箱庭の花
グランヌスに着てすぐ、丁重に、けれど慎重に審問を受けた。吐く言葉の全てを信用することは出来ないが、ライワールトを攻める為に使える情報も持っているだろう。どうやって吐かせるかと、役人たちの瞳は語っていた。やはりグランヌスはずっと、ライワールトを侵略する機会を伺っていたのだ。
1週間ちかくにわたる追及の後は後宮の中心から離れた、その分ランクの低い部屋を与えられた。異国の女にいい部屋を与えるのは他の側妃が気分を害すると、慮ってのものだろう。
国王の前では可愛がると言ったが、帝王は敵国の女を寵愛するつもりなど、さらさらなかったらしい。
「1つ、お選びください」
審問の後、自室に向かう直前、侍女に呼び止められて宝物庫に足を向けた。照明に照らされた横長の黒檀の台座に、100近い指輪が並べられている。石はダイヤが多いが、希少な色石を嵌めた指輪も多くある。
「陛下は貴女様をライワールトでの賭けの褒賞としたさい、新しい指輪を与えると仰ったとのこと。この中から、1つお選びください」
侍女の目は鋭かった。たかが口約束を守るのか、と考えたが口には出さない。代わりに、どこの国でも女官の服装はそう変わらないらしい、と侍女に視線をやれば、私の沈黙に焦れたのか、白い服の女は同じ言葉を繰り返した。たしかこの国の後宮において白い服は、それなりの地位にいるということだった。
ずらりと並んだそれらをみて、少し考える。
この侍女も、彼女につれられ歩いた道中も、連れ帰る、と帝王が宣言してからずっと、見定める視線は続いている。指輪を与えるなら適当な1本を放り投げれば良いだけなのにわざわざ選ばせるのは、この中から私が何を選ぶのかも、あの帝王は見ているのだろうか。
どれを選ぶべきか。どんな指輪を選ぶような人間だと、見られるべきなのか。
少し考え、無難なものだろうな、と決める。ダイヤが嵌められた、ありきたりなものがいい。
そうして手を伸ばそうとして、指が止まった。青紫の石がついた1本に、目が止まったからだった。
「……これに、します」
「そうですか。それでは、お部屋にご案内しましょう」
部屋を出る。右手で、青紫の石の付いた指輪をそっとなぞった。
この石自体は他の宝石と比べれば、さして高価なものではない。どうしてこれを、と誰かに疑問を抱かれるかも知れない。けれど、構わなかった。
誓いの意味を持つ、あの人が持っていた石。これ以外、私の指輪に相応しいものは、この世のどこにもない。
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「クヴァル様、敵国の女と一夜を過ごすなど正気の沙汰ではありません!あの忌々しい辺境伯の娘です、いつ寝首を掻かれるか……。抱くなら女は全裸で待たせ、帯剣した兵をすぐ側に置いてくだされ。怪しい動きをするなら即刻首を飛ばすのが宜しいかと。ああ、しかし本当に腹立たしい!いっそ今からでも首だけにしてライワールトに―――」
「黙れ、お前はいつも話が長い。女を抱く時に他人を置く趣味もない。………もう良い、下がれ」
長く争った国の、敵国の女。グランヌスに足を踏み入れた途端首を刎ねられなかったことも、最初の食事に毒を盛られなかったことも、ただの幸運にすぎなかった。
だから、夜分に部屋の前でそんな話をするのは、牽制に違いない。
夕暮れ、陛下は今晩お越しになります、と表情のない侍女に伝えられて、高価な石鹼で体を擦られ、香油で髪を梳かされた。帝王に捧げられ使われるものとして隅々まで磨かれて、侍女が去ってから部屋の調度品を眺めていれば、扉越しに口論と、歯軋りの音も堪えずに宰相らしい老人がこの場を離れる荒い足音が聞こえる。苛立つ老人の孫娘もまた、この離宮にいるのだったか。
数秒の後、扉が開いた。
「お通りをお待ち―――」
「世辞はいい。聞こえていただろう?ネレイス・オウディアス。賞品にお前を選んだのは、妃を奪われた男の顔を見たかっただけだ」
瞬きのたび、くまのない目の下にかかるまつげが、やけに目についた。
ゆっくりとした言葉。演技がかった冷笑ですら様になるこの国の王が、目の前で悠然と笑う。この国に来て1週間、久しく顔を見なかったのに。
ひどく、ひどく整った顔―――ランクが低いとは言ったものの、平民の一家であれば数十年裕福に暮らせるであろう調度品ばかりが並べられた部屋だ。天蓋付きのベッドに、深い飴色のチェストに置かれた金の燭台。白磁の香炉に花と駒鳥を描いた絵画。ライワールトで用意されていた家具より質のいいそれら一切を見劣りさせてしまう、そんな容姿。
切れ長の瞳に高い鼻、薄く形のいい唇。頭ひとつ高いところにあるそれらを見上げれば、襟首に掛かろうかという長さの黒赤の髪も揺れる。
浮かべた笑みを思わず消して、その容姿に感心した。体躯にも優れて、この顔に武力や権力も備えているとは。多くを持ち、何度も物事を思い通りに進めてきた、そんな自信が表情からもうかがえた。
炎、花、宝石。形容する言葉は数あれど、それでも鮮血が一番しっくりくる。そんな瞳が細まる。
「この国はどうだ、側妃。向けられる目は、与えられるものは、母国とどちらがマシだ?」
皮肉に、唇が弧を描いた。
この国に来る前に私が彼について散々調べたように、彼も私について調べさせたらしい。負け犬側妃、とさんざん蔑まれていた過去を。正妃の座を奪われ、執務をこなす道具として扱われ、手柄は全て国王のものになるなど国を恨んでいるに違いない。だから敵国でやり直しを求めて夫を裏切った悪女、といった所だろうか。
余裕を隠さない瞳に、軽薄な冷酷さがうかがえた。侮辱に激高するのか、屈辱にゆがむ顔を晒すのか、媚びを売るのか。水面に石を投げて波紋を確かめるように、淡々と観察されている。
「……あなたに選んでいただけたことを、とても嬉しく思います。たった一目で、あなたに焦がれてしまったのです」
わらう。
例えばかつての夫に頬を寄せられた茶髪の少女。恋をした女の顔はあんなだろうか、と思い返して真似ながら、胸に手を当てて、目の前の冷酷を、それでいいと笑う。
警戒されて当然だ。探られるのは、彼が私の腹の内を知らないからなのだから。
この離宮にいる数十もの女と同じように、私も私のためにこの男の妃となった。あの舞踏会でダンスに誘われたとき、演奏家達が壮大に楽器を爪弾くなか、この後の賭けで私を連れ帰って頂けませんかと彼にしか聞こえない声で囁いた。
彼がライヒムに裏切りを伝えていれば、連れ帰るどころか、ライワールトにおける私の立ち位置は大きく変化していただろう。けれど彼は両国の平和ではなく、国王の屈辱を選んだ。
顎をとられて上を向く。
「顔を見たこともない男にとは、随分なことだな。ほかの男から寵を得たら、自分を顧みなかった王を見返せるとでも?―――まあいい」
力強い腕だった。言葉とは裏腹にゆっくりと、天蓋付きのベッドに押し倒される。
「怖いか。この顔と身体にも関わらず、ライヒムはお前に手を出さなかったらしいな。処女だから痛みが怖い、覚悟する時間が欲しいというなら、今晩はやめてやろうか?」
余りに丁寧な手つきだったから、覆いかぶさる男に反応するのが、数瞬遅れた。照明を遮るように、驚くほど美しい顔が目の前にある。腕に触れる掌は熱いけれど、瞳に浮かんだ色は嘲笑に近かった。
彼の言う通り、拒絶すれば抱かれることはないのだろう。彼の訪れを、この腕を熱望する女は宮に何十人もいるのだから。頷いたなら他に行ってくれるに違いない。代わりに今晩どころか、2度と私の元を訪れることもないのだろうけれど。
軽く抑えられた腕を外す。そうして肩に手を回し、ゆっくりとまた笑う。目の前の男への慕情など欠片もなくとも、滲ませられるように、慕わし気な声を作って。
「いいえ、どうか、慈悲を。―――グランヌスの帝王、クヴァル様。貴方が望むものを、私は差し出せます」
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信用など、欠片もされていない。国の機密は触れられないようになっていたし、どこにいて何をしようとも監視の目はついて回った。連れてきた侍女などいなかったから、新しく私付きになった侍女の目も、決して好意的とは言えなかった。
けれど、それで充分だった。
この国に来る前、グランヌスとその周辺の国については、ライワールトで得られる知識の限りを頭に入れていた。
女を閉じ込めるための、大きな大きな、無駄に金が掛かった豪勢な庭。
色狂いと評される先王の時代、グランヌスの後宮にはいまの3倍近い女がいたらしい。女同士の小競り合いを面白がった先王の意向もあって、寵愛争いは熾烈を極めた。30人以上いた先王の子も暗殺やら謀略に立場を追われて数を減らし、母の身分は高くはないが最も優秀だった第9王子―――、帝王にして私の今の夫、クヴァル・レヴェスターが去年、帝位を手に入れた。
好みの容姿の女であれば既婚者でも後宮に放りこんだ先帝ほど色好みではないが、見目麗しい新王の寵愛を求める女は、先帝のそれより多い。
今の後宮で小さな諍いは時折起こっていて、突然連れ帰られた隣国の女に向けられるほかの妃の視線は、決して好意的なものではなかった。
例えば、この後宮の権力は2人の有力者の娘が2分していること。2人は酷く仲が悪いこと。
皮肉や嫌味を耳にする機会は多いが、その程度はライワールトでもありふれていた。言葉一つ、仕草1つからも察するものはある。数度茶会に招かれれば、妃それぞれの立ち位置や、誰が誰を敵視しているかを読み取れた。
得られる情報をつなぎ合わせて、うまく振舞わなくてはいけない。ライワールトでは出来なかったから。
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遅刻は厳禁。早く着きすぎるのもいけない。そうして、『彼女』よりも華美なドレスにならないように。
「歓迎するわ、ネレイス・オウディアス妃。そうして初めまして。自己紹介は必要かしら?」
あのオウディアス辺境伯の息女でライワールト国王陛下の唯一の側妃だったあなただもの、こんなお茶会のもてなしではご不満かしら、と淡々とした声で、長テーブルの上座に座る女は言う。
「まさか。……ご招待いただき光栄です、レリエーラ様。それに、私はもうライワールトを捨てた身です。どうか、ただのネレイスとお呼びください」
ずらりと並べられた、同じ茶器。
そう、と呟いてこの後宮の半分を支配する最高位の妃、レリエーラはこちらを睥睨する。
この後宮の人間になり、数日と経たないうちに渡されたのが、後宮の最高位の妃の一人、レリエーラ・レスティカからの茶会の招待状だった。帝国有数の貴族、レスティカ公爵家の出である彼女は、首まで詰まった深緑のドレスを着ていた。栗色の髪と、不愉快を隠さないオリーブの瞳。周囲の女たちも似た表情でこちらを見ている。
「殊勝な心掛けね。この国に来たばかりで分からないでしょうが、この後宮にはこの後宮のルールがあります。ゆめゆめ忘れることの無いように」
もちろんです、と返して微笑んだ。
寒々しい空気を隠すことなく、茶会は始まった。あの妃は規律を乱しているとか、あの兵士は妃に対する態度がなっていないなど、彼女たちの話は会議、あるいはつるし上げに近かった。意見を聞かれれば返し、出しゃばらず、沈黙していると思われない程度に言葉を挟む。
そうして、1刻ほどたった時。
「あらあ?こんなお天気のいい日に辛気臭い声が聞こえると思ったら、あなたでしたの、レリエーラ様」
「……こちらのセリフよ、べツェリ様。鏡が見えないのかしら?この国の妃であるという自覚はないの?なんではしたない」
淡々とした会話に割り込むように現れたのは、派手なドレスの女の集団だった。先頭に立つのは波打つ赤髪の女で、ひときわ大きな宝石の付いた首飾りが目につく。ぽってりと赤い唇、長いまつ毛。
多くの男にとって理想といえる肢体も含め、この女が、と思い至る。
ベツェリ・イヴェルカ。財務大臣の娘で、この後宮でもう1人の最高位の妃。レリエーラの視線は、べツェリの豊かな肉体の、首筋に注がれていた。
「ふん、嫉妬かしら?レリエーラ様、最後に陛下があなたの元を訪れたのはいつか、聞いてもいーい?私の元には、一昨日も先週も来てくださって、愛を囁いてくださったわ。陛下の寵愛の証が誇れないはずがないでしょう?」
「みっともない……」
「言っていなさい。……ああ、あなたがライワールトの?会いたかったわ、わたくしはベツェリ・イヴェルカ。あなたはライワールトの妃だったと聞いたわ。殿下はわたくし達の為にこの宮を用意してくださっているけれど、閉じ込められてばかりでは退屈でしょう?ぜひ、この国の外の、あなたの話を聞きたかったの」
「光栄です、ベツェリ様。……私で良ければ、喜んで」
「嬉しいわ。ぜひ仲良くしましょうね」
首筋の赤い痕を―――付けられてまだ新しいと分かるキスマークを見せつけるように、女は首をかしげた。言葉と裏腹に赤髪の女の瞳は鋭く、後ろの女たちの表情も気に食わない、と不愉快と警戒を隠さなかった。ライワールトへの敵愾心か、それ以外の感情か。
どうでもいいな、と瞳を細める。やるべきことは変わらない。
指先で、銀の輪をなぞる。
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ベツェリ・イヴェルカは、帝王を深く愛していた。
帝王クヴァル・レヴェスターの後宮には女が多くいるが、存在するだけで女を引き寄せるような美貌の王は、わざわざ妃を望むことはない。集められた女は、大半がその親が、我が家の娘こそ寵愛を得て王の子を産み、そうして家に大きな権力を、と後宮に押し込んだ者たちだった。
その中でもベツェリは特殊だった。彼女の父である財務大臣は、一人娘を溺愛していた。政治の道具ではなく人として幸せになってほしいと望んでいたし、いずれは相応しい誰かを婿にとるはずだった。地位も容姿も優れる彼女に求婚者は多くいたが、彼女はその全てを蹴って、後宮に入ることを選んだ。
―――先代王が臥してすぐに行われた戴冠式で、帝王クヴァルに、一目ぼれしたからだった。
運命の瞬間を、あのお姿を今でもはっきり覚えているし、どんな言葉でもあの瞳の鋭さと凛々しさを表現なんて出来ないわ、と彼女は言う。
実際彼女に招かれたお茶会では、うんざりするほどに帝王クヴァルの素晴らしさと美貌への称賛、彼がどれだけベツェリ妃を目にかけ厚遇しているのかを、延々と聞かされ続けた。
「陛下は最近よく月光石のカフスを付けていらっしゃるから、わたくしもお父様にお願いして、月光石のブローチを作っていただいたの。そうしたら陛下はブローチが届いたその日に、月光石のカフスを付けてくださっていたの!これって、わたくしたちが想いあっているからこそだと思わない?」
「まあ、素晴らしいですわ!」
「とっても素敵……!」
同調して頬を染める、茶会の参加者たち。レリエーラ妃がいれば偶然でしょう、で切り捨てて終わりだろうと思いながら、私も微笑み、頷いてみせる。
ベツェリ・イヴェルカは、帝王を深く愛している。
愛しているから、あの男の仕草ひとつ、言葉一つに心みだされ、帝王からも同じ感情を欲しがった。けれど彼女は正妃ではなく側妃で、焦がれる男の寵を求める女は後宮に多くいる。だからせめて、取り巻きに囲まれた小さな世界の中では、帝王に溺愛される自分という虚像を作り上げていた。
「ふふ、そうでしょう。陛下はわたくしを、心から愛してくださっているの。―――ネレイス妃も、そう思うでしょう?」
「ええ。とても、羨ましく思います」
薄っぺらな嘘を吐いた。分かってくれて嬉しいわ、と彼女は深紅の唇を持ち上げる。その瞳は、笑っていないままだ。
ベツェリ・イヴェルカは、帝王を深く愛している。
この女は幻想を守るために取り巻き達には親し気な態度をとっているが、それ以外の妃に対する態度は、酷いものだった。嫌がらせは日常茶飯事、もう一人の同格の妃という抑止力がなければ、彼女たちの身体に傷をつけていたかもしれない。取り巻きの一人がクヴァルに色目を使ったことが分かった際には、寒空の下、服を濡らして鍵のかかった小屋に一晩閉じ込めたこともあったという。
私に対しても、いまはにこやかに接しているだけで、わざわざ帝王の寵愛を得るために異国から来た女、と心底気に食わないようだった。これからどれだけ彼女に媚びを売ろうとも、取り巻きとして気に入るどころか、些細なきっかけさえあれば、たやすく害し、排除しようとするだろう。
そうさせる気はないけれど、とテーブルの下で指を組む。かつてはそういった全て、どうでもいいと顧みずに失敗した。今度こそ目の敵にされないように、目の前の女の好むもの、嫌うもの、取り巻きの女たちの態度。彼女たちの視線や言葉一つに至るまで拾いあげ、利用しなければならない。
遠く見える離塔に視線をやる。帝王からの寵愛などどうでもいい。
けれど、この女が。この女を。
ベツェリ・イヴェルカは、帝王を深く愛している。
その事実は、利用できる。




