過去の栄光にすがる無能上司が部下に(仕事で)ボコボコにされる話
「高橋、お前は本当に視野が狭いな。ビジネスってのはな、もっとこう、鳥の目になって全体を俯瞰しなきゃ駄目なんだよ」
第一営業部のフロアに、郷田部長の無駄に張りのある声が響き渡った。入社5年目の高橋は、手元のキーボードを叩く手を止め、引きつった笑みを浮かべて愛想笑いを返すしかなかった。
時刻は午前10時。本来ならば今日の午後に行われる重要クライアントとの会議資料の最終確認をしたいのだが、郷田はコーヒーカップを片手に、またしても自分の武勇伝を語り始めていた。
「俺がまだ平社員だった2010年代の初め頃とかな、今みたいにコンプラだの働き方改革だのうるさくなかったからな。徹夜に次ぐ徹夜で、足で稼いでクライアントの懐に飛び込んだもんだ。あの何億円って大型契約、俺がいなかったら絶対通ってなかったぞ。それに比べて今の若い連中は、すぐ効率がどうとか言うからスケールが小さいんだよ」
過去の栄光を気持ちよさそうに語る郷田だが、現在の彼にその面影は微塵もない。彼は普段、自席のPCで意味もなくスプレッドシートのタブを切り替えたり、誰に掛けているのか分からない電話で「いやあ、前向きに検討させていただきますよ」と大声で話したりして、いかにも「忙しい有能な管理職」という風を装っている。しかし、彼自身が手を動かして資料を作ることは絶対にない。
「俺は全体の戦略を練る立場で忙しいから、この細かいデータ入力や、午後の会議で使う提案書のフォーマット調整は高橋、お前がやっておけ。成長の機会を与えてやってるんだから感謝しろよ」
そう言って、郷田は中身がスカスカの、ただ思いつきの専門用語を羅列しただけのテキストファイルを高橋に送りつけてくる。結局、過去のデータを引っ張り出し、論理的な整合性を整え、見栄えの良い企画書に仕上げるという「実務」のすべては高橋に押し付けられていた。高橋は毎晩遅くまで残業し、郷田の尻拭いをさせられている。
郷田は効率が悪いだけでなく、とにかくやる気がない。そのくせ、高橋が徹夜で仕上げた企画書が役員会議で褒められると、「いやあ、私の指導の賜物ですよ」と平然と成果を横取りするのである。
午後1時。高橋がようやく提案書の修正を終えようとしていた矢先、郷田がそそくさとジャケットを羽織り始めた。
「よし、じゃあ俺はこれからA社との重要な打ち合わせがあるから、そのまま営業に出て直帰するわ。あとはよろしく頼むぞ」
「えっ、部長? 午後3時からB社の担当者様とのオンラインミーティングが入っているはずですが……提案書の最終確認もまだですし」
高橋が慌てて立ち上がると、郷田は面倒くさそうに手を振った。
「そんなの、お前が適当に繋いでおけよ。こっちはA社の常務直々の呼び出しなんだよ。経営層同士の高度な折衝をお前に理解しろとは言わんが、臨機応変に動くのも部下の仕事だぞ。じゃあな」
言うが早いか、郷田は風のようにオフィスを出て行ってしまった。残された高橋は絶望的な気分で画面を見つめた。B社とのミーティングは、前回の打ち合わせで郷田が「持ち帰って検討する」と約束した見積もりの回答期限であった。しかし、郷田からは何の方針も示されておらず、提案書も未完成のままだ。
案の定、午後3時のミーティングでは、B社の担当者から「まだ見積もりが出ないのか」「郷田部長はどうして欠席なのか」と激しく詰め寄られ、高橋はひたすら頭を下げて謝罪するしかなかった。郷田の携帯に何度電話をかけても、コール音が虚しく響くだけで一向に繋がらない。A社との打ち合わせに向かったはずだが、本当に仕事をしているのかすら怪しかった。郷田の「直帰」は今に始まったことではない。週に三日は「打ち合わせ」と称して午後から姿を消し、翌朝出社しても、どこで誰と何を話したのか、一切の共有がないのだ。
翌朝。郷田はいつも通り、始業時間を15分ほど過ぎてから悠然と出社してきた。高橋は意を決して、郷田のデスクに向かった。
「部長、おはようございます。昨日のB社とのミーティングですが、お約束していた見積もりの提示ができず、先方はかなりご立腹でした。至急、対応方針を決定していただきたいのですが」
「あー、B社ね。まあ、あそこは少し焦らした方がいいんだよ。それより俺は昨日、A社の常務とかなり深い話ができてな……」
「部長!」
高橋は声を荒らげそうになるのを必死に抑え、言葉を継いだ。
「A社様との打ち合わせの件もそうですが、せめて議事録や今後のアクションプランだけでも共有していただけませんか。部長が外でどのような営業活動をされているのか、チームの誰も把握できていません。もっと報連相をしっかりしていただかないと、現場の業務が完全にストップしてしまいます」
正当な要求だった。しかし、郷田の顔から薄ら笑いが消え、代わりに高圧的な見下すような表情が浮かんだ。彼はわざとらしく大きなため息をつき、周囲に聞こえるような声で言った。
「高橋、お前は本当にビジネスの基本が分かってないな。だからいつまで経っても半人前なんだよ」
「……どういう意味でしょうか」
「いいか、『報連相』ってのはな、現場の末端である部下から、責任者である上司にするものなんだよ。上司から部下にするものじゃない。俺がいちいちお前みたいな平社員に『今からここに行きます』『こういう話をしました』なんて報告してどうする? 俺は全体を統括するマネージャーなんだぞ。俺の背中を見て、俺の高度な戦略を自分で察して動くのが、優秀な部下ってもんだろ。いちいち指示待ちで、報連相がないと動けませんなんて、甘えるのも大概にしろ」
身分制度のような理屈だった。役職という圧倒的な権力勾配を利用し、自らの怠慢と無責任さを正当化する見事な詭弁である。高橋は悔しさで唇を噛み締めた。何を言っても無駄だ。
この男は、自分を正当化するためならどんな屁理屈でもこねる。高橋が反論を諦め、うつむきかけたその時だった。
「いつもお世話になっております。郷田部長、少々お時間をよろしいでしょうか」
凛とした、しかし冷ややかな響きを持つ声がフロアに落ちた。振り返ると、そこにはダークスーツを隙なく着こなした人事課の神崎が立っていた。彼女は若手ながら、社内のあらゆる規程や法律に精通している女性だった。
「なんだ、人事の神崎くんか。こっちは営業の最前線で忙しいんだが、何か事務的な手続きのミスでもあったか?」
郷田は面倒くさそうに椅子にふんぞり返ったまま応じた。神崎は表情を一切崩さず、手元の分厚いファイルを開いた。
「急なお願いで申し訳ありません。実は、郷田部長から提出されている経費精算書および業務報告書について、いくつか確認させていただきたい事実がございまして参りました」
極めて丁寧な敬語であった。しかし、その言葉の裏には有無を言わさぬ圧力が潜んでいる。神崎はファイルから一枚の書類を取り出し、郷田のデスクに置いた。
「まず、こちらの先月分の交通費申請についてです。郷田部長は、C県への営業のために特急券を利用したとして、往復で1万2千円の交通費を申請されておりますね」
「ああ、そうだ。遠方への出張だからな。それがどうかしたか?」
「おかしいですね。わたくしの方で、部長に支給されている交通系ICカードの利用履歴と、経路検索ツールのデータを照合いたしました。特急券の予約システム上の履歴を確認したところ、部長は出発の直前に特急券をキャンセルし、全額払い戻しを受けていらっしゃいます。そしてICカードの履歴によれば、在来線を乗り継いで現地に向かわれている。つまり、実際には発生していない特急料金の差額、8千円を不正に受け取っていることになります」
郷田の顔がピクリと引きつった。
「な、なんだと? それは……急に予定が変わって、在来線で行くことになったんだ。払い戻しの申請は後でまとめてやろうと思っていて……」
「なるほど、失念されていたと。では、次はこちらの接待交際費の領収書です」
神崎は郷田の言い訳を完全に無視し、次々と書類を並べていく。彼女の指摘は、相手の人格を否定するものではなく、ただひたすらに客観的事実と数字の矛盾を突く、完璧なネガティブフィードバックであった。
「昨日の午後、A社の常務様と重要な打ち合わせと会食があったとして、高級寿司店の領収書、計3万円分が提出されています。しかし、大変申し上げにくいのですが、A社の常務様は今週一週間、海外視察のため日本にいらっしゃいません。念のためA社の人事部にも確認を取りましたが、昨日、御社と郷田部長との接触は一切なかったとの回答を得ております」
フロアが一瞬にして静まり返った。周囲の社員たちも、事の重大さに気づき、息を呑んで成り行きを見守っている。
「さらに申し上げますと」
神崎の声は一段と冷酷さを増した。
「昨日、部長が『直帰する』と言ってオフィスを出られた午後1時以降の会社支給スマートフォンのGPSログを確認いたしました。部長の現在地は、午後2時の時点でご自宅最寄りのパチンコ店に長時間滞在していたことを示しております。その後、夕方にご自宅近くの寿司店で決済が行われており、その時刻はクレジットカードの履歴とも完全に一致しております。つまり、業務とは全く関係のない私的な遊興費と飲食代を、架空の取引先との接待と偽って会社に請求したことになります」
「なっ……! お前、俺のGPSやカード履歴まで調べたのか! プライバシーの侵害だぞ!」
郷田が顔を真っ赤にして立ち上がった。しかし、神崎は微動だにしない。
「会社支給の端末および法人カードの利用履歴を内部監査の目的で調査することは、就業規則第42条に明記されており、同意書にもご署名いただいております。架空の接待を偽装し、私的な飲食費を経費として請求する行為は、社内規則違反にとどまらず、刑法上の業務上横領罪および詐欺罪に該当する重大な不法行為です。また、このようなカラ出張や不正経費が税務調査で発覚した場合、会社は重加算税などのペナルティを負うことになります」
追い詰められた郷田は、理性を失い、獣のように吠えた。
「ふざけるな! 俺がどれだけこの会社に貢献してきたと思ってる! 昔の何億円もの契約を取ってきたのは俺だぞ! お前みたいな人事の事務屋に、現場の営業の何が分かる! 俺の高度な営業戦略が理解できないからって、重箱の隅をつつくような真似をしやがって!」
「高度な営業戦略、ですか」
神崎は初めて、ほんのわずかに口角を上げた。それは明確な嘲笑だった。彼女はファイルから最後の一束を取り出し、叩きつけるように置いた。
「では、部長のその『高度な仕事』の成果を拝見しましょう。こちらは部長が先週提出された、来期の新規事業企画書です。一読いたしましたが、市場分析のデータが5年前のものから全く更新されておらず、現在の市場動向を完全に無視しています。また、予算計画における原価計算の数式に致命的な誤りがあり、消費税の計算すら間違っております。専門用語を並べているだけで、論理的な整合性が皆無であり、企画書としての体をなしていません。これを『高度』と呼ぶのであれば、わたくしの認識とは随分と隔たりがあるようです」
「うるさい! それは……まだ叩き台だ! そもそもお前らに俺の代わりが務まるのか!? 営業は人と人との繋がりだ! 俺がいなきゃ、B社との契約だって……!」
「ああ、B社様の件でしたら、ご心配には及びません」
神崎はあっさりと郷田の言葉を遮った。
「昨日、部長がパチンコ店で『高度な戦略』を練っていらっしゃる間、高橋さんからB社様とのミーティングでトラブルになっていると報告を受けました。わたくしの方で過去のデータを精査し、適正な原価計算に基づいた新しい提案書と見積もりを即座に作成いたしました。その後、高橋さんと共にB社様へ直接赴き、詳細な説明と謝罪を行った結果、先方からは大変ご満足いただき、つい先ほど、正式に契約締結の内諾を頂戴いたしました」
郷田は目を見開き、口をパクパクとさせた。彼が何週間も放置し、高橋に丸投げしていた案件を、人事課の神崎はたった半日で、しかも完璧な形で終わらせてしまったのだ。自分には到底できないレベルの、緻密で迅速な実務能力を目の前で見せつけられ、郷田の「有能なマネージャー」という虚像は音を立てて崩れ去った。
「報連相は部下から上司にするものだ、とおっしゃいましたね」
神崎は冷ややかに郷田を見下ろした。
「わたくしは人事部として、会社の利益を損なう阻害要因を排除する義務があります。郷田部長、あなたのこれまでの不正請求の総額と、職務懈怠に関する報告書は、すでに取締役会に提出済みです。今後の処分については、後ほど懲罰委員会から正式な通達があるでしょう。本日はその『ご報告』に参りました。……何か、ご不明な点はございますか?」
郷田は何も言い返すことができなかった。顔面は蒼白になり、膝から崩れ落ちるように椅子にへたり込んだ。彼が振りかざしていた役職という権力も、過去の栄光も、客観的な証拠と圧倒的な実務能力の前では何の役にも立たなかった。
高橋はその光景を、深い安堵とともに見つめていた。溜まりに溜まった胸のつかえが、一気に洗い流されていくようだった。フロアには、完全に沈黙した郷田の荒い息遣いだけが響いていた。
☆
その後、郷田は呆然としたまま人事部の他の職員に付き添われ、フロアを後にした。
騒動が落ち着き、日常の静けさを取り戻したフロアで、高橋が大きく息を吐き出していると、ふわりと良い香りが漂ってきた。
「はい、お疲れ様。コーヒー置いとくね」
振り返ると、そこには先ほどまでの冷徹な面影をすっかり消し去り、柔らかい微笑みを浮かべた神崎が立っていた。彼女の白い手から、温かい缶コーヒーが差し出される。
「あ、ありがとうございます。神崎さん、その……B社の件、本当に助かりました。でも、どうして僕が困っていることや、これまでのデータを知っていたんですか?」
高橋がコーヒーを受け取りながら尋ねると、神崎は少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「いつも仕事頑張ってるのみえたから……って言いたいところだったけど、毎晩一人だけ残業増えてましたからね」
「あ、なるほど、人事課なら終業時間知ってるのか」
「それに、郷田さんのパワハラの報告は上がってましたから。さて、これからは存分に実力を発揮してくださいね」
その言葉に、高橋の胸の奥で何かが熱く弾けた。張り詰めていた緊張が解け、自然と笑みがこぼれる。
「……あの、神崎さん。今回の件、本当に感謝しています。もしよろしければ、今度改めてお礼をさせてください。……その、食事でも、行きませんか?」
高橋の勇気を振り絞った提案に、神崎は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、そして、花が綻ぶような美しい笑顔を見せた。
「ええ、構いませんよ。……でも、経費じゃなくて、ちゃんと自腹で美味しいものをご馳走してくださいね?」
「も、もちろんです!」
二人の間に流れる穏やかな空気が、これまでの理不尽な日々が完全に終わったことを告げていた。




