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第一章 邂逅

私、東雲夢が彼女──西村未来と出会ったのは高校三年の冬だった。


季節外れ、それももう卒業間近の時にやってくる転校生とくれば、普通の人が興味を抱くのは当然のことで。噂は瞬く間に学年中に広がり、何ともまあ自分勝手な憶測を3-Aの生徒たちは繰り広げていた。


「親が海外赴任から戻ったらしい」だの、「問題を起こして前の学校を追い出された」だの──根拠のない話が休み時間ごとに増えていく。教室の片隅では、机を寄せ合って推理ごっこに興じる者もいれば、廊下ではちらりと覗き見る者もいる。空気は妙にそわそわしていて、黒板のチョークの音さえ、普段より軽く響いていた。


(…うるさいなぁ)


その熱は遠く、まるですりガラス越しに眺めているような気分だった。


シャーペンの先で、広げたノートの罫線をなぞる。書いているわけではない。ただ、動かしているだけ。空っぽのノート。空っぽの教科書。空っぽの時間。


無意識に、自身の頬を手の平でなぞる。なかなか治らない“それ”は、常日頃から小さな火種のように私の神経を刺激していた。最近では苛立ちよりもむしろ諦めのほうが勝っている気がする。何もする気がおきないのは、この口内炎のせいだ──そうやって理由を作って、自分を誤魔化した。


そんな退屈な朝を破るように、不意に教室のドアがガラガラと音を立てながら横に引かれ、担任がひょっこり顔を覗かせた。

クラスの期待に満ちた空気をざっと見渡した後、彼はゴホン、とひとつ咳払いをした。


「えー…皆んなもう知ってると思うが、今日から我が3-Aに新たな仲間が加わる。」


教室に頭だけを突っ込んだまま、担任は言葉を探すように間を置く。心なしか顔色が悪い。


「それで、その──」


「あー!もう!長ったらしい!!退いて!!」


突然轟いた大声が、クラス全員の背筋を跳ねさせた。その声の主は、お、おい!と制止する担任の肩をぐいと押し退け、ずかずかと教室に踏み込んでくる。板張りの床を叩く足音が、やけに大きく響いた。

誰もが一斉に困惑した視線を向け、そして息を呑んだ。

髪も瞳も、日本人らしい色をしているのに、輪郭は驚くほどくっきりとし、光を受けて浮き彫りになった顔立ちは、まるで異国の物語から抜け出してきたかのようだった。しかし、当の本人はそんな好奇な視線など無いかのように堂々と黒板まで歩み寄っていった。


チョークを握り、大きな文字を書く。力強く、生命力を感じさせる字──その白い粉が、ふわりと宙を舞った。

ぐるりとクラス内を一瞥し、ひとつ大きな息をついて、にかっと笑顔を浮かべた。


「西村未来です!今日からよろしくっ!!」


ピースサインを頭上に掲げながら勢いよくそう告げる彼女。教室内はぽかんと呆気に取られた。今日から、といっても卒業まであと二ヶ月もない。ちらりと担任を見やると、額に手を当て、気まずそうに私たちと教室を見比べていた。その顔はまるで、「また胃が痛くなるネタが増えたな」と言っているようだった。あーあ…と私は、先程の担任の不可解な行動の原因はこれだったのかと納得した。そして、彼の努力が水の泡になったことに対して、深く同情した。


(それにしても……未来、ね。)


変な名前。明るさと希望を詰め込んだみたいな響きで、まるで“この先”を保証してくれるみたいだ。

名は体を表すとはよく言ったもので、彼女も毅然としてその名を背負っている。

そして、その通りの顔をして笑うものだから、なおさら腹立たしい。

だからこそ、耳にした瞬間、思わず眉間に皺が寄った。


「あーっ!!」


また突如として響く彼女の声に、私の意識は急激に引き戻された。再び彼女──未来に視線を向けると、キラキラとした瞳と目が合った。


未来の視線が私を捉えた瞬間、首の後ろがかすかに粟立つ。


(……どうして、あんな目で見てくるんだろう)


「ねぇ!あたし、あの子の隣に座りたい!」


貝殻のように繊細なピンク色の爪を携えた未来の指先が、私に向けられた。


ほらあの窓際の一番後ろの席の、ショートカットの、と未来は息を弾ませながら担任にまくし立てる。


「東雲のことか?あ、丁度隣の席も空いてるな。じゃあ、西村の席はそこな。」


やったぁ!という未来の歓喜の声と共に、一斉に数人の視線がこちらを向く。私は「え?」と一瞬だけ固まった。トントン拍子に話が進みすぎていて、頭が追いつかなかった。


「しののめちゃん? よろしくねっ!」


嘘でしょ……未来はにこっと笑って、まっすぐこちらに近づいてきた。その笑顔は、まるでステージに立つ役者のようで、自然体には程遠かった。面倒くさいことになった、と瞬時に悟った。


隣の席に腰掛けると、未来は机に肘をついて、じっと私を見つめてくる。


「ねえねえ、下の名前、なんていうの?」


「……夢」


ふんふん、と未来は小さく頷く。


「ふーん、ゆめちゃん、かあ。可愛い名前だね!」


「……どうも」


私は、彼女の目を正面から見られなかった。

その深く透き通った瞳をずっと見ていると、私の内側まで暴かれそうな気がしてならなかった。


◆◆


ホームルームが終わると、教室はざわざわとした活気に包まれた。

未来を中心に、生徒たちが自然と輪を作っていく。


「どこから来たの?」

「すごく元気だよね!」

「一緒に帰ろうよ!」


声があちこちから飛び交い、笑顔が溢れる。未来は照れくさそうにしながらも、時折大きく頷いて応えていた。


「ねえ、好きな音楽は?」

「部活は何してたの?」


好奇心いっぱいの質問が途切れずに続く。


それを私は遠巻きに眺めていた。

ふと、まるで何かを思い出したみたいに未来がぱっと私の方へ向き直った。そのままの勢いで人垣を抜け、小走りで近づいてくる。


嫌な予感がする。私は慌てて窓の外を眺めるふりをして、未来と視線を合わせないようにした。しかし、未来はお構いなしだった。


「ねえねえ」


未来が人差し指で、ジャケット越しでもはっきり分かるしつこさで、私の二の腕を突く。


「…今度は何」


こうなってしまっては仕方がない。さっさと会話を終わらせてしまおう──そう思った。


「…ゆめちゃんはさ、『冬の蛍』って、知ってる?」


その言葉の響きは、白い雪の上に落ちる焚き火の火の粉のようだった。唐突で、消え入りそうで、それでいて目を離せない。


「はぁ?」


何言って…と鼻で笑いながら次の言葉を紡ごうと未来の方を見た瞬間、私は固まった。

未来の顔の笑みは消えていた。

そこにあるのは、じっと私を見据える二つの深淵だけ。


「時間が、無いんだよね。」


「…見に行こうよ、今から。」


決して思い付きでは無い、覚悟を宿した声色だった。

未来はそう言うや否や席を立ち、ぐいっと私の腕を引いた。

その力は、その華奢な身体からは想像もつかないほど強かった。


「ちょ、ちょっと、ほんとに行くの?!

無理だって、授業あるし──!」


「そんなの良いから、ね?早く行こ!!」


ここでようやく私たちの様子に気付いた担任が「お、おい、西村!」と慌てて声を張った。しかし、既に未来は靴音も軽やかに、迷いなく教室の外に向かっていた。私はそのまま、引きずられるようにして後を追った。


「え、え、先生止めなくていいんですか!?」


残された生徒たちの困惑と、担任のため息混じりの「……もう知らん……」が、背後で遠く響いた。


教室を離れた瞬間、私は思わず振り返った。

休み時間にも拘らず、廊下は不気味なほどしんと静まり返っていて、私たちの足音だけが無遠慮に響いた。


それなのに──

この場にはいない誰かに、確かに見られている感覚がした。

誰かが、どこからか「それは違う」と言っているような。

あるいは、未来の手を振りほどくべきだったと、そう責められているような。


でも私はその手を振り払うことができなかった。


心の奥が、じわりと冷えた。

それは寒さでも恐怖でもない──もっと、原始的な。



私の中に巣食う『何か』が、私自身の意志とは裏腹に、その手を無抵抗で受け入れていた。

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