終章 開花
空に浮かぶ蛍の数は、年々、確実に減ってきていた。
けれど人々はそれを「偶然」と呼び、数字を並べて安心し、気づかぬふりを決め込んだ。
誰も見上げない空には、もう、還る魂など残っていないというのに。
氷室山の中腹。
少女が転落死したとされる崖のふちに、赤黒い染みがまだ残っている。
澄みきった日差しがそれを照らすと、岩肌の色とも区別がつかない。
誰も気づかない。気づいても、見なかったことにする。
かつて蛍が舞ったこの地は、いまや、何の面影も残していない。
爆ぜた肉片は空に還らず、ただ土に吸い込まれ、骨だけが音もなく沈んでゆく。
夢の思惑通り──あの事件は“事故”として処理された。雪で足を滑らせたことによる転落死。
教室で未来の名前が呼ばれるたびに、一瞬の沈黙の後、重苦しい雰囲気が漂うようになった。
しかし、誰一人として夢を咎める者はいなかった。
当然だ。夢は、未来に無理やり連れられて巻き込まれてしまっただけの、可哀想な“普通”の少女なのだから。
夢は今も“普通”を演じている。
小さな声で挨拶をし、無難な言葉を並べ、一日、一日を生きている。
けれどその目は、鏡に映せば正体を映す。
乾ききった炎の奥で、誰の声も届かない何かが、じっと瞬いている。
あのじくじくした痛みを、彼女が感じることは、もう、無い。
彼女はもう、何も感じていない。
哀しみも恐怖も、まるで他人のもののように、彼女の耳元を通り過ぎていった。
今日もまた、氷室山には、ひとりで山を登る少女の姿がある。
リュックには小さな水筒。首からは鈴。
彼女はまだ、誰も信じて疑わない年頃だ。
道の途中、木陰で誰かが待っている。
声をかけると、あちらも笑った。
柔らかな声だった。
「…迷子?」
「うん…」
くすん、と鼻を鳴らす少女に夢は目線を合わせる。
「じゃあ、一緒に行こうか。」
少女は、少し戸惑いながらもその声に頷き、そっと歩み寄った。
その背中に、誰も知らない世界の匂いが漂っているようだった。
──その直後、遠くで鳥が飛び立つ音がした。
山は何も言わず、空は今日も静かだった。
そしてまた一つ地上に、赤い花火が咲いた。
来年も、そのまた来年も。
夢にとっての火薬が尽きるまで、花火は咲き乱れるのだろう。
冬──到来である。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
どうか皆さまは、夜空に咲く花火を存分に楽しんでくださいね。