いつかの春風
次の日も荷物を置いて、すぐ病院に行った。
それなのに、いつもの病室に楓ちゃんの名札が無くて。
「ね、楓ちゃんは?」
「え、あー……」
気まずそうに言葉を濁す看護師さんにやな予感がした。
病室の扉を勢いよく開けると昨日まで楓ちゃんがいたはずのベッドはもぬけの殻。
枕元のチェストに置いてあったふたりの写真も、楓ちゃんの好きだった花を生けた薄紫のガラスの花瓶も。
楓ちゃんのやさしい匂いまで全部。
何もかも、無くなっていた。
代わりに残ったのは真っ白な無機質な空間と、エタノールの寂しい匂い。
「ごめんね桜詩くん、楓ちゃん転院することになって…」
「なんで…?」
「お引っ越し、するんだって。」
「引っ越し…?」
聞いてない、そんなの。
病院を飛び出して、楓ちゃんの家まで夢中で走る。
隣の家。
ずっと隣で、これからも隣にいてくれると思ってたのに。
「…なに、これ…」
息を切らせて見上げた楓ちゃんの家も空っぽになっていた。
外されて凹んだ表札。
2階の楓ちゃんの部屋のカーテン。
庭に植わってた、あの花すら。
全部が最初からなかったみたいに。
誰に聞いても転院先は教えてくれないし、お母さんもなにも教えてくれない。
それどころか「病院行きすぎだったから」なんて、ちょっとほっとしたような声で。
自分の生活から楓ちゃんが居なくなるのが信じられなかった。
それからは楓ちゃんだけのための笑顔も、必要なくなった。
ただ24時間を繋げていくだけの毎日。
“医者になればいつか会えるかもしれない”
そんな根拠も筋も通らない理由で医学部に入って、医者になった。
意外にも向いてたのか、苦労することなく卒業してあっという間に研修期間も過ぎていった。
気付いたらいっしょに入ったはずの同期が半分以下にへっていたけど、私にはどうでもいいこと。
未だに捨てられない感情が時々私を暗闇に突き落とした。
転院なんて、してなかったんじゃないか
そんなことを何度も考えた。
でもそれを確かめることは出来ない。
もう会えないかもしれないことを何度も頭に浮かべては追い出した。
胸ポケットで鳴ったピッチを取って、その部屋に背をむける。
「…はい」
「先生、伝言です。明日朝から新患入るのでシフト繰り上げてください」
「え、担当私だっけ?」
「教授が学会に出ることになったので変わってほしいそうです」
「んー、わかった、ありがとう」
「お疲れ様です」
仕方ないから医局に戻って白衣を脱いで病院を後にする。
大嫌いな独りの時間が始まった。
・・**