第1話 光を追って
十月も終わりだというのに、何てバカみたいに暖かく、世界は光に満ちているのだろう。
女は酔い覚ましの缶コーヒーを、座っていたベンチの端に置くと、自分の世界とは対局にあるような穏やかな街並みをぐるりと見渡した。
車道を挟んだ向かいには、若者で賑わうファーストフード店。
自分が座っているベンチの横には、色とりどりの花を軒下に並べた花屋がある。
全てがしらじらしく陽気で、くすんで腐りかけている自分が滑稽で、嗤いが込み上げてくる。
自分だけが世界の歓喜に背を向けている。
花屋の軒下に、つと、一人の少年が立った。
まるで吸い寄せられるように、店先に並んだ色とりどりの花を見つめている。
女は目だけでその横顔をじっと追った。
少年が無心に花たちを見つめるその表情は、天空から照りつける太陽よりも清純で眩しく見えた。
その透き通るような肌の白さだろうか。
キラキラと亜麻色に光る、絹のような髪だろうか。
それとも、これから花を贈る誰かを想い浮かべて微笑む、その薄紅色の唇のせいだろうか。
目が離せなかった。
女はたぶん、自分が生涯触れることもないだろう清らかな眼差しを盗み見ながら、ひっそりと嗤った。
汚れを知らぬ天使よ。
お前は私の姿など、見えぬだろう。
少年は、店内から出てきた花屋の若い店員に「いらっしゃいませ」と声をかけられると、少し恥ずかしそうに何やら質問した。
店員の女が苦笑して首を横に振ると、少年は再び恥ずかしそうに、ひとつ小さく頭を下げた。
そして花も買わずに、すぐ前の車道を横切り、ファーストフード店に隣接するビルに姿を消した。
「お客さん~。また、その人が元気になったら、いらっしゃいね~」
店員が少年の後ろ姿に掛けた優しげな言葉が、心地よく周りに余韻を残していた。
もう少し見ていたかったな。
そんなバカらしいことを思いつつ、少年が消えていったビルを見上げた。
5階建ての古いテナントビル。
看板には、名も知らぬ会社名に混じって探偵事務所の名もあった。
そんな日陰的存在の企業が、近頃はあっけらかんとこんな所に看板を上げているのかと、女は少しばかり驚いた。
ポカンと無心にそのビルを見上げている女の前を、若いカップルが、嫌なものでも見るように一瞥して通り過ぎてゆく。
咄嗟に二人に鋭い視線を投げつけて見たものの、女は再び物憂げな目つきに戻り、空き缶もタバコの空箱もそのままに、のっそりとベンチから立ち上がった。
◇
春樹は3階の事務所の鍵を開け、電気を付けてから通りに面した窓を全開にした。
美沙が入院中の2週間は事務所を閉めるように美沙に言われていたが、溜まった細かな事務処理や資料の整理、これからの段取りが気になって、とても家にじっとしていられなかった。
「美沙が退院するまで、僕がちゃんと留守番してるから。大人しく治療受けてきてね」
美沙が入院した日。つまり今から5日前、春樹はそう言って市立総合病院をあとにした。
淡々と言っては見たものの、美沙のまさかの入院は実のところ、春樹をとても不安にさせた。
その一週間前から急に体調を崩し、青い顔をしていた美沙は、「ただの風邪よ」と強がっていたが、その数日後の夜いきなり「ごめん、軽い急性膵炎でちょっと2週間ばかり入院することになった」と、病院の外来から電話をくれたのだった。
春樹は不安ですぐに美沙の元に駆けつけたが、MRIやエコー、その他諸々の検査等で結局その日は会えず、その代わり美沙からの手紙を看護師から渡された。
腹の立つほどそれは素っ気なかった。
『春樹へ
・事務所は閉めていい。事務処理の遅れは、あとで何とかする。
・完全看護だから、一人でなんとかなる。心配はいらない。
・広島の母親は心配性だから、連絡しないでほしい。
・あとは長期休暇だと思って、2週間のんびり遊んでちょうだい。 -- 美沙より』
手紙などではない、単なる指示書だ。
春樹は心底がっかりし、何かしおらしい事が書かれているのかと期待した自分にもガッカリした。
“私はただの上司。それだけだよ”
美沙はそう伝えようとしているのだろうか。
2カ月前、春樹の秘密を美沙が、友人の隆也に打ち明けて以来、美沙の春樹への態度は以前にも増して事務的になった。
人の肌に触れるとその相手の記憶、感情を読みとってしまうという春樹の特殊能力。
その秘密を勝手に隆也に打ち明けてしまったという負い目なのだろうか。
けれどもそのお陰で春樹は隆也という本当の意味での友人を得られた。
秘密を知っても尚、春樹への態度を変えず、心の内を気負い無く見せてくれる、奇跡のような友人を。
美沙にも「感謝してる」と伝えたはずなのに。
なぜ美沙は必要以上に自分を避けるのか。
『美沙、避けなくても貴方には触れない。ぜったい心など覗かない』
面と向かって自分は、美沙にちゃんと伝えなければならないのだろうか。
今さら滑稽だが、そうすれば美沙との関係が今まで通り保てるなら、そうしようとまで春樹は思った。
死んだ兄の恋人。姉のように自分を見守ってくれる人。厳しい、けれど尊敬する職場の上司。
それ以上では無いはずなのに、相も変わらず春樹にとって一番怖いのは、美沙が自分から離れていってしまうことだった。
化け物のような能力を持つ、自分から。
不意に入り口のドアがコンコンとノックされた。
春樹はハッとしてドアに目をやる。
アポ無しで客が来ることは今までほとんど無かった。
薫だろうか。それともその兄、最近よく訪れるようになった局長の立花聡だろうか。
「はい、どうぞ。開いてます」
春樹が声を掛けるとドアはゆっくり押し開けられ、やがて様子を伺うように顔を覗かせたのは、40前後と思われる、化粧の濃い、気だるい目をした女だった。
女はアイラインとシャドウで沈着した目元に皺を寄せ、目を凝らすようにじっと春樹を凝視しながら、ゆっくりと後ろ手にドアを閉めた。
“水っぽい”
女を包む、ほの暗い隠微な空気の揺らぎが、春樹にそんな印象を与えた。
「探偵事務所だと思って来たんだけど。な~んだ・・・坊や、ひとりなの?」
そのねっとりとしたローズレッドの唇から出てきた言葉は、少しばかり春樹の自尊心を刺激した。




