第12話 思い出のシャロー
――カランコロン。
大洋は仕事終わりに喫茶店のシャローで待ち合わせした。
「おまたせ」先に来て座っていると、背後から肩を叩かれた。
「おつかれ」果穂は一言声を掛けて、向かいの席に座る。
座るとすぐに店員を呼び、アメリカーノを注文した。
「この店来るの、久しぶりだね」
「そうだね」シャローに来るのは、あの時以来だ。
「なんで、今日はここなの? いつもは居酒屋なのにさ」
「まあ、たまにはいいっしょ」
「そうね」大洋は酒を絶ったからだとは言えなかった。
彼女は長い髪をかき上げた。
大洋はその姿に寂しさを覚えた。
あの頃は短かった果穂の髪が、今では胸元まで伸びていた。
「何?」
「髪の毛伸びたなって」大洋はショートヘアが好みだった。
「随分前からだよ?」
「分かってるよ。あいつが言ったんだろ?」
「そうそう。長い方が似合うって」果穂は孝典の色に染められていた。
そのことが、大洋は気に食わなかった。
――お待たせ致しました、アメリカーノです。
店員は果穂の前にコーヒーを置く。
果穂は上品に一口飲む。
果穂は鞄の中をゴソゴソと探し、封筒を取り出した。
「はい、今月の分」テーブルに封筒を滑らし、大洋の前に置いた。
大洋は手に取り、中身を確かめる。
「あれ? いつもより多い」
「あんた、結婚するんでしょ? その気持ち分」
「そうか、ありがとう」大洋は封筒を鞄にしまった。
「返済まで、もう後少しだね」果穂は嬉しそうに話す。
「果穂が毎月欠かさずに返してくれるおかげでね。もう少しペース落としてくれてもいいんだぜ?」大洋がおどけた調子で言う。
「早い方がいいでしょ? お互いのために」
「いやー、何気に毎月楽しみしてたからさ。お金受け取るの」
「自分が貸したお金なのに?」
「自分の小遣いが増えた気分になってたから、急に貰えなくなると寂しくなる」
「まあ、確かにそうか。今度は私が自由になるお金が増えるんだもんね」果穂は白い歯を見せて笑う。
「そうだよー、何か奢ってよ」
「嫌だよ」
「えー、ケチー」
「だってやっと自由になるんだよ?」
「そりゃそうだけどさあ……」大洋は果穂と会えなくなるのが寂しかった。
――俺があの時、引き留めていたら……。
――何か変わっていたのかな……。
果穂にフラれた時の記憶が蘇り、それを追いやるように瞼を閉じた。
「孝典とは上手くいってるのか?」
「まあ、それなりにね」
「それなりって? 何か、不満でもあるのか?」
「5年も付き合ってるんだからさ、何かしらあるわよ」
「そうか。そうだよな」大洋はため息をついた。
「どうかしたの? 今日の大洋、変だよ。らしくないっていうかさ」果穂は気に掛ける。
大洋は、ブラックコーヒーを一口飲んだ。
「俺ともう一度、やり直さないか」勢いに任せて言った。
「な、何言ってるの?」果穂はその言葉に目をぱちくりさせる。
「何を今更。あんた、結婚するんでしょ」
「冗談だよ、バーカ。本気にしちゃって」大洋は精一杯の笑顔を作り、もう一度コーヒーを飲んだ。
苦みが一層増した。
果穂はぷくりと頰を膨らませる。
「別に、本気に何かしてないし⋯⋯」彼女は目線を下に逸らした。
「サニーには感謝してるよ。あんたがあの時助けてくれなかったら、あたしは今頃どうしてたか分からない。考えたくもない」果穂の瞳には光るものがあり、胸が苦しくなった。
「だけど、あたしは孝典のそばに居たい。彼を放っておくわけにはいかないの」大洋は彼女を好きで良かったと、心の底から思えた。
「だから、冗談だって」大洋は笑ってごまかした。
果穂の笑顔と涙を見てしまった後では、茶化すことくらいしか出来ない。
「ばか」果穂は笑いながら、人差し指で下瞼を拭った。
「相当惚れてるんだな」
「うるさいよ」
「まあまあ、怒んなって」大洋は果穂といるこの空気が好きだった。
心地よさと、安らぎが同時に存在していた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「うん」2人は会計を済ませ、店を出た。
――カランコロン。
「じゃあ、ここで」
「また来月」
「うん。じゃあまた」2人は店を出てすぐにバラバラに分かれて、帰宅した。
大洋は手を振った後に、駅に向かう果穂の後ろ姿をじっと見つめた。
その背中が、どんどんと小さくなっていく。
果穂の背中が見えなくなっても、大洋はしばらくその場所で立ち尽くしていた。
――果穂のこと幸せにしなかったら、ぶん殴ってやるからな。
ポケットに両手を突っ込んだ。
足元に小さな石ころが落ちていることに気がついた。
足で蹴飛ばしてみたが、代わり映えしない景色が広がっているだけだった。
「ただいま」大洋は何食わぬ顔で帰宅した。
「おかえりなさい。ご飯できてるわよ」菜々子の声がする。
「うん、ありがとう。すぐ行くよ」大洋は自分の部屋に鞄を置き、スーツにシワが残らないように丁寧に脱いだ。
それからリビングへと向かった。
「いただきます」テーブルの上には、美味しそうな匂いが漂うハンバーグが置かれていた。
「おいしい?」菜々子は嬉しそうに訊ねる。
「うん、すごく美味しいよ」
「よかった」菜々子はホッとしたように息を吐く。
大洋は、パクパクと食べ進める。
しかし、菜々子の箸が進んでいなかった。
「どうしたの? 食べないの?」大洋は菜々子の顔を覗き込みながら尋ねた。
「あのね、話があって」菜々子の目が少し潤んでいるように見える。
嫌な予感がした。
箸を持つ手が途中で止まった。
続きを聞きたくなかった。
菜々子はそれでも話し続ける。
唇が震えているのが見えた。
「そうか、話してくれてありがとう」大洋は声を振り絞った。
菜々子の目は赤くなっていた。
今にも溢れ出しそうなほど、涙が溜まっているように見えた。
大洋は悔しさからか、奥歯を噛み締めた。