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第五章 内省

ばちん、と鈍い音が響いた。頬には一瞬の熱が走る。どうやら平手で打たれたらしい。


「…何で…なんで、こんなことしたの?!」


肩を上下させながら、母は鬼の形相でこちらを睨みつける。足元には私が毎日、公園や学校で見つけた、大切な“コレクション”の箱があった。引き出しの奥に隠していたのに…見つかってしまったのか。


「…あんたは普通じゃない…ほんとうに、きもちわるい…」


途端に母は膝から崩れ落ち、わあわあと泣き始めた。幼いながらに、泣いたり怒ったり忙しい人だなと思った記憶がある。


うずくまっている母の傍をすり抜け、箱へと歩み寄る。


小さな段ボール箱の中では、子猫の死骸が眠っていた。

まだ生後数ヶ月にも満たない。痩せた骨の輪郭が皮膚を押し上げ、あどけなさを残した顔は、苦しみの痕跡すら見せずに、ただ静かに目を閉じていた。


その周囲には、夥しい数の虫の死骸が散乱していた。

黒く干からびたハエ。脚をもがれ、硬直したムカデ。殻だけが残ったクモ。ひっくり返ったままのゴミムシたち。どれも命を終え、動かぬ殻となって、子猫の小さな体の周囲に寄り添うように積もっていた。


子猫の腹部には、大きく裂けた痕があり、その隙間からは赤黒い内臓が覗いていた。けれど、それすら痛みとは無縁のように思えるほど、空間は静まり返っていた。


血がこびりつき、束になって固まった毛と、まだふわふわとしたままの産毛。

それが、虫たちの破片と絡まりながら、薄い死の繭のように猫を包んでいた。


これは、子猫に贈る棺だ。花々の代わりに死んだ虫たちを手向けた、ごく“普通”の棺桶。


私は“普通”のことをしたつもりだった。死んだ生き物を棺に入れるのは“普通”ではないのか?


何がいけなかったのか分からない。ただ、はっきりと分かっているのは、これが普通ではないということだけだった。


この日を境に、両親の目の色は変わった。怖いというよりも、冷たかった。

もう何年も、二人の笑顔を見ていない。


父と母は世間体を保つことに必死で、『バケモノ』の手綱を、きつく緩めずに握り続けた。

GPS付きのスマートフォン。こまめな連絡。しかし、それは愛故じゃない。

一度、二人が話をしているのを聞いたことがある。


──(いっそのこと、事故か事件に巻き込まれて死んでしまえば良いのに)


私が、とは言っていなかった。しかし、嫌でも分かってしまった。

両親は私を愛することを、とうの昔にやめていた。


だから、私も諦めた。うれしい、たのしい気持ちにすべて、蓋を被せた。

そうやって感情を揺れ動かさないようにしていれば、“普通”でいられた。

一人で居ること、それだけが相手と自分を守る手段だった。

私は、それなりに平穏な日々をおくることができていたのだ。



…彼女がやってくるまでは。



──「西村未来です!今日からよろしくっ!!」

とびきり明るい声と、屈託のない笑顔は、私には眩しすぎた。


最初は、ただ煩わしかった。


いちいち声が大きいし、すぐ人の距離を詰めてくるし、話しかけられてもどう返せばいいのか分からなかった。


──「ねえねえ、下の名前、なんていうの?」

──「そんなの良いから、ね?早く行こ!!」


なのに、未来はそんな私の反応を、全然気にした風もなく笑っていた。

だから私は、未来の前では、眉の力を抜いても良いんだと思ってしまった。


ほんの、好奇心だったんだ。


──「夢は、優しいね。」


初めてそう言われたとき、意味が分からなくて固まった。乾き切った砂漠の砂に、ぽつぽつと雨粒が落ちていくような、そんな感覚。


未来の言葉は、いつもまっすぐだった。

私が言葉を選んで遠回しにしても、彼女は正面から受け止めた。

私が無視をしても、未来はそっと傘の下に入れてくれるような距離感で、私のそばにいた。

そして、誰もが腫れ物のように避ける「私」という存在を、“私自身”として見てくれた。


未来と過ごした、あの一日。

どうしようもなく、笑顔が溢れた。

どうしようもなく、胸が熱くなった。


ああ、ダメだ。


こんな感情を抱いてしまえば、もう“普通”ではいられなくなる。


私は、感情を閉じ込めることで、自分という存在を保ってきた。

そうすれば、誰にも踏み込まれずに済むと思っていた。


でも、未来は違った。


言葉のすき間に入り込み、心の隙を見つけては、そこに陽だまりのような声を落としてきた。


未来が現れてからというもの、私の中にあった“平穏”は、少しずつ崩れていった。

まるで、綺麗に均された水面に小石を投げ入れられたように、静かな日々はさざめき始めた。


なのに、私はそのさざなみを、心のどこかで愛おしく思っていた。


──こんな気持ち、知らなければよかったのに。


どこかで、そう思っていた。

けれどもう、私は気付いてしまっていたのだ。


未来がいる世界は、寂しくなかった。

それが、私にとって一番の“異常”だった。


私にとって、“楽しい”は脆い。

“優しさ”は一時的。

“愛”は、やがて剥がれる装飾にすぎない。


未来が笑うたびに、私の中に何層にも重なっていた無感動の膜がゆっくりと破られていくようだった。

それはあまりにも心地よくて──でも、恐ろしかった。


こんなふうに思えるようになってしまったのは、全部、未来のせいだ。


なのに未来は、何も知らない顔で、私に無防備な笑顔を向ける。

まるで「私はあなたを傷つけないよ」と、信じきった犬みたいに。

その無垢さが、たまらなく眩しくて、時に憎かった。


──「私を本来居るべき場所に…あの光の中に還らせて。」


…ふざけないでよ、未来。


あなたが私にくれたこの感情は、どうすればいいの?

知らなかった世界に、あなたが無理やり引きずり込んだ。

それなのに、私を置いていくつもり?


……だったら、いっそ。

全部、なかったことにできたら。

あなたの笑顔を知る前に、時間を巻き戻せたら。


けれど、そのためにナイフを握ったら、私はただの“殺人犯”になってしまう。

もう二度と、“普通の人”の顔なんて、していられなくなる。

それだけは、どうしても、怖かった。


一切の証拠も残さずに、未来という“存在”だけを、この世界から消し去ることができたなら──


──なら、“事故”を作ってしまえばいい。誰も私を責めないなら、それでいい。


そんな考えが、ふと脳裏をよぎった。

そしてその思考が、あまりにも自然すぎて──私は、自分がまた“あの頃”に戻ってきたことを悟った。


思えば──あの日。

スマートフォンの電源を切った、あの瞬間。

私の中に巣食う『バケモノ』は、自ら手綱を噛みちぎったのだ。


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