第2話 弱っている時に
果穂はコップに麦茶を注ぎ、テーブルに置く。
そして、物音立てずに、孝典と少し距離を置いて座る。
訳も聞かず、ただじっと座っているだけだった。
沈黙が続く。
「今日さ、福井に行ってきたんだ」沈黙に耐えかねて孝典が口を開いた。
「知ってるよ。昨日まですごく楽しみにしてたことも」果穂には世話になっていたから、ちょくちょく報告していた。
楽しみと同時に不安もあって、一歩踏み出せない孝典の背中を押してくれた。
「一人で帰って来ちゃった」
果穂の声が大きくなる。今まで見たこともないような顔だ。怒るというより心配しているといった表情だった。
「ちゃんと現場までは行けたんだ。楓と話しているうちに、ほんの少し、あの頃のこと思い出してさ。これ以上は耐えられなくて」
言葉にするだけで胸の奥底にある塊のようなものが溶け出していく気がする。
その分だけ心なしか呼吸しやすくなったように感じられた。
「それで、そのまま帰ってきたわけね」果穂の言葉はいつも通り優しかった。
孝典は果穂の顔が見れなくなった。
応援してくれていたのに、期待を裏切ってしまった罪悪感で申し訳ない気持ちになった。
「別に焦らなくてもいいんじゃないかな」果穂は再び距離を詰めてきた。今度は肩を寄せ合うくらいの距離だった。
「思い出したくないなら、無理に思い出そうとしなくても、きっといつか向き合うべき日が来る。それまで待てば良いと思うよ」
「そうだね……」
「協力できることがあったら何でも言ってね」果穂は微笑みかけた。孝典の心は少し楽になった。
冷静になり、二人は、互いの距離の近さに気づき、恥ずかしくなった。どちらともなくに離れた。
やがて、陽は落ち夕食の時間になった。
夕食は、果穂の手作りだった。作ってもらっといて、なんだが味はあまり美味しくなかった。
でも孝典は、我慢して完食した。
居場所を与えてくれたという事実が嬉しかったから。
突然押し掛けたにも関わらず、受け入れてくれた気持ちが嬉しかった。
――果穂の好きな人って……?
友人とはいえ、異性。急に家に泊めてと頼まれて、泊めるだろうか。
さっきの表情は、恋している女の顔だった。
だから、果穂とのハグはあんなに優しく温かかったのか。
それを無意識のうちに求めていたのはなぜだ。
「まさか」孝典は思わず口走る。
自分の心に嘘をつくことはできない。それは一番自分がよく知っているはずだ。
「何か、言った?」果穂は不思議そうに見つめてくる。
「いや、何も言ってないよ」
「そっか」彼女は笑顔を見せた。
この瞬間にも心を奪われていることに気づいてしまった。
「孝典、ベッドで寝る?」
「え、果穂はどこで寝るの?」
「あたしは床で寝るよ。お客さんには寝せられないから」
「でも、女の子を床に寝させる訳にはいかないし」孝典がそう言うと、彼女は笑った。
「何がおかしいんだよ」
「いや別に。あたしのこと女の子として見てくれてるんだなあって思っただけ」孝典は果穂の目を見られなくなった。
「何恥ずかしがってんの?」
「別に恥ずかしがってなんかないよ……」
「でも、顔赤くなってるし」孝典は右手で自分の頬を触った。
果穂は一歩一歩近づき、孝典の手を握る。
「……じゃあ、一緒に寝る?」耳元で囁かれた声に背筋がぞくりとした。
彼女は、真剣な眼差しで見つめる。孝典は、うんと返事してしまいそうだった。
「やめろよ、変な冗談」握っていた手を払い、果穂に背を向けた。
「冗談じゃないよ。あたしは本気」果穂が背後から抱きついてくる。
「え?」
「孝典だって……あたしの本当の気持ち、気づいてるくせに……」果穂の声は震えていた。
彼女の体温と柔らかさを感じる。
心臓の音まで聞こえてきそうなくらい密着している。
「あたしは好きだよ、孝典のこと。孝典は?」
「ズルいよ、果穂は。弱ってる時に」
「ズルくてもいい。あたしは、今の孝典にしか告白する勇気が持てない」
「果穂……」彼女の気持ちは、本気で真剣なことが伝わって来た。
孝典は思わず、果穂の手を握った。
「もう少し、待ってくれる? 今は、誰も愛せない」
「分かった」果穂は身体に巻き付いていた腕を解く。
二人は再び、見つめ合う。
「え?」孝典は果穂の後頭部に手を回し、彼女の唇にキスをした。
「でも、今の果穂に恋したい」
「バーカ」二人は見つめ、笑顔を弾けさせた。
「フフッ」孝典は昔のことを思い出し、ニヤつく。
「ねえ、今何考えてた?」添い寝する果穂が、胸を撫でる。
「さあね」果穂と過ごした初夜のことを思い返してたとは、とても恥ずかしくて言えなかった。
「何よ、隠し事?」
「朝だ、起きよう」孝典は彼女を払い除け、飛び起きた。
「もう……」二人は身支度をし、朝食の準備をする。
「やっと晴れか」孝典はテレビをつけ、天気予報を確認する。
「このところ、ずっと雨だったもんね」
「うん。良かった」
「今日は晩御飯いらないんだっけ?」果穂は作ったスムージーをテーブルに置く。
「うん、サニーとご飯に行く」清水大洋、彼とは5年経った今でも連絡取る関係は続いていて、最近こそ頻繁ではないが、それでも年に2回もしくは3回程度会っている。
「そっか」
「果穂は?」
「特に。家でのんびり過ごそうかな」
「そう。来週は、デート行こうね」
「うん、ありがとう」果穂は嬉しそうに笑う。
――昨日未明、箱根山付近の山中で、男女の白骨遺体が発見されました。
――遺体の身元は、所持品から名古屋市在住の坂田渉そして横浜市在住の針谷雅と見られています。
テレビでニュースが流れた。孝典は、コーヒーの入ったコップを持ったまま、テレビをじっと見つめる。
――遺体は死後数年経過しており、地中に埋められていたことから、警察は、殺人事件として捜査を進めています。
孝典は持っていたコップが震えた。
「どうかしたの?」果穂は心配そうな顔で見てくる。
「いいや、別に」白い歯を見せて笑う。上手く笑えたか、分からない。でも平静を装うしかなかった。