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負け犬側妃







 負け犬側妃。

 それが、ネレイスに与えられた称号だった。


 彼女が生まれたライワールト王国は、かつて、隣国であるグランヌス帝国と長く争いを繰り広げていた。周囲を海に囲まれ、グランヌスとのみ地続きなこの国は、言語も信じる神も同じ、国力も近いグランヌスとばかり、何百年と争っていたのである。

 グランヌス帝国との国境を守護する、オウディアス辺境伯の唯一の娘。彼女がライワールト王国の王太子、ライヒム・ミハーレクの婚約者になったのは、十三の時だった。幼さに見合わず完成された美貌と優れた知性。立ち振る舞いは完璧で、実家の権力も申し分ない。

 ネレイスの疵は一つだけ。

 彼女が辺境伯と平民、両方の血を持つ事だけだった。


 ネレイスの母は、美しい平民の娘だった。貧しさの中で辺境伯家の当主に見染められてネレイスを妊娠したが、同じ貴族の婚約者がいた辺境伯は婚姻が近くなるとあっさりと彼女を捨てた。母は失意の中ネレイスを産んで、そのまま儚くなってしまう。

 だからネレイスは辺境伯家の領地の隅にある孤児院に預けられて、シスターや身寄りのない子供達と共に、貧しく慎ましく暮らしていた。


 転機が訪れたのは、十二歳の時だ。

 辺境伯家から王家の婚約者を出すことになって、当主とその妻の間に女児が居なかったことから、彼女はオウディアス家に連れてこられた。初めて顔を合わせた父は、ネレイスを道具としてしか見なかった。継母や腹違いの弟もネレイスを嫌ったから、彼女は新しい家で居ないものとして扱われる事になる。

 今までとは桁違いに高価な衣服や食事を与えられながら、彼女は粛々と求められる役割を果たした。マナーを学び、複数の国の公用語を操れるようになり、政治に関わる全てを覚えた。


 たった一年で楽器や詩歌まで造詣を深め、場合によっては教育係が教えを乞うほどに、どこに出しても感嘆されるような、完璧な令嬢になった。

 楚々とした微笑みと、望まれる以上の見事な受け答え。指先の角度に至るまで、ネレイスは次期王妃として理想そのものだった。

 ライヒムは美しく従順なネレイスを気に入って、ネレイスも淡々と忠実に彼を支えた。

 ネレイスは彼が疲れたと愚痴を漏らした時には労りの言葉を掛け、彼の仕事の一部を肩代わりした。国の後継として賞賛されたいと望んだ時には貧しい者たちに職を与える政策を作り、王太子が考えたものとして手柄を全て差し出した。 

 国を動かす立場の臣下たちにも賛同されたその政策はいくつかの改善のあと実際に施行され、王太子の自尊心を大いに満たした。


 同い年の二人が貴族の学園に入学する頃には、王太子は美貌を持つ将来の賢君として持て囃されて、多くの女子から憧れと恋情を向けられるようになった。

 婚約者であるネレイスに嫉妬が向けられる事もあったが、彼女は何も言わずに、理想の次期王妃であり続ける。王太子が多くの女子と浮き名を流すようになっても、自分こそ王妃に相応しいと考える少女達に嫌がらせをされても。

 嘆きも怒りも悲しみも、何一つ口に出さずに。


 王太子に、婚約破棄される時でさえ。


「ネレイス・オウディアス!お前のような平民の母を持つ者が王家に入るなど許しがたい。俺はお前との婚約を破棄し、コウン伯爵家の娘であるアンジェを正妃とする!」


 そう王太子が言い放ったのは、二人が十八歳になる、学園の卒業パーティーでの事だった。


「コウン伯爵家は古くから続く家で、アンジェは正しく青き血を持っている。爵位が低くとも正妃に相応しいのは価値ある血を持つアンジェだ!しかしネレイス、お前が優れているのは確かだからな。俺や国の役に立つ事は許してやろう。 ―――俺はアンジェ・コウンを正妃とし、ネレイス・オウディアスを、側妃として迎え入れる!」


 王太子の隣では、茶髪の可愛らしい少女が満足げに彼に腕を絡み付かせていた。ピンクのドレス、大粒の宝石を使ったアクセサリー、可愛らしい容姿。学園にいた頃、よく王太子に侍っていた少女の一人だ。普段涼やかに笑んでいるネレイスの瞳が、僅かに揺れた。青紫は信じられないものを見た、と騒めく卒業生達とは違って、予定調和と言わんばかりに頷く国王や辺境伯当主を映す。


「文句はあるか、ネレイス。五年も婚約していた仲だ、反論くらいは聞いてやろう。どうしてもと言うなら―――」



「…………いいえ、殿下。分かりました。私は側妃として、この国に、その民に、全てを捧げましょう」


 動揺は一瞬だった。

 なおも言い募ろうとする王太子の言葉を遮って、ネレイスは笑みを浮かべた。

 出来の良い、手本のように。




 そうして王太子は国王になり、ネレイスはライワールト王国の側妃になった。


 ネレイスには王城の離れと、国王がやるべき沢山の執務が与えられた。彼女は文句一つ言わずに引き受けて、国王夫婦が遊び暮らす裏で多くの国民を救う政策を次々と打ち出し、新しい王の素晴らしさを国中に知らしめる。


 国王に何を言われても、正妃となったアンジェに砂入りの紅茶を用意されても微笑み続けるネレイスは、いつしか負け犬側妃と呼ばれるようになった。国王も辺境伯もネレイスの悪口を咎めなかったことと、つくりものと思えるほどにうつくしい女を貶すことで嗜虐心を満たしたい、という人間が男女問わずいたからだ。

 国費のうちネレイス個人の予算が削られて贈られるドレスが質の低いものになっても、呼ばれた舞踏会でしゃんと立つ彼女はひたすらに美しかった。学園などでネレイスと親しくしていた者もいたが、国王に睨まれる事もあり、彼女はどのパーティに呼ばれても誰とも踊れず、嘲笑の的になっていた。





 そうして、あの夜が訪れる。ちょうど一年前だった。

 ライワールトの国王とグランヌスの帝王は同じ高さの椅子に座り、象牙のチェスの駒を置く。


 ライワールトとグランヌス。かつては小競り合いを繰り返した2つの国には、協定がある。

 数十年前に和平を結んだ時に、毎年交互に国の王が相手の国に訪れ、一つ賭けをする、と約束をしたのだ。

 賭けの内容は訪れる側の王が決め、国を左右しなければなんでも賭ける事が許される。去年はライワールトの国王が最高級のワインだけを納めたワイン棚を手に入れて、一昨年はグランヌスの帝王が名馬を数頭連れて帰った。


 賭けに負けた国が要求を断ったり負けたのに渡さなかったりすると、賭けを楽しむ色々な国に非難される。赤髪の帝王と金髪の国王。これから数十年と賭けをするだろう2人の勝負は双方の見目麗しさもあり、多くの国に注目されていた。

 特にライワールトを初めて訪れた帝王は、関心と衆目を一心に集めていた。国王と年はそう変わらないだろうに彼の表情は自信に溢れ、所作の全てが美しい。なによりその人並外れた美貌には、結婚して一年も経たない新婚の正妃ですら、挨拶されるとぽうと頬を染めた。

 前座代わりのダンスでは、帝王は求められるままに何人かの令嬢と踊り、正妃や側妃の手も取った。友好の証とでもいうように。




 その年は、帝王が賭けるものと内容を決める番だった。

 注目を一身に集めるホールの中央で迷わずチェスを用意させた帝王は、盤に駒を並べながら不敵に笑う。



「賭けるものだが、……そうだな、女にしよう。今の離宮は色が足りない。花は多く咲く方が美しいだろう?ここにいる女達のうち、婚約者のいない者を連れて帰ろう」


「なっ―――わ、分かった。ならば帝王、其方が負けた暁には離宮にいる妃の誰かを貰おう。俺には正妃がいるが、側妃は一人しか居ない。選ばれた女性は、両国の掛け橋となるだろう」


 帝王の言葉に、国王は一瞬たじろいだが頷く。人を賭けるとは、と周囲、特に若い女性は騒めいた。今まで人が賭けの賞品になったことはなかった、やりすぎではないのか。そんな風に視線を彷徨わせるものもいたが、国王が是とした以上、口を挟めるものはいない。


 この年若いグランヌスの王は父である前王を斃して玉座を得たという、初めての賭けで人を、それも妃を賭けるなど噂に違わぬ冷酷さ、それともこの場にそんなに好みの娘が居たのか―――。ぽつぽつと、ざわめきに混じってそんな言葉が聞こえた。青ざめる娘が大半なものの、誰がこの美しい人の心を射止めたのか、と頬を染める者もいる。簡単に一人の人生を左右しようとしているのに、あまりに帝王が美しいせいで、婚約者のいる淑女の中にすら、連れ帰られる女性に選ばれたいと願う者もいた。


 勝負は始まった。

 駒は淀みなく動き、盤から弾かれて、黒のキングが追い詰められていく。とうとうクイーンが退場し、国王の額にしわが寄る。


「チェックメイト。…………それでは妃を貰って帰ろう。そこの青紫の瞳の、美しい側妃を」


 最後に駒を動かしたのは、帝王だった。

 確かに婚約者の居ない者、と帝王は言った。言ったが、まさか側妃を望むとは。言い放たれた言葉に、周囲はにわかに騒めく。特に焦った様子を見せたのは国王で、普段賞賛を受ける容貌は一瞬で真っ赤に染まっていた。


「なにを……何を言っている、ネレイスは俺の側妃だ。しかも、国を揺るがすようなものは賭けない約定だろう!帰れ!もうお前と二度と、賭けなどしない!」


「かまいませんよ、陛下」


 怒鳴るような叫びに言葉を返したのは、帝王に名指しされた側妃本人だった。

 流行りを外したドレスの裾を揺らして二人のテーブルに歩み寄り、形の良い唇がゆっくりと弧を描く。普段と何も変わらない、この状況に全く不釣り合いな薄い笑み。


「望まれるならまいりましょう。私は、陛下の慈悲で側妃にして頂いただけの女ですから」


 そう言って、彼女は身に付けていた髪留めを床に落とす。小さな宝石の付いたネックレスや、一国の妃が身に付けるにしては安物の耳飾りも。軽い音が、磨き抜かれた床で鳴る。

 最後にサイン一つで側妃となった日に与えられた、金の指輪に触れて―――その薬指を、一回り大きな手が包んだ。


「それを外すのは夫の役目だろう?すぐに新しい、似合うものを贈ってやる。さて、帰れと言ったな国王。新しい妃を連れて、望み通り俺はグランヌスに戻ろう。……ネレイスと言ったか?お前程美しい女は珍しい。存分に可愛がってやろう」


 嗤いながら、帝王は指輪を外した。駒と同じようにチェス盤の隣に置いて、ネレイスの肩を抱く。

 もはや言葉を失った国王を置いて、グランヌスの一行は帰路についた。








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