第22話 この世で一番嫌いな言葉
――ウーウー……。
遠くから、パトカーのサイレンの音が聞こえる。
森尾はそれが聞こえたのか、立ち止まった。
パトカーの音は止む。
近くで停車したようだ。
孝典はパトカーが見える位置まで走る。
覆面パトカーだった。程なくして、刑事が出てくる。
刑事は、森尾の方に走っているように見えた。
孝典も近くまで行ってみる。
刑事と森尾は、話をしてパトカーに乗り込んだ。
「あ……」パトカーはどこか遠くに行ってしまった。
森尾は捕まったみたいだ。
呆気なかった。孝典は、パトカーの姿が見えなくなるまで見届ける。
「大丈夫?」突然、背後から声が聞こえた。
思わず振り返る。
そこには、菜々子がいた。
「……うん」孝典は、少し沈黙してから返事する。
「もう遅いから、心配して出てきちゃった」
「ごめん、取り逃しちゃった」
「いいよ、聡くんが無事なら」彼女は、孝典の手首を掴んだ。
白くて細い指、彼女の手は冷たかった。
まるで長い間、外気に晒されていたかのように。
「もしかして、見てた?」菜々子は頷いた。
「私が刑事さんに連絡したの」
「そうだったんだ」二人の間に小風が静かに吹き、孝典は身震いした、二人は、部屋の中に戻った。
「気づいてたの? フードの男が森尾だって」
「確証はなかったけど、おそらくそうだろうと思ってた」孝典はどうしてと聞き返す。
「実は、大洋との婚約が決まった頃から森尾に付きまとわれていて」
「一方的にしつこく連絡してきたり、会社でも……」相当辛かったのだろう。
菜々子は泣き出す。
「そのストレスで、流産してしまって」それを聞いて、孝典は驚きで何も言えなくなった。
でも、森尾は菜々子を絶対に許さないと言っていた。
二人の話に相違がある。
とは言っても、森尾の話を信じろと言われても無理がある。
菜々子はショックでその後、退職したらしい。
大洋に相談してから、森尾のストーカー行為は、収まり表沙汰にしなかった。
結婚式に呼ばないでと言ったが、大洋が会社での付き合いがあるからと菜々子は仕方なく了承した。
森尾は、大洋が亡くなったことをいいことに再びストーカー行為を始めたのだろう。
「なんて、奴だ」菜々子の話を聞いてから、森尾に同情しかけたことを後悔する。
「聡くん、聞いてくれてありがとう。全部話したらスッキリした」
「それなら良かった」孝典は菜々子の落ち着いた表情を見て安心する。
ふと時計を見て時刻を確認する。16時、まだ時間に余裕はある。
「この前大丈夫だった? 果穂さんに怒られなかった?」
「怒られなかったよ」
「良かった。今日も晩ご飯食べて帰る?」菜々子は、上目遣いで見つめてくる。
彼女はズルい。
その瞳で見れば何でも許してくれると思っている。
「今日は、食べずに帰るよ」孝典はキッパリと断った。
「えーそんな寂しいこと言わないでよ」
「ずっとそばにいてあげたいけどさ、やっぱり晩ご飯まで世話になるのは良くないよ」彼女の表情は一瞬、無表情になる。
孝典はその時泣かれるのか、もしくは怒られるのかと不安になった。
菜々子は、口角を上げて笑う。
「そういう真面目なところも好きだよ」どちらでもなかった。
孝典は動揺する。
菜々子は立ち上がり、孝典の背後に回った。
「そういうところも好き」彼女は耳元で囁く。
心臓は限界を知らないくらい早く動き、顔が熱くなった。
「ダメだ、ダメだよ」孝典は、自分に言い聞かせるように呟く。
「聞こえないなあ」菜々子は、顔を近づけてくる。
またこの前と一緒だと思い、孝典は目を瞑った。
彼女はほっぺを指で突く。
「熱くなってる、ちょっと期待した?」不適な笑みを浮かべた。
不意を突かれた孝典は、強がって平静なふりをする。
「菜々子さんこそ」菜々子は窓際に行き、振り返った。
「私はずっと待ってるよ、聡くんのこと」
「何、言ってんだよ」
「フフッ。冗談、冗談」菜々子はカーテンを閉める。
「ねえ、知ってた?」彼女は薄暗い部屋の中を移動した。
「何?」
「果穂さんが大洋とこっそり頻繁に会ってたこと」
「え? 果穂は大洋とは結婚式まで会ってなかったはずだよ」
「じゃあ知らないんだ」菜々子は部屋の灯りをつける。
「月一くらいで、会ってたみたいだよ」
「月一?」そういえば、時々遅く帰って来る日もあったような、なかったような気がしてきた。浮気の2文字がよぎる。
「そんな訳ないだろ?」孝典は認めたくなかった。
「嘘じゃないもん、私見ちゃったんだ。大洋の携帯」果穂と大洋は、出会った頃付き合っていた。
お互い好きだった。
だからと言って、浮気してるとは言えないだろう。
「疾しいことがなかったら、内緒で会わないよね」
そうだ。現に今日、果穂に菜々子の家に行くことは伝えていない。
若干の後ろめたさがあるからだ。
どんな顔をして彼女に話したらいいか分からない。
「まさか……」それでもまだ認めたくない。
「直接聞いてみれば分かるよ」分かってるが、真実を知りたくない。
「何で、今言うの?」
「だって果穂さんのこと、大事そうにするからさ。可哀想じゃん」
「可哀想。僕がこの世で一番嫌いな言葉だよ」孝典は、ゆっくりと立ち上がった。
「ごめん、知らなかった」
「僕、帰るよ」孝典は一切菜々子の顔を見ず、部屋を出て行く。
帰宅しても苛立ちは止まらなかった。
果穂がいたからだ。
直接聞きたい、でもまさか大洋と果穂の間にそんなことがあったなんて信じたくない。
もどかしい。
それでも、孝典は果穂のことを信じたかった。
だから彼女に言及することはしなかった。