第1話 鬼の仮面を被った女性
「腹減ったなあ」グルグルと鳴るお腹を擦りながら、街を歩く。
「あ、そういえば、この近所に有名なラーメン屋さんがあったよな。あそこにしよう」前はいつ来たか覚えていないが、美味しかったラーメン屋さん。
名前は確か、喜風亭と言ったか。想像するだけでお腹が減る。足早に歩を進めた。
「あ、あったあった」ちょうどお昼時、いつもなら長々と行列を作っているが、人々の姿は無い。
「待てよ、今日って休みなのかな」暖簾はかかっていたが、見慣れない光景に少し心配になりながら、店の扉を開ける。
――ガラガラ。
扉を開けると店主らしき人と目が合う。
「へい、らっしゃい」なんだやってるじゃないかと余計な心配をしたことに苦笑いしながらカウンター席へと腰掛ける。席に着いて一息つき、メニューを取り出した。
「やっぱり、喜風亭と言えば豚骨醤油だよな」メニューを見て呟くように言う。そして、その言葉と共にまた空腹感が増してきた感じがした。
「ご注文はお決まりですか?」店員が水を入れて、目の前に置く。
「はい、喜風豚骨醤油ラーメンを一つお願いします」
「かしこまりました、少々お待ちください」店員は厨房に消えていった。
しばらくすると、トンッという音とともに湯気の立つ丼が置かれた。スープから漂う香りで鼻腔がくすぐられる。麺の上に乗っているチャーシューも見るからに旨そうだ。
「いただきます」早速、箸を手に取り、麺を啜った。
――あれ……?
麺はゴムのように硬く、噛みきれない。
スープも、ただ生臭いだけの味だった。
以前はこんなこと無かったはずだ。
もう一度食べようと口元へ運ぶものの、やはり硬すぎて飲み込めず、口から離して手に持つしかなかった。
高まっていた空腹感は、落胆へと変化し、ついには箸を置いてしまった。
もういいやと帰ろうとした時、ガラガラと店の戸が開いた。
入り口には、髭を生やした男が立っていた。
どこがで会ったことがあるような、知っている顔だ。だけども、名前は思い出せない。
「お前、人の店で勝手に何やってんだ!!」男は入ってきた途端、怒鳴り込んできた。
「何か文句あんのかよ!」店主は床にコック帽を叩きつけた。店の雰囲気は険悪なものに変わる。
「当たり前だ! 好き勝手しやがって!」
「オーナーのラーメンなんて、食べに来る客なんていませんよ!」店主は言い返す。
「何だと? やんのか? コラ!?」オーナーは余程ラーメン愛があるのか、さらに憤激する。
「上等だ、この野郎!」
「てめえ、いい加減にしろ!」次の瞬間、男が店主を突き飛ばし、店主は倒れ込んだ。
頭を打ったのか、頭を抱えて倒れたまま動かない。
床には、じわじわと血溜まりが広がっていく。
「やっちまった……」オーナーは冷静さを取り戻したのか、顔を青ざめて声を漏らした。
孝典は店主を助けなくては、と携帯電話を取り出し、通報する。
「次はお前の番だ!」電話に気を取られ、男が迫って来ていることに気が付かなかった。
――グサッ。
オーナーが持っていた包丁は腹部を一突き、黒い前掛けが赤く染まる。
下腹部辺りに違和感があり、持っていた携帯電話は血まみれになっていた。
「なんで……?」どうしたことか、包丁が刺さっていた。視界に血が流れ、真っ赤に染まる。
――あーー!!
誰かの叫び声と同時に目が覚める。
白い天井が目の前に現れる。
身体は燃えるように熱く、背中は汗でびっしょり濡れていた。
「なんだ、夢か」孝典はため息をついた。
「どうしたの?」果穂が一糸纏わぬ姿で心配そうに顔を覗き込む。
「ごめん、気にしないで」孝典はありがとうと彼女の髪を左耳に掛けた。
「気にしないでって言われると余計に気になるよ」果穂はぴたりと身を寄せ、首筋にキスをする。
「変な夢見ただけだから」
「どんな夢?」
「包丁で刺される夢」
「えー、死んじゃうんじゃないの?」
「やめろよ、縁起の悪いこと」
「大丈夫、あたしが守ってあげるから」果穂は孝典を包み込む。なんだろう、孝典は胸が熱くなった。
「ありがとう、果穂……」そういえば、いつも果穂に助けてもらってばかりだった。
病院に行って脳に異常がないか調べるときも。
戸籍を取得するために裁判所に行くときも。
5年間ずっとそうだった。
あの日から、5年。未だに、失くした記憶は完全には戻っていない。
あの日、楓らと北山家を訪れた日。
孝典は断片的に記憶がフラッシュバックした。
海岸で初めて会った時から、あの家で過ごしたことまでが一瞬にして、脳内を駆け巡った。
ずっとずっと映っていたのは、楓だけだった。
何人か共に過ごしていたはずなのに、楓の事以外印象的に残らない。
孝典は楓のことが好きだったんだと彼女の顔を確かめると、ブーブーと警報音が鳴り、赤い回転灯が光った。
視野が真っ赤に染まり、空からは新聞紙の雨が降り注ぐ。
孝典はパニックになり、頭を抱えた。
そして、雨が止むと、一枚の新聞記事が目に留まった。
大野茂の記事だ。飲食店のオーナーで従業員を突き飛ばし、殺してしまった事件のことが書かれていた。
それは、衝撃的で、悍ましかった。
彼が殺人犯だったなんて。彼に救われたはずなのに、存在が不快に感じる。
同じ空間にいることで、自分のことも穢れそうだ。
今隣にいるのは、その娘。
これを知った時、楓を愛せなくなったんだと分かった。
今にも逃げ出したかった。
だが、金縛りのように筋肉が硬直し、動かせなかった。
それだけではなかった。
胸がズキズキと苦しい。呼吸が荒くなって、頭がクラクラする。真昼間なのに、辺りが暗く感じる。
「大丈夫?」隣から声が聞こえて、目だけをその方向に動かす。
そこには鬼の仮面を被った女性がいた。
――誰だ?
その女性は明らかに楓ではなかったが、瞬きをすると、楓の姿に戻った。
「大丈夫、大丈夫だから」
――覚悟はあるのか?
楓の姿をした者は、再び仮面の女に戻り、孝典に問う。
一体何の覚悟だと言うのか。女は少し近づいてくる。
「来ないで……」孝典は恐怖から後退りする。
孝典には覚悟とやらはまだ足りなかった。
これ以上、ここにいてはいけない気がした。
「ごめん、急な用事を思い出したんだ。先に帰ってるね」楓に嘘を告げ、その場から逃げた。
行き先なんてどこにもないことくらい分かってた。
けれども、彼らと関係を絶つ事に後悔は一切なかった。とりあえず、東京に戻りたかった。
東京に戻っている間、緊張感から解放されたせいか、涙が溢れた。
自分でもなんでこんなにも悲しいのか分からない。
どれだけの大勢の人たちが居ようと、涙が溢れる。
すれ違う男と肩がぶつかろうと、関係なかった。
電車を乗り継ぎ、近所まで戻ると、正気に返れた。
――なんだろう、この気持ちは。
心の奥底から無性に求めているものがあった。
あの温もりだ。
欲求に従うしかなかった。
一度しか訪れていない道筋も迷うことなく、孝典は梅崎果穂の家のインターホンを鳴らす。
「どしたの? 今日は楓と福井に行ってるんじゃ……?」孝典は何も言えなかった。
施錠が解除され、自動扉が開く。
孝典は真っ直ぐに果穂の部屋まで歩いた。
玄関のドアノブを引く。玄関の鍵はかかっていなかった。
――ガチャ。
果穂が出迎えてくれた。
孝典は思わず、果穂に駆け寄り、抱きしめる。
果穂は何も言わずに抱きしめ返す。果穂の身体は温かった。
求めていたのは、この温もりだ。
孝典は安堵から、涙を流す。
「今日さ、泊まっていい?」無茶は承知だった。でも頼れるのは彼女以外いなかった。
果穂は密着していた身体を離し、孝典の顔をじっと見つめた。
「うん、いいよ」少し間を空けてから彼女は返事した。
何の間だったのか、孝典には分からなかったが、彼女のそばにいられるなら、どうでも良かった。