第四章 決断
未来の差し出したナイフは、冷たい月明かりを受けて鈍く光っていた。小さくて軽い、折り畳み式のナイフ。けれど、その重さは手のひらにずっしりと染み込むようで、私は指先を震わせた。手の中のナイフを見つめたまま、言葉が喉の奥で渦を巻いて、何も出てこない。未来が望んでいるのは、拒絶でも慰めでもない。ただ一つ、行動だけだということが、痛いほど伝わっていた。
「…本当は、誰でも良かったの。今日、一緒に氷室山に来てくれる人なら誰でも。」
教室に入るまではね、と静かで優しい、諦めに似た声で未来は告げた。
「でもね、夢。途中から、夢だけになったんだよ。最期に一緒に居てほしいって思ったのは、あのクラスの中で夢だけだった。」
「一人ぼっちでも、凛としてて、かっこよかった。他の子とはちょっと違う雰囲気を纏ってた。」
「…あたし、本当は見てたんだよ。夢が、スマホの大量の通知、隠すみたいに確認してたこと。ああ、夢の家も、あたしの家と似たようなものなんだなって思った。」
その言葉に、胸の奥で何かが軋んだ。迷惑をかけるんじゃないバケモノが、と父親が私を罵る声、あんたなんて産むんじゃなかった、と母親が泣き叫ぶ声、一気にフラッシュバックした。
「そうだ、夢もあたしと一緒に、空に還ろうよ。この世で苦しい事、たくさん経験した私達なら、きっと一番綺麗に光る蛍になれる。きっと、楽になれるよ。」
もう自分のものなのか、他人のものなのかも分からない声が、脳内をぐるぐると目まぐるしく回転し、駆け巡る。
頭が、割れそうだった。
(楽になれる……)
その言葉は、甘くて、優しくて、あまりにも魅力的だった。
(一緒に、空に還る?)
でも、それはただの言葉じゃない。本気で、未来は私を巻き込んで死ぬつもりだ。
(そんなの……)
気づけば私はナイフをきつく握りしめていた。
未来の瞳と、重なるように見える自分の姿。
このまま、刺せば。すべて終わる。
未来は救われる。
私も、楽になれる。
もう誰にも罵られなくて済む。
誰にも拒まれずに済む。
…本当にそうだろうか?
(いや…違う…)
未来は、違う、と否定するかもしれない。しかし、根の部分は私の両親と同じだ。
(ああ…もう、うんざり)
心臓の鼓動が、ズキンズキンと疼く口内炎の痛みに呼応する。それは次第に速度を増していって。
何かが、ぷつんと途切れた。
──それでいい。
心の奥に潜んでいた『誰か』が、笑ったような気がした。
「……正気?」
喉の奥から、かすかに笑い声が漏れた。
「…え?」
未来の表情が、ふっと揺れる。怒りも、失望もない、ただただ寂しそうな表情。
「ナイフで、なんて…本気で言ってるの?」
私は、薄ら笑いを浮かべながら未来に向かって問う。一歩。また、一歩。着実に未来に近づきながら。
「ゆ、ゆめ…?」
「冗談じゃないわ。」
私の声は、思っていたよりずっと冷たかった。
「ナイフで身体を一突き、なんて中々死ねない。」
「な、何言ってるの…?ゆめ…」
未来の目が潤む。
「心臓とか頸動脈を狙わなきゃ、即死はまず無理。きっと、この世のものとは思えないほど、長くて、苦しい。」
「それに、未来の死体はどうするの?私が処理するの?血の付いたナイフと地面は?警察にはどう説明すれば良いの?警察は絶対、私が未来を一方的に殺したって考えるはず。」
「あ、え、えっと…」
「そしたら、私が加害者で未来は被害者。未来は確かに世間では同情を買うかもしれない。じゃあ、私は?」
早口で捲し立てる私に気圧されて、未来が口篭る。…何もかも、その辺に関しては無計画なのが良く分かった。
「──だから、ね?」
右手を未来の肩に向かって伸ばしながら、未来の顔を覗き込む。
「──私が、馬鹿な未来の代わりに、シナリオを書いてあげる。」
私は未来を、彼女を渾身の力で、崖に向かって押し出した。
人を突き放すとき、一番冷たい『言葉』は何だろう。否、それは言葉ではなく、『行動』だ。
「あっ──」
彼女は、一瞬何が起こったのか分からないといったようにぽかんとした顔をしていた。しかし、重力が彼女の身体を引き寄せ始めたその刹那、一度はっきりと視線が交差した。
戸惑いの色。
それはすぐに、絶望へと変わった。
次の瞬間には、その姿と彼女が発した小さな悲鳴は既に闇に呑まれていた。
私はすっとしゃがみ込み、落ちたナイフを拾い上げる。刃と柄に付着した二人分の指紋を袖で丁寧に拭き取った。そしてそれもまた、彼女と同じく崖の向こうへと投げ捨てた。
驚くほど、私は落ち着いていた。
「…同じなんかじゃ、ない。」
崖の縁から、ふらりと一歩、後ろへ退いた。ナイフを放った手を見下ろす。指先がほんのりと赤くなっていたけれど、痛みはなかった。
そのまま、踵を返す。
背後で、ぐしゃり、と何かが潰れる音がした。
──戻らなきゃ。
そう思った瞬間、身体がひとりでに動き出していた。ザクッ、ザクッと足元の枝葉を踏みしめながら、登ってきた山道を一歩ずつ戻る。登ったときはあんなにも恐ろしく見えていた山が、今はとてもちっぽけに感じた。
彼女と話していたときには、あんなにも近く感じていた空が、今はひどく遠く、冷たく見えた。満天の星が、ただの光の点にしか見えない。
誰もいない。
当然だ。私が──そうしたのだから。
「でも、良かったね。」
誰に聞かせるわけでもなく、そう呟く。
「今年の冬は、地面に一つ、花火が咲いたよ。」