喪失した記憶
──ふっと、意識が途切れたような気がした。
思考がもつれ、まるで夢の途中で目を覚ましたような感覚が広がる。
「……あれ?」
何をしていたのか一瞬わからなくなった。だけど目の前の光景がすぐにそれを思い出させてくれる。
そうそう、この本棚の並びをチェックしている途中だったんだよね。
「えーと、どこまで終わらせたんだっけ?」
ほんの数秒前までのことが霞がかったように曖昧に感じられる。どこまでチェックを終わらせたのかがまったく思い出せない。
「んー、仕方ない。最初からやり直そう」
本棚の左上に目をやり、首を少し後ろに傾けて一冊ずつ背表紙を追っていく。その中で、ふと一冊の本が目に留まった。
「この本はたしか……除籍されたんじゃなかったっけ?」
いや、ここにあるってことは私の勘違いか。
それにしても、今日は何だかおかしい。指先に感じる紙の感触、ふわりと舞う埃の匂い、何もかもがいつもと同じ光景のはずなのに、心の奥にひっかかる違和感が消えない。何か大切なことを忘れているような気がする……。
目の前に並んだ本の背表紙をぼんやりと眺めながら思考を巡らせていると、古海先輩の声が室内に響き渡った。
「よ~し、倉住もあとは明日の昼当番の仕事にしていいからこっちにおいで~」
声のしたほうに近づいていくと、貸し出しカウンターの中に座る志和くんの前に古海先輩と東堂先輩が立っていた。私がその輪の中に加わると、古海先輩は意気揚々として話し出す。
「先週、うちの父さんが映画のチケットを四枚くれてな、この間の休みに梨々花と二人で観に行ってきたんだ」
「とっても面白い映画だったわよ」
前にもこんなことがあったような……。いつだっけ?
それに、なんでだろう……。先輩たちはとても楽しそうに話しているのに、私の胸の中には悲壮感が漂っている。
「梨々花ったらもう、わんわん泣いちゃってさ」
「わんわん泣いていたのは空ちゃんでしょ。私は静かに涙を流していたわ」
東堂先輩に事実をバラされた古海先輩がほんのりと顔を赤くさせる。
いつも凛々しい古海先輩がこんな顔をしているところなんて滅多に見ることはできない。普段の私だったら、あとでくじらちゃんに自慢できるって考えて喜んでいるところだ。それなのに、ちっとも嬉しくない。
「まあ、と・に・か・く! それだけ面白くて泣ける映画だったってことだ!」
「ジャジャジャジャーン! ここで二人にいいお知らせで~す」
古海先輩がカバンから封筒を取り出す。その封筒が目に入った途端、胸の中に漂っていた悲しみの感情が渦を巻いて広がっていく。
「未経験者の中でも図書委員会の仕事をいち早く覚え、私たちに多大な貢献をしてくれたお主らに、二枚余ったこの映画のチケットを一枚ずつ進呈してたもろう~!」
「わ~パチパチ~」
封筒から二枚のチケットを取り出した古海先輩は、そのうちの一枚を志和くんに差し出す。
「ありがとうございます」
志和くんは満面の笑みでそれを受け取った。
どうしよう……。理由はわからないけど、このチケットを受け取ってはいけない気がする。だけど、敬愛する先輩たちからの好意だ。受け取らないわけにはいかない。
そんなことを考えている間に、古海先輩が私の目の前にもう一枚のチケットを差し出してきた。それと同時に、『受け取ったらだめだ』という気持ちが肥大していく。それでも私は、必死にその気持ちを押し殺しながらチケットを受け取るしかなかった。
「ありがとうございます……」
「一人で観に行くも、二人で観に行くも主らの自由であるからにして」
「イヤーン! 二人で観に行ったらまるでデートみたいじゃな~い! 映画のあとは二人で近くの公園に行っ──」
変なスイッチが入ってしまった東堂先輩の頭を古海先輩がぺしっと叩く。そんな二人の漫才のようなやり取りを見ていても、悲しみの感情は一向に消えてくれない。楽しいっていう気持ちが湧き上がってこない。
「じゃあ、用件も済んだし私たちは先に帰るぞ」
「戸締り忘れないでね~」
満足気な表情で図書室を立ち去る先輩たちは、廊下に一歩出たところで何かを思い出したように振り返った。
「志和~、ちょっとこい」
志和くんは貸し出しカウンターの外に出ると、すぐに先輩たちに駆け寄っていく。
あの先輩たちのことだ。きっと私を映画に誘えとか言ってくれているんだろう。そもそもこの映画のチケットだって、私と志和くんの仲を進展させるためにプレゼントしてくれたに違いない。
それがわかっているのに、私の中の何かが志和くんと一緒に映画を観に行くことを拒んでいる。『今すぐにこの場を立ち去れ』といっている。理由はわからないけど、一緒に映画に行くと後悔することだけは、なぜかはっきりとわかった。
早く帰らなきゃ。このままここにいたら志和くんに映画に誘われちゃう。それを断ったら、志和くんに嫌われてしまうかもしれない。
そう考えた私は、すぐに貸し出しカウンターの中へと足を踏み入れ、カウンターの上に置いてあったペンケースと付箋を掴むように手に取ると、急いで奥の棚に向かった。そして開いたままのカバンにそれらを押し込み、ファスナーを勢いよく引き閉めた。その瞬間──志和くんの声が背後から響いた。
「倉住さん、少しだけ時間あるかな?」
わずかに緊張を帯びたその声に、体が硬直して動けなくなった。
どうしよう、きっと映画に誘うつもりだ。どうやって断ろう……。もう見たことがあるって言えばいいかな? でもそれだと先輩たちの気持ちを踏みにじるみたいで嫌だし、なんか嘘っぽい。ほかに何か、もっと自然な理由は……。いや、それよりも早く何か言わなきゃ……。
「どうしたの?」
背を向けたまま、どうにかその言葉だけ絞り出した。志和くんの言葉はすぐに返ってくる。
「今まで黙っていたけど、入学する前に僕は倉住さんに会ったことがあるんだ」
「うん……」
バスで出会ったこと、志和くんも覚えてたんだ。ずっと何も言ってこないから、あれが私だって気づいてないのかと思ってた。でも、なんで今、それを言うの?
そう考えた瞬間──私の中の何かが警報を鳴らし、胸の鼓動が早まる。
「倉住さんは覚えているか分からないけど、バスで僕の隣に座った倉住さんが眠っちゃって……」
「うん……」
私も覚えてる。だけどそれを言ってはいけない気がして、ただ頷くことしかできなかった。
「覚えてないかな?」
そんな私の心情など知る由もない志和くんは、何の悪気もなく追及してくる。
言いたい、私も覚えてるよって。でも喉の奥まで出かかったその言葉が、見えない何かに絡め取られたように、どうしても口から出せない。
「ごめんなさい……」
結局、謝ることしかできなかった。そして次の志和くんの言葉で、どうしてそれが言えなかったのか、どうして映画に行ってはいけなかったのかを理解することになる。
「いや、まあ、とにかく……僕はその日、倉住さんに恋をしました」
すべては、この告白を回避するためだったのだと。
「図書委員の仕事を頑張っていたのも、早くひとり立ちできれば、倉住さんと一緒の当番になれるかもしれないと思って……」
私も同じ。志和くんと一緒の当番になりたくて委員会の仕事を一生懸命覚えたんだよね。それなのに今、私は志和くんの告白を断ろうとしている。
なんで……。なんで私は志和くんの告白を断ろうとしているの? どうしてこんなことを考えてるの?
納得できないまま終わりを迎えようとしている初恋に、全身が微かに震え、気づけば涙が頬を伝っていた。
「ほかにもいろいろ伝えたいことはあるけど……あの日からずっと、倉住さんのことが好きだったんだ。僕と付き合ってほしい」
私も入学してから……ううん、きっと初めて出会ったあの日から、志和くんのことがずっと好きだった。だけど私が志和くんと付き合うと、何かとても悪いことが起こる。そして私は、何か大きな、取り返しのつかない後悔をする。そんな予感がしてならない。
いや、これは予感じゃなくて、私の中に深く刻まれた確信だ。なぜかはわからないけど、私にはそれがわかる。だから……辛いけど、悲しいけど……。
「ごめん……なさい」
そう返事をするしかなかった。
「志和くんとは……付き合え……ない……。本当に……ごめんなさい」
唯一の救いは、志和くんに背中を向けていたこと。涙を見せないように断ることができたこと。
もうこれ以上、この場にいることはできない。涙を見られる前にカバンを手に取り、私は逃げるように図書室をあとにした。




