆也に声を掛けた。
そして間髪入れずひらめいた予感に、胸を弾ませた。
「あ、春樹も一緒なのね?」
けれど隆也は首を横に振る。
「俺、ひとりです」
「ああ、そうなの。・・・こっちいらっしゃいよ」
自分でも驚くほどの落胆をも持て余しながら隆也を呼ぶと、女ばかりの病室のせいか、隆也はぎこちない様子で歩み寄り、美沙のベッドの横に立った。
「そっか、ひとりで来てくれたのね。・・・なにかあった?」
「あの、美沙さんに訊くのも変だと思ったんですが」
「なに?」
「春樹は昨日、どうしてました? ここに来ましたか?」
「昨日もその前も来てないけど。・・・隆也と遊んでるんだと思ってた」
「メールの返信もないし電話にも出ないし。家にも帰ってないようだし。今までそんなこと無かったから、ちょっと気になって。もしかして、仕事でどこかに行ってるのかなとも、考えたんですけど」
表情は変えなかったが、美沙は自分の胃の辺りが不安で急激に冷えて行くのを感じた。
「それはないわ。私が入院中は事務所は閉めてあるはずよ」
「春樹は毎日事務所に行ってました。やりかけの事務処理を片づけるんだとか言って。新規の依頼のことでも悩んでたみたいだし」
「新規の依頼?」
美沙が身を乗り出すと、その勢いに、余計なことを言ってしまったと思ったのか、隆也は一歩、後ろにさがった。
「依頼のことは、俺の聞き違いかもしれないし。・・・とにかく、ここに来てないんなら、いいです。別の友達のところにでも行ってるんだと思います。また、改めて連絡してみますから。どうもお騒がせしました」
「隆也」
「・・・はい」
「春樹に連絡ついたら、もう仕事のことは何も手を付けなくていいからって言って置いてもらえるかな。私がもどるまで、一人で何かしようとしないでって」
「できません」
隆也の意外な即答に、美沙は一瞬その意味が飲み込めなかった。
「・・・え?」
「美沙さんはいつも春樹にそう言う態度なんですね。俺だったら、そんなこと言われたら凄く腹が立つし、傷つきます。春樹が大事だったらもっと信用してやってください。春樹は、何も出来ない子供じゃないでしょ? それとも、本当に美沙さんが春樹を無能だと思うのなら、今すぐクビにすればいいんです。春樹はペットじゃない」
辛辣な内容とは裏腹に穏やかな口調でそう言うと、隆也は「失礼します。お大事に」と付け加えて、静かに病室を出ていった。
あとに残ったのは、隆也が突きつけていった、どうしようもなく当たり前の真実だけだった。
美沙はボンヤリと窓の外に目を向けたまま、ガスのように体内に充満する胸苦しさと自己嫌悪をなだめようと、しばらく必死になった。
出口のない迷路なのは、今も変わらない。
ただ、また、そこにコロンと悲しみが加わっただけだ。
自分はやはり、春樹を傷つけているのだという、そんなどうしようもない、悲しみがひとつ。




