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第二章 現幻

一月の凍てつく空気に肩をすくめながら、未来の後ろをひたすらについて行く。足取りは重く、半分溶けた雪を踏み潰す水っぽい音が妙に頭に響いた。吐き捨てるように息をついて、その白い吐息を追い越すように歩き続けた。


「…学校飛び出してきて、良かったの?」


あんた転校生でしょ、と至極真っ当な意見を未来にぶつける。


未来は私の声に反応して、くるりと振り返った。目をぱちくりさせて、きょとんとしている。


「ぷっ…あはは!」


そうしたかと思えば、いきなり笑い出した。わけが分からない。


「な、何がおかしいのよ…」


「ふふっ、いや、ごめん…っ、だって夢、最初に自分じゃなくて、私の心配するんだもん…」


目尻には涙が滲んでいた。いつの間にか名前を呼び捨てにされていることに私は気が付いた。未来は一頻り笑い終わると、涙を拭いながらふーっと小さく深呼吸をした。


「夢は優しいね。」


未来は小さく微笑みを浮かべた。何となく寂し気な表情だった。こんな私のどこが優しいと言うのだろう。無愛想で、根暗な、この私の何がそう言わしめたのだろうか。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ。センセーも何も言ってこなかったでしょ?」


「私たちを許したってより、もう諦めたって感じだったけど。」


「まーそうだろうねぇ。」


両手を背中の方で組み、背中をぐーっと伸ばしながら、未来は他人事のように呟いた。


「…呑気ね。親に学校サボったこと、バレるの怖くないの?」


「ぜーんぜん?私の家、両親離婚してて片親だし、パパは遅くまでシゴトばっかりだから。」


私のことなんて全然興味ないんだよ、と未来は遠くを見るような目をした。突然、はっと我に返ったように息を呑み、私の方をぶんっと振り返った。


「そういえば!無理やり引っ張ってきちゃったけど、夢の方は大丈夫?ご両親、怒るかな…?」


今更か、とため息を吐く。しかし、口をパクパクさせながら慌てふためく未来は壊れた人形のようで少し面白かった。


「…別に、多分大丈夫。」


制服のポケットから太腿へ振動が伝わる。スマートフォンを半分取り出し、ちらりとロック画面を見やると、そこには夥しい量の留守番電話の通知。すべて、父と母からだ。おそらく担任から連絡がいったのだろう。


「それなら良かった!」


と胸を撫で下ろしている未来には悟られないように、スマートフォンの電源を切り、鞄に押し込んだ。見てみぬ振りをした。


「でも、これからどうするの?『冬の蛍』って…蛍って大体夏に出てくるものじゃない?」


「ちっちっち、考え方が安直だよ、夢。」


未来は右手の人差し指を立てて、軽く横に振った。さながら探偵のような立ち振る舞いだ。


「実際に見れば分かるよ!こっちこっち!」


手招きしながら走り出す未来に、置いていかれないように必死に後を追う。全力で走ったのなんて何年振りだろう。時々私の方を振り返って、無邪気に笑う未来に自然と笑顔が溢れた。


何キロも歩いて、走って。ようやく見つけた自販機の前で、未来が腰に手を当てた。


「どれにする?あたしはオレンジジュース!」


「子どもか。」


「…子どもで結構!良いでしょ、好きなんだから。」


結局、私はコーヒーを選んだ。でも隣で嬉しそうに紙パックにストローをさす未来を見て、少し羨ましくなった。


電車を乗り継いで、バスを乗り継いで。窓際に座った未来が、外を指差す。


「ほら、山がめっちゃ近い!」


「学校からでも見えるよ。」


「でも電車から見ると新鮮じゃない?」


くだらない感想に返事をしながらも、いつの間にか本当に新鮮に見えてくる。


お腹が空いたからコンビニでサンドイッチを半分こして。

「ツナと卵、どっちがいい?」


「卵。」


「ほらやっぱり、卵は人気なんだよ。」


「じゃあ未来が卵食べなよ。」


「だめ、最初に言った人の勝ち!」

小競り合いしながら結局きれいに分け合って、ベンチの上で笑い合った。


ヒッチハイクにも挑戦したけど、一回も車は停まってくれなくて。


「やっぱり怪しいかな、あたしたち。」


「未来が手振りすぎなのよ。」


「えー、元気アピールって大事でしょ。」


悔しそうに肩をすくめる未来につられて、私も声を上げて笑った。


ほんの些細なことが起こる度、未来につられて私も笑った。たった一日限りの非日常。

電源を落としたスマートフォンの存在なんて、頭から抜け落ちていた。それほど、まるで夢を見ているように幸せだと感じた。


この時なら、まだ引き返せたのかもしれない。

でも、私は…あの笑顔の残像を、ずっと、ずっと追いかけていた。


いつの間にかすっかり夜も更けた。日が落ちると、朝とは比べものにならないくらい気温もさらに下がる。コート一枚の身なりでは流石に凍えそうだ。はぁーと擦り合わせた両手に吐息をかけて、寒さを凌ぐ。もうここが何処かも分からない、人里離れた土地を私たちは並んで歩いていた。


しばらくして、未来がぴたっと立ち止まった。何事かと思い、私も立ち止まる。未来は目を見開き、明るい声色で私に告げた。


「あった!あそこだよ!」


未来が指を差した方向へ、私は視線を向けた。

そこには、灰色の空を切り裂くように、どこまでも高くそびえ立つ黒々とした山があった。


木々は異様なほどに密集し、昼なお暗く、陽の光を拒むように幾重にも影を重ねている。


「入ったら二度と出られない」──それを体現するかのような迫力があった。

見ているだけで、足元がひやりと凍るような、得体の知れない不安が喉元を這い上がってきた。私はごくり、と唾を飲み込んだ。


足がすくみ、立ち尽くしている私とは対照的に、未来はずんずんと山へ向かって歩みを進めていった。


「ね、ねえ!」


思わず未来に声をかける。未来がゆっくりと私の方を振り返ったのは気配で分かった。しかし、未来と視線を合わせる勇気は無かった。


「…行くの、明日にしない?ほら、もう遅いし…」


地面に落とした視線を、再び上げた。同時に息を呑んだ。


「…何、言ってるの?」


微笑んでこそいたが、その目は今朝の、美しく輝いた無垢なものではなかった。ぽっかりと二つ、穴だけが空いたような深淵。光を反射するけれど、何も宿さない、中身の無いガラス玉のようだった。


「…今日しか、見られないんだよ。」


早く行こ、そう言い捨てて踵を返し、未来は前を向いて再び歩き出した。


「わ、分かったから…待ってよ…」


雰囲気が変わった未来に、言い知れない違和感を覚えながらも、ここからどうやって帰るのかも分からない私には彼女に従うしか道は無かった。


やがて、山のすぐ正面までたどり着いた。

ふと、隅に斜めに立っている、朽ちた木製の看板が目に入った。

そこには、風雨に擦れて半ば剥げ落ちた文字で

「氷室山」と、そう記されていた。


(ひむろ、ざん…?)


舌の上で冷たく転がるような響き。

未来も言葉を失い、ただ看板を凝視していた。

私もしばらく固まったまま、その文字を目で追っていた。

しかし、未来がふっと一歩踏み出す。

山の方へ歩き出そうとするその刹那、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、思わず声が出た。


「…そういえば、さ…」


声が、震える。

未来を目の前にして、ずっと訊きたかったことを口にする勇気を絞り出す瞬間。

(どうして、私をここに…?)


「…どうして、未来は私をここに誘ったの…?」


言葉にすると、胸の奥のざわめきが一気に押し寄せる。

未来は黙って、少し視線を外し、削れた看板の文字を指先でなぞった。


「…夢はさ、もし今日のこと、誰にも言えなかったらどうする?」


答えを避けるような口ぶり。

私の質問を無視しているわけじゃない。でも、核心に触れるのを避けているような、不思議な間があった。


「…え?」


驚きの声が、漏れる。問いに答えてくれない未来に、私は少し焦る。


「…別に、いいと思う。二人が覚えてれば、それで。」


必死に声を振り絞る。まるで、知らない誰かと対面しているかのような感覚だった。

未来は小さく笑った。その笑みは、慰めではなく、どこか遠くを見つめるものだった。


「ふふっ。」


その横顔を見つめながら、胸の奥がひんやりと締めつけられる。


「夢の、そういうところ。」


言葉の余白に、私たちの一日が、そして未来との距離が、静かに落ち着いた影を落としていた。

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