第5話 酔い潰れた後に
「あーあ。寝ちゃったね」菜々子は呟いた。
彼女は、立ち上がり、何を思ったのか孝典の横に座る。
余りにも急なことで、キョトンとしてしまう。
「せっかくだから、隣で話そうと思って」菜々子は長い髪を耳にかけ、見つめて来た。
「まあ、いいけど」孝典は唾を飲み込む。
隣に座る彼女は、いい匂いがして先ほどより可愛く見えた。
「どうしたんですか?」菜々子は強い眼差しを向ける。
孝典の心臓はドキドキと高鳴った。
目を合わせ続けるとおかしくなってしまいそうだ。
だが、黒く大きい瞳は視点を捉えて離してくれない。
――お待たせしました。ねぎまをお持ちしました。
店員は焼き鳥を持ち、入ってきた。
「すみません、頼んで無いです」菜々子は慌てて注文していない事を告げた。
――間違えました。失礼致します。
彼は慌てるように出て行った。
店員が入ってこなければ、どうにかなっていただろう。
孝典は助かったと深く息を吐いた。
酒が入っているからだ。
酔っているせいで、良からぬことを考えてしまう。
――ダメだ、ダメだ。菜々子はサニーの彼女で、妊婦。
自分に言い聞かせないと襲ってしまいそうだった。
「ん?」菜々子は首を傾げる。
「なんでもないよ」孝典は悟られないように返事した。
言葉を声に出すと、少し正気に戻れた気がした。
「サニーから妊娠してるって聞いたけど、何ヶ月?」
「3ヶ月です」
「まだ言わないでって言ってたのにな」菜々子は独り言のように呟きながら、お腹を撫でた。
「そうなんだ」
「だってまだこんなに小さいんですよ」親指と人差し指で丸を作って見せた。
「そっか。でもサニーは嬉しかったんじゃないかな。だから、ポロって言っちゃったんだと思う」
「そうなんですかね」菜々子は孝典から目を移し、自分のお腹を見つめる。
「これは勘違いかもしれないですけど、私が初めて妊娠してるって話した時、あんまり嬉しそうじゃなかったんです」
「そうなんだ」孝典は意外に感じて聞き返した。
「もちろん喜んでくれてはいましたよ。だけど、どこか複雑な表情というか、焦っていたような気がする」
「いきなり妊娠したって言われたら、びっくりするだろうよ。それに不安とかもあるだろうし」
「そうですよね。きっと私が考えすぎなだけですかね」菜々子は俯く。どうにか彼女を励ましたかった。
サニーは男を泣かしても、愛する人を悲しませるようなことをする男ではない。
菜々子を愛しているのであれば、なおさらだ。
「俺は本人じゃないからなんとも言えないけど、サニーは大丈夫だよ」
「そうですよね」菜々子は笑う。気が晴れたようだった。
「ごめんなさい。孝典さんって話しやすいから、こんなことまで話しちゃって」
「いいよいいよ、気にしなくて。妊婦はストレス溜めたらダメだから、話したかったらいつでも聞くから」
「孝典さんって優しいですよね」菜々子はキラキラと輝く瞳で見つめて言った。
身体の奥深くから熱いモノが湧いてくる。
「優しい?」孝典は上の空で復唱することしかできなかった。
「大洋くんも前に言ってたんです。『孝典は俺に金や名誉を見て近づいてきた男じゃないから信頼してる』って」
「そうなんだ」
「そう言った理由が今日初めて会ってわかった気がします」孝典は頭を掻いた。
孝典も、サニーが夢中になる理由が分かった気がした。
「ふーん」
「だから、自信もって頑張ってください」菜々子は肩をポンと叩く。
「何を?」
「何をって、プロポーズですよ」
「あ――ね」孝典は思い出したように返事した。
「女の子って急に気が変わっちゃうことあるんで、変わらないうちに」
気が変わらないうちに。
確かにそうだ、いつまでも彼女が待ってくれる保証はどこにもない。
孝典は菜々子の言葉を胸に刻んだ。
「何が変わらないうちに?」眠そうな声が視界の外から聞こえてきた。
サニーの声だ。
サニーは目をこすりながら、体を起こす。
「やっと起きたのかよ」
「え、俺いつ寝たっけ」
「ったく」3人は店を出て、夜道を歩く。
サニーと菜々子は手を繋いでいた。
サニーは足元が時々ふらつく。
「大丈夫かよ」
「大丈夫、大丈夫」サニーの表情は気持ち良さそうに、呂律が回っていない。
完全に酔っ払いだった。遠くに駅が見える。
ゆっくり歩きながら、駅まで着く。
「家まで送ろうか?」
「大丈夫だって」
「ほらシャキッとして」菜々子はサニーの背中をパシッと叩く。
「はい!」サニーは大きな声と共に背筋をピーンと張った。
「大丈夫です」菜々子は歯を見せて笑う。
「あんまり心配かけるなよ」
「じゃあここで」二人とは路線が違うので、ここで分かれる。
「また会おうね」
「うん、気をつけて帰ってね」
「バイバーイ!」菜々子は元気に手を振る。
孝典は照れ臭くて一瞬だけ振り返して、背を向けた。
2人は本当に幸せそうだ。これが夫婦。
果穂とこんなふうになれるのだろうか。
ビジョンが見えない。
なぜか。まだ迷いがあるからだ。
この迷いを持ったまま、彼女と未来を共にすることは失礼だ。だったら、いっその事……。
「ただいまー」気分が落ち込んだ孝典は真っ直ぐ家に帰る。
「おかえり」彼女の声は、温かくて心身を包み込んだ。孝典は、果穂に抱きつく。
「どうしたの?」彼女は心配そうに聞いてくる。
「何でもないよ」と言いながら、強く抱きしめた。
果穂がいない生活なんて考えられなかった。
今があるのは果穂のおかげだ。
だから、彼女のことは幸せにしたい。
「酒臭い」果穂は孝典の背中をトントンする。背中に回していた腕を解く。
でも我慢できなかった。
果穂をソファーに押し倒し、無理矢理キスをする。
「ちょっと、やめてよ」嫌がる彼女の肩をがっちりつかむ。
果穂の吐息は甘く、頭がくらくらする。
「もう」彼女は怒りながらもどこか嬉しそうだ。
唇で肌をついばむと、果穂は体をよじらせる。
感じていることを隠したいのか、顔を手で覆った。
「顔が見たい」孝典は言って、手を退ける。
赤くなった頬が、さらに感情を掻き立てた。
彼女の服を脱がせ、体を指先でなぞる。
果穂はだんだんと息を荒くし、抵抗するのをやめた。
「好きだよ」
「私も」2人はベッドに移動し、本能のままにお互いを求め合う。
揺れる身体、乱れる髪、全身をつつむ快感が高まっていった。
押し寄せた波は引き、砂浜に吸収されて、静かに消えていく。
「もう少しだったのに」脱力感に襲われ、果穂の横に倒れ込む。
汗だくで、額に髪の毛が張りついていた。
「ありがとう」果穂は仰向けの孝典を包み込む。薄暗い部屋で見つめ合う。
「大洋が結婚するんだってさ」独り言のように孝典は呟く。
「そっか」果穂は無関心そうに返事した。
強がってるのか、本当に関心がないのかはわからなかった。
孝典は彼女の顔を覗き込む。
「何?」果穂の表情は暗くてわからない。
「なんでもないよ」首に横に振り、天井を見上げた。
「先にお風呂入ってくるね」果穂は額にキスをすると、浴室に向かった。
――ピコン。
スマートフォンから通知音が鳴る。菜々子からだった。
「今日はありがとう。今度は4人で会えるのを楽しみにしてます」メッセージが彼女の声で脳内再生される。
無邪気な笑顔を思い浮かべ、親指でタップする。
「こちらこそありがとう」文字を打って返す。画面を閉じて、再びベッドに寝転がった。
目を瞑っても、彼女の笑顔が脳裏から離れない。
「なんで」爽やかな匂いが蘇る。まるで近くに彼女がいるかのように。