返答
大切な人の日々が、穏やかであることを望んでいた。
彼らがお腹を空かせて眠る夜が、もう来ないで欲しかった。
寒い日に古着を何枚も重ねるのではなく、暖かい服を着て欲しかった。
お話を作るのが上手なあの子の誕生日に、本をプレゼントしてあげたかった。
それは叶ったのに、まだ望めと彼は言う。
怖がらなくていいと、震える指を絡めるのだ。
「クヴァル様。……私は、ずっと」
掠れた声は、彼には届いたらしい。
知っている、と赤い瞳が細められた。
エフィナに協力を求めた。
貴女が決めたなら、と彼女は頷いてくれた。
部屋を出る前、クヴァルの肩に頭を乗せて、瞳を閉じる。この服の下、傷痕の数を知っている。過去を越えてここにいる。彼も、私も。そんな当然が、どうしてか、今は。
ライヒムは―――あの男はお前を愛しているよ、と耳に唇を寄せた、クヴァルに呟かれる。アンジェなんかよりもよほど、と。
「だから、思いっきり拒絶してやるといい。まだ愛されているという幻想を壊してやれ。それはあの男にとって、生まれてはじめての拒絶された経験になる。取り戻せる女ではなく跪いて縋るべき相手になれば、ずっと交渉しやすくなるだろう」
「……ならなかったら?それで、彼が私を憎んで、諍いの原因になったら」
「ならないよ。その程度の執着であるものか。せいぜい言いなりにしてやると良い」
自信に満ちた、尊大な言葉。けれど、彼が言うならそうなのかもしれない、と思わせた。
行ってきます、と言った。必ず戻れと彼は返した。
指先を絡めて、離す。
乞われたからでも妃としてでもなく、私から彼に触れたくて触れるのは、多分、これが初めてだった。
∮
風が吹いた。
王宮の東屋で正装に身を包んだライワールトの王が、畏まった面持ちで私を見ていた。
エフィナに国王に伝えるよう頼んだ伝言は、正午に王宮の裏庭、東屋で私が待っている、というものだった。大輪の花々に囲まれた人通りの多い、けれど人払いをすれば、誰にも会話を聞かれずにすむ場所。学園に入る前なら、何度かライヒムとお茶をしたこともある。
「ネ、レイス……」
「ごきげんよう、陛下」
椅子に座ったままどうぞ、と声を掛ければ、何度か口ごもった後に、彼はテーブルについた。
侍女にお茶を用意させる。ティーカップを持つ彼の指は、ほんの少しだけ、震えているように見えた。
どちらも、茶菓子に手など付けなかった。ライヒムは私や机、周囲に視線を向ける。ゆっくりとカップがソーサーに置かれて、数拍の逡巡のあと、男は口を開いた。
「な、なあ、ライワールトに戻ってこないか?グランヌスとの関係は気にしなくたっていい。あんな国、いつ国交を断絶したって構わないんだ!」
金の瞳は緊張と、期待があるように見えた。
「それは、また私を側妃として、公務を行う道具として扱うためですか?」
「ち、違う!正妃として迎えたいんだ」
そうしてもう一度、夫婦としてやり直したいんだ。そんな言葉を、男は吐いた。
「あなたの正妃はアンジェ様でしょう?彼女のことはどうなさるおつもりですか」
「アンジェは側妃に落とすか、それがどうしても嫌というなら故郷に返すつもりだ」
「そうですか。かつては婚約者だった私を側妃にし、今度は正妃にしたいという。正妃だったアンジェ様は逆に側妃にするのですか。―――随分と、勝手ですね」
常と変わらない口調と表情になるよう気を付けながら、それでも笑みとともに言葉を返す。昨日彼はアンジェと3人のお茶会を提案していたけれど、頷かなくて良かったと考えた。3人の茶会でこんな話が出ていたら、血が流れていたかもしれない。
ごくりと男は生唾を呑んだ。焦り、戸惑い、浮かべる表情をつぶさに見る。
「ど、どうしてそんな言い方をするんだ……。君は、そんな女性じゃなかっただろう?あいつのせいなのか?クヴァルのせいで、君は、俺を裏切るような真似を」
「そんな女、とは?私について、陛下はどれだけご存じなのでしょうか。私たちは国に、互いの親に決められて、いっとき婚約していただけです。あなたはずっと、私を嫌っていたでしょう」
男の顔が、歪んだ。
「…………そんなわけがないだろう!」
「ふふ。けれどあなたは、私がアンジェ様に砂入りの紅茶を用意されても、ほどほどにしておけとしか言わなかった。―――裏切り、だなんて。そもそも私たちの間には、最初からなにもなかったではないですか」
薄く笑った。かつてと同じ、ライヒムに一番多く向けていた笑みを。
男は、ひどく傷ついた顔をした。まだだ、と瞳を細める。向ける表情、声音、全て完璧でなければならない。
遠くから東屋を、グランヌスの兵が注視している。嫉妬に狂いそうだから話し合いの場は見ずにおこうといったのに、クヴァルは今も、私を守ろうとしてくれる。
それが、とても。
「ライワールト国王、ライヒム・ミハーレク陛下。私は今、グランヌスの人間として……クヴァル様の唯一の妃として、ここにいます。あなたの妃だったのは昔の話です。クヴァル様は私を手放さないでしょうし、私も、彼が与えてくれたものに感謝をしています。私を裏切り者と、憎いと思われますか?けれど私は、たとえ貴方にいま殺されたとしても、望み通りにはならないでしょう。私は」
自然と、笑みがこぼれた。
「クヴァル様の、妃ですから」
言葉にすると、少し照れ臭かった。ライヒムは目を見開き、青い顔で、唇の動きだけで私の名をなぞる。
「そ、んな、ネレイス、君が、そんなことをいうなんて。でも俺は、それでも、きみが、すきなんだ…………」
彼のこんな顔を、初めて見た。
軽く息を吸う。本当にそうであるとは、と少しの驚きがあったが、表情には出さない。
さあ、ここが、正念場だ。
笑みを消し、真正面からかつての夫を見定める。ライヒム様、と呟いた。
「信じません。そんな言葉を、信じられるわけがない。ああ、けれど、それでももしあなたが私を好きだなんてのたまうのなら……。そうですね、賭けをしましょうか」
長い賭けを。私の残りの人生、全てを使って。
「誠実であってください」
「私はグランヌスの妃です。ですからあなたとはライワールトの王として、正しくお互いの国益のために関わりたいのです。善い王で在ってください。そうして数年か、数十年たって。あなたの誠実を、心を信じることが出来たなら、いまの言葉に返事をしましょう」
∮
「分かった。約束しよう。だから、そうしたら、ネレイス。君は、戻ってきてくれるのか……?」
その言葉には、返事をしなかった。何があっても彼に応えられないことは分かっている。
一礼して東屋を去る。縋る視線はずっと感じていたが、振り返らなかった。
ライヒムは血を知らない。戦争を起こす、という発想すら持っていない。そんな彼の良心に、善良に賭けよう。確かに存在した、私への愛情へも。
そうして、その全てを利用する。望む未来の為に。
クヴァルのもとに戻れば、お帰りと両腕を広げられた。一歩足を進めれば、間髪入れずに強く強く、抱き込まれる。
「クヴァル様」
「いい。顔を見ればわかる。……これからが長いぞ」
ええ、とうなずく。
この国の王はーーー。ライヒムは、素直な男だ。誠実であることを約束すると言ったからには戦争を仕掛けることも、私のために国を揺るがすこともないだろう。
今の私が正妃に戻りはしないと言い切った今、彼がアンジェと離縁する理由は薄れたけれど、彼女をどうするのか、辺境伯を除いた他の貴族はどう振舞うのか。問題が起こった時には、1つ1つ対処していかなければいけない。
腕の中で息をつく。10年以上前、家族さえ幸福であればそれでいい、と決めたあの時より、ずっと重いものを背負おうとしている。
それでも1人ではないらしいことも、もう知っている。
抱き込む男に、頭を寄せる。
ああ、もしかして。
「……クヴァル様。あなた、もしかしてとても、女性の趣味が悪いですね?」
吹き出すように、彼は笑った。いたずらが成功した子供のように、無邪気に。
「なんだ。厄介な男に惚れられたと、今更気が付いたのか」




