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第三章 告白

必死に足を動かして、傾斜の大きい坂道を登る。氷室山の中、聞こえるのは私の荒い息遣いと、二人が雪と枝を踏みしめる音だけ。不自然なほど周囲は静まり返っていた。

私より小さい体躯ながら、未来は少しも疲れを見せることなく、それも足早に導かれるように前を進んでいた。

木々が視界を閉ざし、冷気が肌を刺す。

冬の夜だというのに額には薄っすらと汗が浮かんでいた。


少しずつ、けれど確実に足元の傾斜はきつくなっていった。

登るごとに空気は冷たさを増し、吐く息の白さも濃くなる。

周囲の木々は高さを失い、代わりにごつごつとした岩肌がむき出しになっていく。足を取られそうになりながらも、その度に何とか踏みとどまり、未来の姿を見失わないよう前を向いた。


靴底に伝わる感触が、雪や湿った枝葉から霜柱を経て、やがて硬い岩の感触へと変わっていく。


「…ねえ、未来…」


未来は何も答えない。息を切らし、問いかけるその声すら、山に吸い込まれるように消えていった。

それほどに、この場所は音を拒んでいた。


わずかな間の後、か細い声が返ってきた。

「もうすぐだよ。……ちゃんと見える場所、あるから」


それ以上は何も言わず、未来は先へ歩き出す。私はその背を追いかける。

薄く積もった雪を踏み分けて進むたび、心の中に冷たいざわめきが広がっていく。


何分登ったのか、もう感覚も時間も曖昧になったころ、視界の先にふと、木々の切れ間が見えた。


最後の一歩を踏み出すと、眼前には何も遮るもののない空が広がった。

雲ひとつない冬の夜空。普段より距離が近く、大きな月と、瞬く無数の星々がそこにはあった。


「綺麗…」


もっと見たい、そう思って足を踏み出した瞬間、ざり、と足元の砂利が崩れた。

慌てて一歩後ずさる。よく見ると目の前の地面は大きく裂けていた。靴底に残っていた小石たちが、音もなく深い谷底に吸い込まれていくその様子に背筋が冷たくなる。

頂上はあまりにも狭く、不安定で、風が吹けばそのまま落ちてしまいそうだった。


それでも、未来はためらうことなくその縁ぎりぎりまで歩を進めた。見ている私が、冷や汗をかくほどの場所。その足元は、たしかに「生」と「死」の境界線の上だった。


「夢。」


手入れが行き届いている長い黒髪を靡かせながら、未来は私に声をかけた。突然のことにびくっと肩を震わせる。


「未来…?そんなとこに立ってたら危ないよ…?」


私の問い掛けには答えずに、ふいに、未来がそっと手を伸ばす。


彼女の指先を目で追って、私は気が付いた。暗い空の中に、ゆっくりと上昇していく小さな光の粒たち。はじめは一つ、やがて二つ、三つ──それらはふわり、ふわりと漂いながら、星の海へと還っていく。


「…見えるよ、蛍が。」


未来がぽつりと呟いた。


「何で…」


それは異様な光景だった。本来の蛍の時期は、とうの昔に過ぎているはずだ。なのに何故、冬に蛍が?

私に背を向けて月に手をかざす未来は、蛍を天に導く女神のようだった。 


「普通の蛍じゃないよ」


未来は静かに言う。


「ずっと昔、本で読んだことがあるの。」


「あれはね、皆んな、この山で死んだ人の魂なんだって。」


あくまで穏やかな声だったが、懐かしさとも哀しさともつかない感情を孕んでいた。


「どんな境遇の人でも、必ず、蛍になる。年に一度の今日だけ、夜になると山のてっぺんから、空へ還ってくの。」


美しい。でも、どこか怖い。

実体のない光が、ふわふわと宙を舞い、やがて消えていく様は、まるで「命」が昇華されていく過程のようだった。


「他の日じゃ、ダメなの。今日じゃなきゃ、ダメなの。」


見上げた未来の横顔には、ほんの少しの期待が見え隠れしていた。私は何も言えずに、少し離れた場所からただその横顔を見つめていた。


「…あたしね、片親って話したでしょ?」


「…うん。」


私はこくり、と頷いた。いつの間にか風は止み、ちらちらと細かい雪が降り始めていた。


「離婚の原因は、“あの人”の浮気。

あたしは、“あの人”が外で男作って、できた子供なんだって、パパが。」


どくん、と心臓がはねた。

最近知ったの、と未来は続ける。


「最初は、意味が分からなかった。でも、日が経つにつれて、全部の辻褄が合っていくの。どうしてパパがあたしに冷たいのか、どうして誕生日を祝ってくれなかったのか、どうして……あたしはパパと顔立ちが全然違うのか…」


不意に、未来が自分の目元に手を添えた。そっと右瞼を押さえると、指先が瞳の表面をなぞるように動いた。次の瞬間、彼女の手のひらには、黒いカラーコンタクトレンズが乗っていた。


「パパと血が繋がってないなんて、そんなはずない。嘘だ、って。否定しようとしたんだけど、できなかった。」


未来の長い睫毛の奥に現れたのは、透きとおるような淡い水色の瞳だった。左目の黒色と、右目の水色。彼女の抱えてきた痛みに想いを馳せるよりも先に、私は、その静謐なコントラストに目を奪われていた。的外れな思考だと、自分でも分かっていた。

私が感じていたものは、同情でも驚きでもなかった。


「“あの人”は黙って家を出て行ったんだ。何も言わずに。あたしは、“あの人”にとっても不要な存在だったんだ。産んだのは自分なのに無責任だよね。」


「“あの人”が最後に残したのは、知らない男の名前だけだった。」


「名前を呼ばれた記憶なんて、たぶん一度も無い。あたしにとって“母親”だった時期は、最初からなかったのかも。」


一拍置いて、未来はふと視線を落とした。


「──だから、あたし、夢の学校に転校させられたの。パパは、あたしの顔なんか見たくなかったからだと思う。この水色の目も、“あの人”を思い出すから……。遠くにいたほうが、都合が良かったんだよ、きっと。」


未来はぎゅっと唇を噛んだ。

私は言葉を返せなかった。未来が母親のことを“あの人”と呼ぶのは、嫌悪を根源とする、一種の拒絶反応だろう。


「あたしは、パパにも、誰にも、必要とされて無い。じゃあ、あたしがこの世に居る意味って…何?どんなに明るく取り繕ったって、心の中は傷だらけのまま。ずっと…悲鳴をあげてるの。辛いよ。苦しいよ。」


未来の声は、掠れていた。


「…ねぇ、夢。お願いがあるの。」


一度、未来は言葉を止めた。息を吸って、吐いて。ほんの少し逡巡するように目を伏せる。

そして、決意したようにゆっくりと視線を上げた。私を見据える未来は、頬に一筋の涙の跡を、口元に柔らかな微笑みを称えていた。


「……もう、ここまで来れたから」


そんな風に呟いてから、未来はそっとポケットに手を差し入れた。


数秒後、取り出したその掌には、小さな折り畳み式のナイフが乗っていた。


「私を本来居るべき場所に…あの光の中に、還らせて。」

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