第12話 真実の眠る地
見舞いに来てくれた友人2人を見送ったあと、再び静かになった病室で美沙は携帯を開いた。
やはり春樹からのメールの返信はない。
昨日も顔を出さなかった春樹に、今朝ついにメールを送ってしまったのだ。
普段、わざと素っ気なく装っている癖に、そんな自分が情けなく、そして同時に恐ろしくて堪らなかった。
数日姿が見えないだけで、自分の問いかけに返信してくれないだけで、こんなにも苦しくなる自分が居るのだ。
いざとなればいつでも離れられる。その覚悟はある。そう思っていた。
けれどそれは大きな誤算・・・いや、欺瞞だったのではないだろうか。
あの声が、あの笑顔が、あの髪が、優しげな琥珀の瞳が。
触れられなくとも側にいられるという安堵感が、自分にとってどんなに大切なものなのか。
そしてそれが奪われた時に自分はどうなってしまうのか。
ワザと意識を反らしていたそれらの事実が、寒気と焦燥感を伴って足元から這い上がってくる。
ああ。私は・・・春樹を愛している。
放心したようにその気持ちを自分の心臓の中に確認したあと、美沙は一つ、体を震わせた。
◇
《あの日はすぐに帰っちゃったんだね、春樹。どうかした? しばらく顔を見せないところを見ると、どこか旅行にでも行ってるのかな。あと4日ほどで退院だから、その頃までにはちゃんと帰って来なさいね。睡眠や食事はちゃんと取ること。怪我など、しないように》
その翌日の未明、九州まで直行する長距離バスの中で、春樹は何度もそのメールの文面を眺めた。
普段、仕事の連絡以外でメールなどくれたことのない美沙のその文章は、どこかぎこちなく、僅かに戸惑いを感じさせた。心が疼いた。
けれど春樹は返信をしなかった。
今は本心を語る事は出来ないし、そして、そんなメールを寄越した美沙を、適当なウソで安心させてあげる優しい気持ちも湧いてこなかった。
今までの自分とは別の自分が、ここに居る。
ただ側にいるだけでいいと思っていた美沙に対する不可解な苦しい感情。きっとそれは、今まで自分が目を背けていた感情だ。
けれど今はその全てに鍵をかけて、改めて保留することにした。
取りあえず今、自分のやるべき事は、別にあった。
初めて自分が請け負った依頼を完結させる。町田健一郎を捜し出し、咲子に会わせるのだ。
これをやり遂げなければ、今の自分はどこへも進めない。
その意志は、自分のものと思えないほど“頑な”だった。
もしかしたらそれは、咲子に触れた一瞬の感情の作用なのかもしれないとも思った。
一方では胸を掻きむしられるほど、この仕事の結末が見たいのに、もう一方では弱腰の何かが《見たくない、引き返せ》と警告する。
それは、咲子の声か。それとも自分か。
結局は分からないのだ。ならば、動くしかない。
『間もなく終点。小倉に到着致します。皆様、お疲れさまでした。到着予定時刻は6時25分・・・』
慣れないバスのシートで熟睡できぬまま、春樹は白々と明けてきた窓の外を、カーテンの隙間から薄目を開けて覗いた。
長距離バスを降りた後、在来線と市バスを乗り継ぎ、別府市桜ヶ丘の町田の実家があった場所まで行ってみた。
そこには不動産屋で聞いたとおり、新築の住宅が建てられていたが、その周辺には築40年以上は経っていると思われる家屋が多く、落ち着いた雰囲気の住宅地だった。
春樹はしばらく周辺を歩き回り、庭先で花の水やりをしていた人の良さそうな老人に声を掛けてみた。
「んあ? 町田さんか? あそこは爺さん亡くなって3年くらい空き家になっとったけどな。東京のひとり息子が1年くらい前に売りよったみたいじゃ。ワシは息子の顔たてよう知らんが、ウチのばあさんがずいぶん前に聞いた話じゃあ、何でも、仕事続けられんようになるかも知らんし、資金がいるんじゃとか言うことやったて。何か病気でもしとんやろうかの」
もう1年半以上前から町田は仕事を辞め、家を売って生活資金にすることを決めていたのだろうか。
病気だとしても、なにか釈然としない。
なにしろ、咲子があの日唯一教えてくれた町田の住所は、かなりのへき地だったのだ。
まとまったお金を手元に置き、そんなところに引っ込んでしまう理由も分からない。
咲子も知らない、何かがあるのだろうか。
春樹は老人に礼を言うと、多分最終地点となるはずの、町田の住む東山へ向かった。
その居場所は、咲子自身が3カ月ほど前、時間と金を掛けて、興信所で調べさせたものだったらしい。
ターゲットの最終所在地を、依頼人本人から聞くと言うのは探偵に取って、とても屈辱的な事だったが、今となっては咲子がなぜそれを隠して春樹に依頼して来たのかなど、どうでもいい気がしていた。
なぜ、咲子自身がここへ来ないのかという疑問も、追求するつもりは無かった。
ただ、ただ、春樹は町田に会いたかった。会えば、全ての苦悩から解放される。
会って、咲子にその事を伝える。出来れば咲子に会わせる。そうしなければいけない。そうしなければ・・・。
次第にじわりと背中に汗をかき、鼓動が早くなり、そして焦燥感に足元がふらつく。
そんな異常とも言える感覚の中、延々と農道を歩き、春樹はようやく町田が借りていると言う民家に辿り着いた。
そこは桜ヶ丘の隣町とは思えないほどの山の中で、ポツリポツリと点在する民家と田畑と、そしてすぐ近くに秘境と呼ばれる渓谷があるだけの、長閑な地だった。
町田の家は、リンゴ農園のすぐ横にポツンと添えられたように建つ、作業小屋のような平屋で、申しわけ程度に屋根のあるガレージには、随分とホコリをかぶった黒の軽自動車が停めてあった。
町田のものだろうか。
ぐるりと見渡したが人の気配も物音もなく、ただその空間の時間がずいぶん前から止まってしまっているような、いやな予感だけが蠢いた。
這い上がってくる焦燥感をなだめつつ、呼び鈴もないその小屋のささくれ立ったドアをノックしたり、「すみません」と声を掛けてみたり、ガラス戸を揺すってみたりしたが、反応は無かった。
郵便物を見てみようかと、郵便受けを探したがそれも見つからず、途方に暮れかけていた時だった。
砂利の音を響かせながら、私道に乗り入れてきた白い軽自動車が、その家の前まで来てゆっくり停まった。
運転席の女は少し訝るような目を春樹に向けたまま、ゆっくりと降りてきた。
薄いピンクのナース服に白いカーディガンを羽織っており、一瞬春樹は、往診の看護師なのだろうかと思った。
咲子くらいの年齢だろうか。セミロングの黒髪を後ろで一つに束ねた、小柄で清楚な印象の女だ。
もちろん会ったことなど無いはずなのに、初対面だと言う気がしなかったのが、春樹には不思議だった。
「何か、ご用ですか?」
ナース服の女は、体に見合った細い声で訊いてきた。
「あの、こちらは町田健一郎さんのお宅ですか?」
「町田さんに何かご用でしょうか」
春樹は、以前駅でお金を貸してもらったことがあり、返却のためにこちらの住所を教えてもらったのだという作り話を、再びでっち上げた。
とにかく不審がられずに本人に辿り着きたい、その一心だった。ウソは町田が見つかったあとでちゃんと謝罪すればいい。
幸いなことに、その女は春樹の作り話を疑うこともせずに、「町田さんらしいな。でもきっと町田さんがここにいたら、あなたのこと『馬鹿正直な子だ』って笑うでしょうね」と、寂しそうに微笑んだ。
そしてそのあとの彼女の言葉を、春樹は半ば、気の遠くなる思いで聞いたのだった。
「町田さんね、20日ほど前から行方が分からないの。捜索願いは出てるんだけど・・・見つからなくて」




