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短編&中編集

筋肉悪役令嬢リオラーナは転生者。そして筋肉は全てを解決する

作者: 初音の歌
掲載日:2025/11/28

 貴族学園の大舞踏会は、本来ならば甘い囁きと社交辞令に満ちた夜になるはずだった。


 天井から吊るされた水晶のシャンデリアが、無数の灯に照らされてきらめく。磨き上げられた大理石の床には、ドレスの裾が幾筋もの波を描き、楽団が奏でるワルツがゆるやかに空気を満たす。


 ――その音楽が、唐突に止まる。


 王太子フェリクサルが、壇上の中央へと歩み出たのだ。隣には、薄桃色のドレスをまとった小柄な男爵令嬢ミィナ。彼女は困ったように、けれど勝ち誇りも隠しきれず、フェリクサルの腕にそっと手を添えている。

 ざわ……と会場の空気が震えた。


「リオラーナ・マルクス!」


 高らかな声が、広間の隅々にまで響き渡る。

 その名を呼ばれた公爵令嬢は、ゆるやかに振り向いた。


 銀糸のような長い髪が、灯りを受けてきらりと揺れる。切れ長の翡翠色の瞳が、すっと王太子をとらえた。今宵のドレスは深い群青色。背中は大きく開き、しなやかな肩甲骨のラインを、見る者にきっぱりと主張している。

 完璧な淑女の装い。完璧な所作。

 そして、一切揺るがない眼差し。

 その視線に一瞬ひるみながらも、フェリクサルは胸を張り、宣言する。


「リオラーナ! お前との婚約は破棄させてもらう!」


 楽団員の一人が、驚きのあまりシンバルを落とした。カシャーンと乾いた音が響く。

 会場中がどよめいた。


「婚約破棄だって……?」

「相手、公爵令嬢よ? 正気?」

「いやでもリオラーナ様だぞ? あの……」

「王太子ともあろう人が、何を考えて……」

「しっ、聞こえる!」


 ひそひそ声が飛び交う中、王太子の側近の一人――幼なじみである侯爵家嫡男シグルドが、青ざめた顔で前に出た。


「で、殿下!? 本気でおっしゃっているのですか!? ここでそれを宣言なさるのは、さすがに――」

「黙れ、シグルド!」


 フェリクサルは振り払うように手を振り下ろす。


「俺は、真実の愛を見つけたのだ! このミィナこそ、俺の運命の相手だ!」

「あの……お、おそれ多いことでございます、フェリクサル殿下……」


 ミィナは頬を赤らめ、胸の前で指をもじもじと絡める。

 周囲の令嬢たちが「出たわ、真実の愛」「これ絶対ろくなことにならないやつじゃない?」と、冷静な目で見ている中、ただ一人、当事者である公爵令嬢は――驚くほど静かだった。


 リオラーナは、一歩前に出る。

 姿勢は揺るがない。背筋は弓のようにしなり、顎は品よく上がり、視線はまっすぐ。

 その一歩のたびに、床に響く靴音がやけに頼もしい。太腿からふくらはぎにかけてのラインは、肉感的でありながら一切のたるみがない。まるでしなやかな猛獣のよう。

 リオラーナは落ち着いた声で問いかける。


「その言葉……今なら撤回できますが、それで良いのですね、フェリクサル殿下?」


 ざわっ、と再び会場が揺れた。

 責めるようでも、泣きそうでもない。そこにあるのは、ただ確認を求めるまっすぐな視線だけ。

 逃げ道を用意した上で、退路を残している――とても理性的で、とても大人な問いかけだった。

 ……だからこそ、王太子の胸にチクリと刺さる。


(やめろ、その余裕が腹立つんだ!)


 フェリクサルは、一瞬だけ目をそらしてから、ぐっと歯を食いしばった。


「か、変わらない。俺の決意は変わらない!」

「……理由を、伺っても?」

「理 由?」


 王太子の喉が、ごくりと鳴る。言うべきか、それとも濁すべきか。側近シグルドが「やめろ殿下、その先は墓穴だ」と目で訴えるが、真実の愛に燃える王太子には届かない。


「俺は……!」


 フェリクサルは両手を固く握りしめ、叫んだ。



「俺はミィナと出会って愛を知ったんだ! お前との思い出は――筋肉しかないんだよ!!」



 沈黙。

 楽団員の一人がこっそり譜面を閉じた。

 その場にいた全員が、瞬きも忘れる。

 次の瞬間。


(((ああ……)))


 会場中の誰もが、心の中で同じ溜息をついた。

 それは同情であり、理解であり、若干の「まあ、そうだろうな」という納得だった。


 なぜなら、そこにいる公爵令嬢は――


 あまりにも、美しく、あまりにも、仕上がっていたのだ。

 その、筋肉が。


 うっすらと開いた背中のライン。肩甲骨の周囲には一切の無駄肉がなく、絹の布地がなめらかな隆起をなぞっている。ほどよく張り出した広背筋が、呼吸に合わせてわずかに上下し、見る者の視線をさらって離さない。

 腰は、きゅ、と信じられないほど細くくびれている。

 それでも肋骨のラインが浮いたりはしない。しなやかな筋肉が内側から支え、全体のバランスを保っているからだ。

 スカートの裾からちらりとのぞく足首は、白く、細く――だが、そこから太腿にかけてのラインを想像してしまった一部の令息たちは、同時に自分の足を見て敗北を悟った。


(俺より確実に速く走れる)

(いや、むしろ俺なら抱えて走られそうだ)


 腹筋もまた、噂に違わぬものだった。

 以前、体術の授業で軽装の訓練服姿を目撃してしまった男子生徒たちは、その日の晩、半数が枕を濡らしたという。

 うっすらと浮き上がる縦線。

 しかし、いわゆる「バキバキ」にはなっていない。女性らしい柔らかさは残したまま、ただ余計な脂肪だけを丁寧に削ぎ落としたような、職人技の肉体美。


 美と実用の、奇跡的な均衡。

 理想の肉体。

 その当人は――今の現状に、実は結構困惑していたりする。



(うーん。結局、前世の乙女ゲームと同じ展開になってしまったわ……何故かしら?)



 彼女、リオラーナ・マルクスの内に宿りし魂は、この世界のものではない。

 元は現代日本で生きていたOLの魂。

 それも筋肉フェチだった、乙女ゲー好きな女の魂である。


(きっちり、シナリオ通りのセリフだったわ。ほんとに「お前との婚約は破棄させてもらう」って言った。テキスト通り。音声付き)


 彼女は、内心で軽くため息をついていた。

 前世で遊び倒した乙女ゲーム『光翼のプリンス☆ラブメモリア』。

 このシーンは、悪役令嬢リオラーナが婚約破棄され、悪事を暴かれ、

 ざまぁルート開幕――のはずだった。


(でも、私、悪事なんて何もしてないのよね。してることといえば、筋トレと勉強と、筋トレと、あと筋トレくらいなんだけど)


 原作ならば、ヒロインへのいじめはあった。

 貴族間の陰謀もあった。

 国家を揺るがす大事件だってあった。

 けれど、今生のリオラーナは一切そんなことはしていない。


(なのに、イベントは同じように婚約破棄。うーん……何故かしら?)


 彼女は本気で考える。

 しばし逡巡していると――王太子の叫びが届いた。


「お前と居ると、はっきり言って、男として自信なくすんだよ!!」


 フェリクサルの叫びが、妙に切実だ。


「以前、街中で起こったことを覚えているか!? 街で馬車が暴走したとき! お前、何をした!?」

「馬を、止めましたが?」


 リオラーナは小首を傾げる。


「止めるってレベルじゃなかっただろうが! あれは、馬車ごと突っ込んでくる暴走馬二頭を――」


 王太子は震える指で、ぐいっとリオラーナを指し示した。


「――片手でつかんで、投げ飛ばしただろうが!! 人間かお前は!!」

 

 会場中が、どよめきの嵐に包まれた。


「あれ片手だったの!?」

「てっきり二頭をそれぞれ両手でかと思ってた」

「いやそこじゃないでしょ!?」

「やはり公爵令嬢は次元が違う……」


 ざわざわと会場に広がる声。

 だが、そんな声を雑音とでも言うように、リオラーナの表情は変わらない。


「失礼な。あれは、全て筋肉の賜物です」


 リオラーナは、淡々と返す。

 そして――

 すっと背筋を伸ばし、片腕を少し開き、肩、背中、腰へと流れるように力を入れる。


「……っ!」


 誰かが息を呑む。

 ドレス越しにも、肩から背中にかけて、しなやかな筋肉の起伏が浮かぶ。

 広背筋のラインが、布越しに美しく波打つのだ。


 何人かの令嬢が、顔を赤らめた。

 中にはハンカチを口元に当て、目を伏せる子もいる。

 王太子の隣で、ミィナが小さく悲鳴を上げた。


「り、リオラーナ様……! 女の子がパーティーでそのような……そのような……筋肉アピールを……!」

「筋肉です。全ては筋肉が解決します」


 リオラーナは真顔だ。

 真剣に、心の底からそう思っている顔だ。


(実際、馬車は止まったし、子供たちは誰も怪我しなかったし、それでいいじゃない)


 そう心の中で肩をすくめる。筋肉の一体何が悪いのかと。

 思い出すのは、転生した直後のこと。

 ぷにぷにの赤ん坊ボディ。

 首も座らず、手足は棒きれ、握力ゼロ。


(何だこの非力。何だこの貧弱。これでは筋肉が育たないではありませんか)


 泣き声すら出さず、内心で憤慨した元・筋肉フェチOLの魂。

 そこへ、元のリオラーナの魂が「将来、公爵令嬢として美しくありたい」と願いながら混ざり合い、摩訶不思議な合体事故を起こして――。


 そして生まれたのが、今のリオラーナ・マルクスである。


 理想の筋肉を求めて鍛え続ける令嬢。

 あらゆる面でやりすぎている美筋肉令嬢が爆誕した。


 ……ちなみに、原作のリオラーナ・マルクスはこんな筋肉していない。

 原作の彼女は、物語のラスボスとして、呪術の暗黒魔法を駆使する「魔皇女」となり、主人公ミィナの前に立ち塞がるのだ。


 けれど今のリオラーナは違う。

 呪術や魔法用の莫大な魔力量が「肉体強化」と「回復」にほぼ全振りされ、「効率的な負荷管理」「超回復のための循環」として筋トレ理論に転用。

 結果的に、今のマッチョ令嬢になってしまった。


 だがしかし、リオラーナ本人は今の身体に不満がある。


(もっとこう……バッキバキのムッキムキになりたかったのだけれど)


 どんなにナイスバルクを求めても、元の身体は繊細な貴族令嬢だ。

 まるでゲームシナリオの整合性を保たせる為か、彼女の筋肉の盛り上がりはここが限界。

 美しい令嬢ボディの範疇から逸脱しない見た目に、落ち着いてしまった。


(骨格的にも美的にも、このあたりがギリギリの落としどころなのね……くっ、乙女ゲーム世界め……)


 リオラーナは内心で歯噛みしつつも、表情には一切出さない。顔だけは完璧な悪役令嬢仕様。涼しげな目元にわずかな笑みを浮かべ、王太子を見下ろす角度も計算済み。

 フェリクサルは、そんな視線から逃げるように叫んだ。


「お、俺はずっと、自信を無くしてきたんだ……っ。

 剣の稽古をすれば、お前のほうが重い剣を軽々振る。

 馬術の授業をすれば、お前は馬を片腕で制してしまう。

 競技会では、リレーも駆け比べも全部一位。

 ダンスの授業ですら、お前にリードされそうになったんだぞ!?」

「だって殿下、ぐらついていらしたので」


 さらりと返すリオラーナ。


「バランスを崩して転倒なさったら危険かと。支えただけですわ」

「腰をがっちり固定されて前に持っていかれるリードがあるか!!」


 フェリクサルの悲痛な叫びに、会場のあちこちから「あー……それはまあ、なぁ」と同情の声がちらほらと。口出しはしないが、気持ちは解る。そんな空気。

 その空気を感じて、さしものリオラーナも気付く。


(……あれ、私、そんなにやり過ぎてた?)


 リオラーナは、ほんの少しだけ反省した。

 が、それも一瞬だけ。


(でも、筋肉は裏切らないし……健康にも良いし……)


 最終的に「まあいっか」と結論が出た。

 王太子は、深呼吸を一つ。


「だから、俺は決めたんだ。俺はミィナと共に歩む! お前との婚約は、ここで打ち切らせてもらう!!」


 宣言。

 ミィナは、きゅっと殿下の袖を握る。

 会場は静まり返った。


「出ていくがよい! この会場に貴様の居場所は無い!」


 もはや言葉の選び方も滅茶苦茶だが、感情だけは本物だ。

 側近シグルドは「うわぁ……」と顔を覆った。

 これで明日から、宮廷と公爵家の板挟み生活が確定したからである。

 リオラーナは、王太子の宣言を静かに受け止めた。


 そして――。


 すらりとした動きで、スカートの端をつまみ、完璧な角度で一礼する。

 その一瞬だけ、背中の筋肉が美しい紋様のように浮かび上がる。


「かしこまりました、殿下。では、私はこれにて。……どうぞ、末永くお幸せに」


 最後の言葉は、皮肉とも本心とも取れる、絶妙な柔らかさだった。

 彼女が踵を返す。

 道は、自然と開いた。

 誰も、止めない。止められない。


 だって――怖いのだ。


 貴族学園で最強の筋肉、とまで噂される令嬢である。

 近衛騎士の令息たちや軍務貴族の子息を、模擬戦で軽々と投げ飛ばしてきた猛者である。


「ど、どけ」

「踏まれたら、たぶん死ぬ」

「いや、さすがに死にはしないだろうけど、誇りは砕けるな」


 ひそひそと道を空ける男たちをよそに、リオラーナは、静かに会場の出口へと歩いていく。

 すれ違いざま、令嬢たちが小声で囁き合った。


「……リオラーナ様、やっぱり、かっこいいわね」

「うん。婚約破棄されてるのに、全然負けてる感じがしない」

「っていうか、むしろ解き放たれた感じあるわよね」

「筋肉にとっての足枷が外れた、みたいな……」

「それ絶対、本人に言わないでね?」


 そんな声が聴こえる。

 リオラーナは、その声を聴きながら、真紅の絨毯の上を、一定のリズムで歩いていく。

 コツ、コツ、と響くヒールの音は、いつも通り落ち着いている。

 婚約破棄をされた令嬢が、涙も見せずに颯爽と去っていく――それだけでも十分、明日の学園の話題を独占できるだろう。


(さて、この後の対応を考えないといけないわね……父と母への報告、王宮からの正式文書の段取り、侯爵夫人たちの噂話の火消し……)


 頭の中では、すでに実務的な段取りが次々と組み立てられていく。

 ……と、その時だった。


「待ってくれリオラーナ!」


 真っ直ぐな声が響いた。

 リオラーナの背筋が、ぴくりと震える。


(…………あ)


 聞き覚えのある声。いや、聞き覚えどころか、前世で何十時間と耳に擦り込んだ「推しボイス」に極めて近い音域。

 ゆっくりと振り返る。

 そこにいたのは――赤毛の青年だった。

 陽に焼けた健康的な肌。よく動く眉と、やわらかく垂れた茶色の瞳。少し乱れた礼装の襟元から、鍛え上げられた首筋と鎖骨のラインが覗いている。


 武門貴族ヴァルクス子爵家の嫡男、カイ・ヴァルクス。

 同級生。そして――



(ああああああぁぁぁぁ! カイィィィィィィィ!! ……もう駄目、尊い)



 前世の乙女ゲームの攻略キャラの一人。

 中でも、彼は「最推し」だった。筋肉モリモリマッチョマンだった。


 戦いは好まない。だが、戦いから逃げない。

 人当たりの良さと、筋肉の説得力を同時に持つ、希少種。

 肩幅は広く、胸板は厚い。盛り上がったそれは、実用一点張りの武人の筋肉。前腕の血管が、礼装の袖の隙間からちらりとのぞく。立っているだけで、足腰の安定感がこちらに伝わってくる。


(やめて、その素朴マッチョフェイスで真っ直ぐこっちに走ってこないで……! 心臓のプロテインが足りなくなる……!)


 内心の悲鳴を、顔には一切出さない。

 筋肉令嬢リオラーナ・マルクスは、狼狽えない。少なくとも、表情筋では。

 リオラーナは、ほんの一拍だけ呼吸を整えると、何事もなかったかのように口を開いた。


「……どうしましたカイ。いけませんよ、私に近寄っては」


 声音は穏やかで、少しだけかすれているようにさえ聞こえる。

 それは婚約破棄された令嬢が、必死に気丈に振る舞っている――と傍目には見えてしまう、完璧なトーンだった。

 実際は、推しの肉体と声圧に、精神が軽くバーベル落下事故を起こしているだけなのだが。

 カイは、息を弾ませながらも、まっすぐな眼差しで彼女を見つめていた。


「リオラーナ……さっきのは……!」

「カイも見たでしょう。衆目の前で婚約を破棄された私を。こんな私に近づいては、貴方までよからぬ中傷を受けてしまう。さあ、離れてください」


 淡々と告げるその言葉には、自嘲も恨みもなかった。

 あるのは、推しの将来を案じる、筋肉ガチ勢としての冷静な判断だけ。


(理由はどうあれ、私は今日、完全に訳アリ令嬢になったのよね……)


 前世の記憶が教えてくれる。

 ここから始まるのは、悪役令嬢の転落フラグラッシュだ。


(そんなルートに、愛しの推しを巻き込みたくないのよ。YESマッチョ、NOタッチ。推しの筋肉は尊び、しかしその人生に余計なデバフはかけない――それが私の矜持……!)


 元OL時代から変わらぬ鉄則である。

 そこに公爵令嬢としての責任感が加わり、結果として「超ストイック自己犠牲系筋肉令嬢」が誕生した。

 カイは、その言葉に首を横に振った。


「駄目だ!」


 彼の声は、強く、しかしどこか震えていた。


「今の君を一人になんてしておけない……中傷だって? 君から離れる事が正しい? ……冗談じゃない、たとえ全身を切り刻まれようと、俺は君を見捨てたりしない」


 周囲の空気が、一瞬止まる。


(ああああああああああ! ……素敵)


 リオラーナの理性が、がくんと揺れた。


(そう。これよ、これ。この不退転の覚悟とも言える熱さが、カイの魅力なのよ……! 筋肉といい性根といい……最高。何この剛と柔のバランス、聖騎士系マッチョなの?)


 前世のゲーム画面が脳裏にフラッシュバックする。

「どんな傷を負っても、お前だけは守る」とか、「俺が盾になる」とか、そういう台詞に何度も屈した記憶が、今ここに現実として再生されている。


(やめて、リアルの破壊力、ボイス付きフルボディは反則なのよ……!)


 本気でその場に崩れ落ちそうになる膝を、太腿の筋肉でどうにか支える。

 ドレスの下で、リオラーナの足筋がギリギリと踏ん張った。筋肉がなければ尊さで倒れていた。筋肉は命を守る。

 外側から見れば――気丈にも健気に堪える、悲しみの令嬢。


「……私のことはお気になさらず、カイ。私は大丈夫ですわ。少なくとも、私の筋肉は無傷です」

「筋肉の心配を優先した!?」


 思わず素のツッコミが出るカイ。

 だが、その声音には、怒りでも呆れでもなく、安堵が混じっていた。

 婚約破棄をされた直後だというのに、筋肉の話をしている。

 それは、彼女がまだ折れていない証拠に思えた。


 カイは、改めてリオラーナに一歩近づく。


 その動きで、礼装のジャケットの下の胸板がわずかに盛り上がる。

 生地越しに伝わる厚み。剣を握ってきた者の肩の張り。

 リオラーナの視線が、一瞬だけそこに吸い寄せられた。


(大胸筋の盛り上がりが、礼装に対してギリギリの攻防線を……いや落ち着きなさい私。今は鑑賞会じゃない)


 自分で自分にツッコミを入れ、無理やり顔を上げる。

 カイは、そのまま彼女に手を差し伸べた。


「行こう。君を家まで送り届ける……こんなパーティー、こっちから願い下げだ」


 握りやすい大きさの掌。

 武人らしい、節のしっかりした指。

 けれど、爪は短く整えられ、手の甲には不要な装飾もない。「戦う貴族」の手だ。


 カイは振り返らない。

 背後からは、まだかすかに王太子の怒鳴り声が響いている。


「カイ! 何をやっている!? そいつは――」

「殿下、これ以上はさすがに……!」

「シグルド、放せ!」


 背後のドタバタ劇を、カイは一切無視した。

 ただ前を向いたまま、言葉だけをリオラーナに投げる。


「俺は君を、一人で歩かせたくない。……それがどんな道でも、だ」

(~~~~っっ!!)


 リオラーナの脳内で、何かが爆発した。


(ちょっと待って、その台詞、ゲームの好感度MAX一歩手前のイベントで聞いたやつなんだけど!? なに、現実世界、私の前世プレイデータ参照してるの!?)


 あまりの尊さに、視界の端が一瞬白く飛ぶ。

 だが――ここで倒れるわけにはいかない。

 この手を取らずに、どうする。


(……そうね。推しの人生に余計なデバフはかけたくない。けれど今、彼は自分の意志で手を差し伸べている)


 リオラーナは、そっと自分の手袋越しの右手を見る。

 細く長い指。

 けれど、その内側には、鍛えられたグリップ力が詰まっている。


(ここで突っぱねるのは、推しの覚悟への不敬だわ)


 覚悟を決めて、リオラーナは一歩近づいた。


「……では、お言葉に甘えましょう、カイ」


 すっと伸ばされた彼女の手が、カイの掌に重なる。

 瞬間、カイの指が、決して強すぎず、しかし確かな力で彼女の手を包み込んだ。

 温かい。


 剣の柄を握り締めてきた掌の熱。

 訓練の積み重ねを物語る硬さと、丁寧に手入れされた肌の滑らかさ。


(尊すぎて、握力がバグりそう……)


 危うくカイの手を握り潰しかける自分の筋力を、必死でセーブするリオラーナ。

 外から見れば、ただ上品に手を重ねているだけにしか見えない。


「……ありがとう、カイ」

「礼なんていらない。俺がそうしたいだけだ」


 短いやりとり。その後は、言葉少なに二人は歩き出した。

 カイが一歩前、その半歩後ろをリオラーナが歩く。

 廊下に並んで響く二人の足音は、不思議とよく揃っていた。

 すれ違う侍従やメイドたちは、驚いたように目を見張り、それから慌てて頭を下げる。


(あれ、ヴァルクス子爵家の若君じゃない?)

(あの方、リオラーナ様をお送りするのね……)

(まあ……なんて男前)

(これは明日から噂がすごいことになりそうですわ)


 そんな視線を背中で受けながらも、二人は気に留める様子もない。

 ――いや、内心で一人だけ、ものすごく気にしている者がいた。


(やばい。これ、どう見ても乙女ゲーム的には「フラグ構築イベント」……!)


 リオラーナは冷静な顔のまま、心の中で頭を抱える。


(ヒロインはミィナで、カイは攻略対象で、私は悪役令嬢のはずなのに……何このルート逸脱。筋肉でシナリオねじ曲げた結果がこれなの?)


 だが、隣で歩くカイの肩のラインを見ると、見事に服越しにもわかる僧帽筋の起伏がある。


(…………まあ、いっか)


 推しマッチョと並んで歩く幸福感が、ゲームシナリオへの罪悪感を圧倒的に上回っていく。

 こうして――

 王太子の怒鳴り声がくぐもって響く大広間を背に、

 武門貴族の青年カイ・ヴァルクスと、筋肉令嬢リオラーナ・マルクスは、堂々と会場を後にした。


 こんなパーティーなど、確かに願い下げだ。

 少なくとも、今のリオラーナにとっては――


(推しと並んで歩ける、この帰り道のほうが、よほど価値ある時間だもの)


 そう思いながら、彼女は一歩一歩、しっかりと前へ進んでいくのだった。





◇ ◇ ◇





 ――と、そんな話を、リオラーナの父である、マルクス公爵は早馬からの通達で知った。


 頭が痛い。独断で婚約破棄を宣言した王太子の行動もそうだが、平然と去ったという娘にも頭痛がする。いくらでも反論することが出来た筈だ。

 それなのに平然と立ち去った。それはつまり、


「……妃の地位など、やはり些事に過ぎなかったか」


 がっくりと項垂れる。

 娘の行動は、昔からよく解っている。その行動原理も。

 あの娘は、今も昔も、筋肉の事しか頭に無いのだ。






 あれはまだ、リオラーナが小さかった頃。

 小さな娘が立ち上がり、歩くのにも慣れて、乳を飲まなくなった頃の事。


 あの日、公爵が一番頭を抱えていたのは、政務ではなく、ダイニングテーブルの「上」の光景だった。


「リオラーナ。……本当に、それでいいのか?」

「はい、お父様。今日も鶏胸肉とブロッコリーをお願いします」


 まだ椅子に座ると足がぶらぶらしてしまう、3歳そこそこの愛娘が、真剣な顔で答える。

 白いワンピースに、きちんと結いあげられた銀の髪。

 背筋は、なぜか大人顔負けにまっすぐ。

 何より、その瞳の光が妙に「覚悟」に満ちていた。


「昨日も一昨日も、それだったろう」

「はい。筋肉のためですから」

「……筋肉?」


 公爵は、額に手を当てた。

 マルクス公爵は、決して娘を甘やかしているわけではない。

 礼儀作法は厳しく教え、勉学もきちんとさせている。

 その結果、娘は――


「お父様、おはようございます。本日も素晴らしい朝ですね」


 裾をつまんで優雅にカーテシーをして見せる。

 完璧な角度。完璧なタイミング。3歳児に求めている以上の完成度。

 問題児、というわけではない。

 むしろ、驚くほど手のかからない娘である。


 礼儀作法は、この年齢にしては異常なほど身についていた。

 椅子の座り方、スプーンの持ち方、ナイフとフォークの角度。

 一度教えたことは、ほぼ完璧に再現する。


「リオラーナお嬢様は、本当に教え甲斐のあるお子様でございます」


 と、礼法の教師たちは口を揃えた。

 家庭教師からの評判も上々だった。


「勉強の時間を一度も嫌がらない子供など、初めて見ました」

「問題を解いている時の集中力は、大人顔負けです」


 ――が、その理由が問題だった。


「正しい背筋が、正しい筋肉をつけます。礼法は、筋肉を美しくしてくれるのです」


 鏡の前で姿勢を矯正されながら、リオラーナは真顔で言った。


「背筋が曲がれば、筋肉のつき方も歪みます。立ち姿の美しさは、筋肉の美しさ。ゆえに礼法の鍛錬は、筋肉への道なのです」


 礼法教師は感動していた。


「なんと高い志なのでしょう、公爵様!」


 一方、公爵は心の中で思った。


(……なぜ礼法から筋肉の話になる?)


 勉学に関しても同様だ。


「リオラーナ、算術は好きか?」

「はい、お父様。負荷の調整には計算が必要です。重さの割り振りを間違えると、筋肉を痛めてしまいますから」

「……そうか」

「正しい知識なくして、正しい筋肉はつきません。学びの後に、筋肉は生まれるのです」


 さらりと言ってのける娘に、公爵はそっと目を閉じた。

 何かがおかしい。

 致命的ではないが、根本的にどこかが違う。


 とはいえ、健康的に運動し、礼儀正しく勉強熱心な娘に、強く口出しする理由もない。


 その頃のリオラーナの運動といえば、庭でのかけっこや、子供用の木の棒を振り回す程度。

 少し身軽で、少し好奇心旺盛な、利発な幼児――その程度にしか見えなかった。

 この時、公爵はまだのんきだった。


 この時は、まだ、本当に平和だった。








 時は流れ、リオラーナが六つになった頃。

 マルクス公爵家の中庭に、不穏な悲鳴が響いた。


「お、お嬢様ああああああああっ!?」

「何事だ!?」


 書斎で書類に目を通していた公爵は、その声を聞くや否や立ち上がり、廊下を早足で進む。

 中庭に飛び出した彼の目に飛び込んできたのは――

 地面に転がる成人男性。

 その上で、スカートの裾をおさえながら質素な訓練服姿の娘が、涼しい顔で立っている光景だった。


「……今のは、どういうことだね?」

「お父様、お邪魔して申し訳ございません」


 リオラーナは、ぺこりと頭を下げる。

 そのすぐ横で、さきほど悲鳴を上げた衛兵が、腰を押さえながら「だ、大丈夫です……」と震えていた。


「いま、見事な一本背負いのようなものが見えたのだが」

「はい。身長差、体格差があっても、正しい筋肉を正しく動かせば、覆せます」


 六歳児とは思えない落ち着いた口調で説明が始まる。


「タイミングと、力の脱力。これが肝です」

「……肝?」


 公爵は思わず復唱した。


「力を入れっぱなしでは、筋肉が悲鳴を上げてしまいます。ここぞという瞬間だけ、必要な方向へ最大限に力を流し、あとは脱力して流れに任せるのです」


 言いながら、リオラーナは自分の腕を軽く振って見せる。

 まだ子どもの細腕だ。だが、その内側には、触ってみないとわからないはずの密度があるような気がする。


「お嬢様は、この衛兵に何を?」


 おそるおそる尋ねた副官の問いに、衛兵が涙目で答えた。


「お、お嬢様が、『護衛技術の向上のために、模擬訓練をしましょう』とおっしゃられまして……」

「危険な真似をさせたのか、リオラーナ?」


 公爵の声に、娘は首を振った。


「いいえ。ちゃんと受け身をお教えしました。怪我をさせるのは筋肉の名折れですので」

「お、お嬢様は一度も怪我をさせておりません……! ただ、その、予想以上に、綺麗に投げられまして……」


 衛兵は、どこかうっとりした目をしていた。

 公爵は見なかったことにした。


(……おかしい。明らかに、おかしい)


 この頃から、リオラーナの「おかしさ」が、目に見えてきた。


 腕力は衛兵と互角。

 持久力は、屋敷の犬よりある。

 さらに、礼儀作法と勉学の成績は相変わらず優秀。

 これが、貴族令嬢のあるべき姿です、と言われれば、確かにそうかもしれない。

 だが彼女の中で何かが決定的にズレていることを、公爵だけはうっすらと自覚し始めていた。


 なお、本来ならリオラーナが伸びていくはずだった才能。「魔術」方面の才は、この辺りで完全に行方不明になっている。

 前世の乙女ゲームでは、彼女は呪術と暗黒魔法を極め、「魔皇女」と呼ばれるラスボスになる予定だった。

 だが今、この世界で彼女が見つけたものは――


「正しいフォームでスクワットをすると、魔力の流れも良くなる気がします」


 魔力全開ナイスバルクへの道である。

 全ての魔力は、筋肉へと変換されつつあった。







 そして、10歳を過ぎる頃には――

 公爵は、心の底から悟った。


(もう、完全におかしい。娘が人間の域を超え始めている)


 決定打となったのは、「暴れ馬事件」だった。

 その日、公爵家は領内視察のため、少人数の随行で街道を進んでいた。

 リオラーナも同行していた。

 年頃の令嬢らしく、控えめな装飾の乗馬服。

 しかしその下身に潜む筋肉は、もはや控えめではない。


「お嬢様、もう少しペースを落としてくだされ、他の馬がついていけません!」

「はぁい」


 手綱を軽く引くと、リオラーナの馬は素直に速度を落とした。

 その時だ。

 対向から走ってきた荷馬車の馬が、何かに驚いて暴れ出す。


「うわっ、ま、待て、止まれ!」


 御者の叫び。

 荷馬車は大きく蛇行しながら、こちらの隊列へと突っ込んでくる。


「危ない!」


 騎士たちが馬を寄せるより早く、リオラーナの姿が動いた。

 馬上からひらりと飛び降り、地面を軽やかに二歩。

 そのまま暴走する馬の前に、すっと立ちはだかる。


「お嬢様ー!!?」

「リオラーナ!!」


 公爵と護衛たちの悲鳴が重なる。

 暴れる馬の前足が、上がる。

 蹄が、リオラーナの頭上に迫る。


 ――が。


「少し、落ち着きなさい」


 リオラーナは片腕を伸ばした。

 上腕二頭筋が、衣服の下でしなやかに膨らむ。

 手綱を掴むのではなく、馬の首筋を抱きとめるように、がっしりと腕を回した。


「は、あああああああ!?」


 御者が悲鳴を上げる。

 まるで絵物語の一幕のように――

 暴れる馬の巨大な身体が、ひときわ高く跳ね上がり――

 ふわり、と、弧を描いて横に逸れた。

 干し草を積んだ荷山が、クッションのようにそこにあったのは、ただの偶然である。

 どさっ、と、馬が干し草の上に落ちた。


「な、何が……」


 護衛騎士たちは、口を開けたまま固まっている。

 リオラーナは、軽く息を整えながら、手袋についた埃を払った。


「失礼。少し興奮していたようでしたので」

「い、今のは、その……?」

「上腕二頭筋での制圧です。首の付け根を締め上げて、進行方向を変えました。筋肉は柔らかく、しかし芯は固く」


 さらっと説明しないでほしい、と護衛一同は心の中で泣いた。





 それから間もなく、今度は盗賊団襲撃事件が起こる。

 街道脇の林から、複数の影が飛び出した。


「おいおい、公爵様のお通りと聞いて来てみりゃあ、上等な馬車じゃねえか!」

「金目のもん全部置いていきな!」


 護衛たちが剣を抜き、馬車を囲むように展開する。

 そして、その輪の中から、ひょいっと飛び出す銀髪の少女。


「……あの、お嬢様?」

「大丈夫です、護衛の皆さんの負担を減らします。筋肉の出番です」

「筋肉の出番って何!?」


 盗賊の一人が前に出た。


「なんだ嬢ちゃん、いいとこのお嬢様にしちゃ勇ましいじゃ――ぐえっ!?」


 最後まで言い切る前に、彼の膝が逆方向に折れた。

 見えたのは、少女の白い脚がひときわ鋭く回転する一瞬だけ。


「まずは足元から。土台を崩せば、上半身は勝手に落ちます」


 リオラーナは、淡々と解説しながら次の盗賊に向き直る。

 彼女の周囲で、盗賊たちが、ぱきぽきと妙な音を立てて倒れていく。

 護衛たちも戦ってはいるのだが――

 後から数えたところ、一番多く「骨を折った」のはリオラーナであることが判明した。

 盗賊団の頭目は、最後にこう叫びながら逃げようとしたという。


「なんだあの公爵令嬢は! 娘が化け物かよ、くそったれ!!」


 その言葉に、公爵は深く傷ついた。


(化け物ではない……ないが……あれは……)


 事実に近いな、と。





 極めつけが、奴隷商人事件である。

 街中の視察の折、路地裏から、鈍い打撃音と押し殺した呻き声が聞こえてきた。

 リオラーナがいち早く足を止める。


「お父様、あちらから、嫌な音がします」

「嫌な音……?」


 案内役の役人は気まずそうに目を逸らした。


「あ、あー……まあ、商業区の外れには、いくらか、そういう連中も……」

「そういう連中、とは?」


 リオラーナの声が、わずかに冷たくなる。

 路地の先では、鎖で繋がれた痩せた男が四つん這いになっていた。

 その背中を、汚れた服の男が棍棒で殴りつける。


「立てって言ってんだろうが! 商品が歩けねえんじゃ見てくれが悪いんだよ!」

「も、申し訳ございません、ご主人様……」


 リオラーナの視界の端で、何かがぷつん、と切れる。

 次の瞬間、彼女はもう走り出していた。


「お嬢様!?」

「リオラーナ!」


 公爵の制止も間に合わない。

 奴隷商人が振り上げた棍棒に、白い手が伸びる。

 がしっ――。


「は?」


 自分の手首から先が、動かない。

 奴隷商人は、何が起きたのか理解できなかった。

 振りかぶった棍棒が、リオラーナの片手で握り止められていた。

 リオラーナが、棍棒を握る男の手を、まるで汚物を見る瞳で見据える。


「その棍棒を、すぐに放しなさい」

「な、なんだお前、何処のガキ……」

「放せと言っているのです」


 指先に力がこもる。

 ごりっ、と鈍い音がした。

 次の瞬間、棍棒が、真ん中からへし折れた。


「……は?」


 その場にいた全員が、ほぼ同じ顔をした。

 棍棒は硬い樫の木だ。

 武装兵が相手の骨を砕くための武器である。

 それを、ただの握力でへし折る光景を、誰が想像するだろうか。


「リオ、ラーナ……?」


 震える声で、公爵が娘の名を呼ぶ。

 リオラーナは振り返り、きっちりとした笑みを浮かべた。


「あら、お父様。お騒がせして申し訳ありません。筋肉の確認をしておりました」

「なぜここで筋肉の確認を?」

「不当な暴力に対して、筋肉がどれくらい対応できるかの検証です。結果としては、ご覧の通りです」


 へし折れた棍棒を、まるでただの枝のようにぽん、と地面に落とす。

 奴隷商人は、その場に崩れ落ちた。

 以来、公爵は奴隷を一切買っていない。

 理由は表向き、「人道的観点からの方針転換」と説明された。

 本音は――


(だって怖い。娘の前でまたああいう現場を見せたら、今度は棍棒だけで済まない気がする)


 だからである。

 しかし、文句は言えなかった。


 リオラーナは、成績優秀で品行方正。

 礼儀作法も完璧で、下々の者への気配りも忘れない。

 視察の際には、農民たちに気さくに声をかけ、子供たちの頭をやさしく撫でて回る。


 そのうえで、これだ。


「筋肉を魅せるのです。鍛え上げた筋肉を。さすれば民草は安心します」


 ある夜、公爵執務室で、娘は真顔でそう語る。


「強靭な者に、人は本能的に安堵を覚えます。守られていると感じるのです。私達貴族に信頼を寄せる土台になります」

「……それは、まあ、一理あるのかもしれないが」

「つまり筋肉です。筋肉は全てを解決します」


 娘は、そこで話を締めくくる。

 公爵は、静かに匙を投げた。


 そして気づけば、自分の身体も変わっていく。


「……あれ? 最近、腹が……」


 ふと鏡を見たある日。

 彼は、かつての「でっぷり体型」が、いつの間にか影を潜めているのに気づいた。

 礼儀作法の名目で、姿勢を正され。

 食卓では、娘に倣って余計な脂質と糖分を控えさせられ。

 休日には、「ご一緒にいかがですか?」と笑顔で庭のウォーキングに誘われる。


 気づけば、公爵はスラリとした体躯の「イケオジ」になっていた。


「お父様、最近背筋が大変美しいです。良い筋肉です」

「そ、そうか……」


 褒められて悪い気はしない。

 ただ、公爵はどこかで思っていた。



(私の娘は、どこへ向かっているのだろう)



 そして今――娘は王太子との婚約が破棄された。

 現在、娘は武門子爵の令息と共に、この公爵領に帰ってくる途中。

 早馬が来たのだ。娘の乗る馬車も、じきに到着するだろう。


「ヴァルクス子爵家の嫡男、か」


 爵位は公爵家とは比べるまでもなく低い。

 だが、あそこの武門貴族は、戦場で信頼できる名家。かの武家と親交を深められるのなら、今回の婚約破棄の傷跡も、幾分か緩和されるだろう。


 それに、どう考えても、今回の件は、王族の有責が確実だ。

 筋肉以外の非が無い公爵令嬢を、有無を言わさず辱めた。

 どうやって王族を詰めてやろうかと、公爵の目に冷たい光が宿る。


 当然である。

 いかに筋肉至上主義でも。いかに暴れ馬を片手で抑える怪物でも。

 棍棒を腕力だけでへし折る化け物だったとしても。


 リオラーナは、公爵の愛する娘。

 そんな娘が、衆目の前で恥を晒された。

 止められない怒りが、そこにある。


「……子爵家の嫡男と結婚、か。まあ、クズの王太子よりは遥かにマシだろうよ」


 やれやれと溜息を吐きながらも、口元には微笑。

 爵位は低くても、相性は好い筈だ。筋肉を追い求める娘と、実戦で生きる武門との婚姻は、案外悪くない。娘が大人しく「エスコート」されてるところから見ると、男女間の相性も良いのだろうと推測できる。


 窓の向こうに、まだ馬車は見えない。

 けれど公爵は感じていた。

 あの娘は、婚約破棄程度で落ち込むような性格をしていない。

 いつものように、あの筋肉で、立ち塞がる苦難を吹き飛ばしていくのだと。


 今も昔も変わらない。

 そしてきっと、これからも。



 リオラーナの筋肉武勇伝は、まだ始まったばかりなのだから。





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