第13話 カケラ
彼女は町田が通っている大学病院の看護師であり、今日もじっとしていられず、休み時間を利用して訪ねてきたのだという。
胸の名札に〈西山〉、とあった。
「もしかして、ひょっこり帰って来てるんじゃないかと思って。でも・・・やっぱり居ないね」
「いつもそうやって、気にかけてるんですか?」
「心配やしね。・・・ほんと、どこ言ったんやろ」
一瞬目を潤ませた西山を、哀れむというのとは少し違う、胃が軋むような痛みを感じながら、春樹は見つめた。
「恋人・・・なんですか?」
春樹がぽつりと訊くと、「そんなんじゃないけど」と、西山は小さく笑った。
半年前町田が、西山の病院に治療に通い始めてから顔見知りになり、家も近いことから、休日もたまに会っていたらしい。
「そういうの、恋人・・・でしょ?」
春樹は頭の隅に咲子の事を思い浮かべ、重い気持ちになりながらもう一度訊くと、西山は首を横に振った。
「町田さん、たぶん恋人なんかもう作らない気だったんじゃないかな。はっきりそう言ったわけじゃないけど」
「・・・そうなんですか?」
「私は、その病気は普通の生活がちゃんと送れるんだって言ったのに。病院だってそう指導してる。それなのに、あの人は臆病でね」
しんみりと言う西山。
見ず知らずの子供相手に話す事だろうかと春樹は一瞬違和感を覚えたが、一方でこの看護師は今、不安な気持ちを言葉にして、ざわつく感情を整理したがっているのではないかとも思えた。
「難しい病気なんですか?」
「・・・まあね。発症しちゃったから。今のところ進行を止めるのが精一杯で」
春樹の中に、ふと一つの病名が浮かんだが、言わずにおいた。
「馬鹿な考えを起こしてなきゃいいけどって。そんなことばっかりこの数日、考えちゃってね。どこかでその覚悟をしてる自分に気付いて・・・。そしたらもう、なんだか無力な自分が悲しくて、悔しくて」
ふいに西山は語尾を震わし、顔を向こうに向けた。
「あの・・・」
「ああ、・・・ごめんなさいね。こんな話して」
「変なこと訊きますが、町田さんが居なくなる前くらいに、お姉さんくらいの年齢の女の人が訪ねて来たこととかありませんか?」
春樹は自分の口から飛び出した質問に自分で驚いた。
咲子のことをボンヤリ考えていたからなのだろうか。咲子は、ここを訪ねたとは一言も言っていないのに。
「さあ。彼を訪ねて来る人なんて、めったにいないから。電気やガスの集金とか・・・そうね、保健の外交員っぽい人が、このあたりを何度か回っていたことはあったけど。派手なスーツ着て」
「何か、話をしましたか?」
「いいえ。いつも私を見たら怪訝そうに帰って行ったから。・・・でも、何で?」
「いえ。ごめんなさい。駅で少し話をしたときに、東京で知り合った女の人の話が出て・・・。もしかしたら、その女の人が訪ねてきて、一緒に出かけたりとか・・・。ないですよね、ごめんなさい」
春樹は自分でも何を言ってるんだろうとシドロモドロになったが、驚いたことに西山は笑いながら返してくれた。
「ああ、向こうにそんな女の人、居たらしいわね」
「え・・・そうなんですか?」
「水商売の人で・・・。好きになりそうだったから、慌てて逃げてきたって言ってた。失礼よね、私を目の前にしながら。でも、あの人はそんな人よ。馬鹿で不器用で優しすぎて、自分が想われてることに鈍感で。ねえ、春樹君・・・っていったっけ。君があの人から受けた親切は、大事に懐に取って置いたらいいよ。お金は返さなくていいから。あの人が戻ってきたら、春樹君のこと、ちゃんと伝えておいてあげる」
柔らかで悲しい西山の微笑みは、その一瞬春樹に視界が揺らぐほどの激しい衝撃をもたらした。
ゴウと耳の内側で風がうねり、砂が舞い上がり、鉛の雨が打ち付けた。
それら全てが胃に流れ込んだような苦しさを覚え、吐き気が込み上げてくる。
真っ逆様に落ちてゆく。
目をふさいでも込み上げてくる映像。
ゴウゴウと唸る水しぶき。
怒りと嫉妬と嫌悪と絶望と。
誰に対する感情なのか。
町田に。そして、今、目の前にいる、この優しい女にだ!
“違う。違ったんだ。勘違いなんだ、咲子さん!”
春樹は心臓がバクバクと激しく打つのを悟られまいと必死に体に力を入れ、平静な声を出した。
「あの、この辺に渓谷があるって聞いたんですが、どんなところですか?」
「ああ、由布川ね。すごい絶景よ。少し前までは人が足を踏み入れなかった秘境なんだって。私は高いところ苦手だから、あまり行ったこと無いんだけど、町田さんはちょくちょく散歩がわりに行ってたわ。高いところが好きなんだって。あ、見たいなら車で送って行こうか? 病院に帰るついでだし」
「・・・見て帰ろうかな・・・連れて行ってもらえますか?」
「うん。でも、大丈夫? なんだか顔色が悪いけど」
西山はふっと看護師の視線になって、春樹を覗き込んできた。
「大丈夫です。ちょっと、・・・風邪気味なだけで」
西山は少しも疑うことなく春樹を渓谷の入り口まで車で送り届けると、病院のある方向へ走り去って行った。
複雑な気持ちで車に向かって深々と頭を下げ、振り返った春樹の前に立ちはだかったのは、黒い森と、その森を刃物で切り裂いたような遊歩道の入り口だった。
平日だからなのか、もともと余り集客力のないスポットなのか、他に人の姿もなく、サワサワとただ、湿った風が吹き抜けていく。
春樹は心を決め、ただ無心に遊歩道を突き進んだ。
道しるべに従い、町田が好きだったという渓谷や絶景を横目で見ながら、ただひたすら歩く。緩い上り坂を道なりに歩くと、やがて古い吊り橋が現れた。
足がすくむ。頭を殴られたような既視感が、たしかにそこにあった。
ところどころロープが低く弛む、人がふたり、やっと並んで歩けるくらいの朽ちかけた木の吊り橋に、春樹はゆっくり足を踏み出した。
一歩一歩慎重に進み、呼吸を整え、ただ、心の中で静かに語りかけた。
『来たよ。咲子さん。ねえ、ここなんだよね。間違ってないよね』
春樹の中にあるのは、あの日一瞬触れた咲子の記憶でも、映像でもない。
春樹の中に、咲子が産み落としていった、咲子の“かけら”だった。
吊り橋の中央で春樹は下を覗き込んだ。
『あの吊り橋の下の渓谷は険しすぎて、人が降りることは出来ないのよ。下は川なんだけど、岩が入り組んで底がどうなってるのか見えにくくてね。“奈落”って呼ばれてる』
西山が車の中で説明してくれたとおり、その吊り橋の下では、刃物で切りつけられたような赤い岩肌がぱっくりと口を開けており、視界からは見えない亀裂の果てで、その傷口を洗い流すかのようにゴウゴウと唸る激流の音が響いてくる。
その音を聞きながら、咲子が春樹の中に産み落として行った“かけら”がドクドクと鼓動を始め、うねって流れてゆく激流と同調して春樹のなかで蠢いた。
一瞬貧血のように目眩をおこしてその場にしゃがみ込んだ春樹だが、大きく呼吸をくり返し、体に力を入れ、再び立ち上がると今来た道を戻りはじめた。
膝がガクガクと震え、何度も転びそうになりながら、それでも走った。
--- まだだ。まだ答えは出さないよ咲子さん。僕はやっと今、あなたに追いついただけなんだ。---




