偽りの心
いつも私が乗っている電車が目の前で発車し、繋がらない電話と既読にならないメッセージが、私の心に暗い予感の波紋を静かに広げていく。
「きっと寝坊してるだけだよね」
次の電車に乗れば、まだホームルームにはギリギリ間に合う。次の電車が来るまでは待とう。
「まったく、卒業式の日に寝坊するなんて、純くんったらおっちょこちょいなんだから」
次の電車も目の前で発車し、遠ざかるその姿が小さくなるにつれて、心の奥で広がる波紋はじわじわと大きくなっていく。
「あ~あ、もう遅刻だよ」
先生には怒られちゃうけど、卒業式にはまだ間に合うから許してもらえるよね。でも卒業式に遅刻した図書委員長って後輩たちの噂になったら純くんのせいだからね。いや、高校の歴史に名を残せるなら逆にそれもいいかもしれない。
「ふふふっ、なんだかおかしくなってきちゃった」
『お掛けになった電話番号は電波の届かない場所にあるか電源が入っていないため──』
電源切れたかな? 呼び出し音も鳴らなくちゃった。これはきっと、寝坊して慌てて学校に向かったから、スマホを忘れていったんだね。
私がもう先に行ってるって考えて、純くんはいつも通りバスで学校に行ったんだ。きっと途中で私に連絡しようと思ったけど、スマホを忘れたから連絡できなかったんだね。そうだ、くじらちゃんは純くんと同じクラスだ。電話してみよう。
呼び出し音が鳴ると、くじらちゃんはすぐに電話に出てくれた。どこかの誰かさんとは大違いだ。
「あ、おはよう。もう教室にいる?」
「うん、あと五分くらいでホームルーム始まるし。どうしたの?」
「実は純くんと電話が繋がらなくて……。純くんもう来てる?」
「いや、たぶんまだ来てないと思う。もしかして優奈ちゃんもまだ来てないの!? 卒業式だよ今日っ!」
まだ学校に来てないのか……。
「たぶん純くん、寝坊して慌てて、スマホ忘れてると思うんだよね。申し訳ないんだけど、純くんが来たらどうにかして私に連絡してくれないかな?」
「それはべつに構わないけど──」
「よろしくね」
「優奈ちゃん今どこにい――」
もしかしたらまだ寝てる可能性もあるよね。学校に来たらくじらちゃんが連絡してくれるから、私は一応純くんの家に行ってみよう。タクシーで純くんの家まで行けば、まだ卒業式に間に合うよね。急がなくちゃ。
急いで改札を抜けて駅前の広場へ出ると、タクシーを待つ人影は見当たらなかった。すぐに先頭のタクシーに乗り込んで、運転手のお姉さんに行先を告げる。
「なるべく急ぎでお願いします」
「それはべつにいいけど、あんたの制服のとこ、今日は卒業式じゃないのかい? もう学校は始まってる時間だろう?」
「そうですけど、彼氏が寝坊して迎えに行かないといけないんです」
「ひゅ~、青春してるね~。わかった、ぶっ飛ばして行ってやるからまかせときな! いや~、あたしもそんな時代に戻りたいもんだね~」
ちょっと走っただけなのに、心臓の音が異様にうるさく感じる。運動不足かも。
「あたしの友達も卒業式の日に寝坊してさ、その子もそういえばタクシーで学校に来たって言ってたね。今は喫茶店を経営してるんだけど、店長のくせに今でも寝坊ばっかりするから従業員によく怒られてるみたいでさ。笑っちまうよね」
「そうなんですね」
「いやー、でもまさか、あいつが経営者になるとは思わなかったよ。いや、寝坊ばっかりするから案外そっちのほうが――」
それにしても、よくしゃべる人だな。話さなくていいから運転に集中してほしい。
純くんの家が近づいてくるにつれて、タクシーに乗ったときよりも心臓の音がうるさく感じる。お姉さんの運転が荒かったせいかな。いや、卒業式に間に合わないかもって焦っているからかも。
「もうすぐ着くと思うけど、待っといたほうがいいかい? そういえば、ちゃんと金は持ってるんだろうね」
あっ、考えてなかった。
スマホを取り出してコード決済用のアプリで残高を表示させると、純くんの家までの分にはかなり余裕があった。
一時停止をしたタイミングで、私がコイントレーの上に置いたスマホの画面をお姉さんが確認する。
「これで学校まで足りますか?」
「あ~、全然余裕だね」
「じゃあ、待っててもらえますか? あ、そこ左に曲がって真っ直ぐに行ったところです」
このお姉さんのおかげで予想よりも早くここまで来れたし、このお姉さんの運転なら卒業式にも余裕で間に合いそう。ちょっとおしゃべりだけど。
「げっ、パトカーいるじゃん。あ、ちょうど出ていくとこか。どの家なんだい?」
なんで純くんの家の前にパトカーが……? もしかして純くん、何か悪いことして警察に捕まっちゃったのかな。あ~なるほど、それで来れなかったんだね。
「パトカーがいたところで止めてください」
お姉さんは少しだけ怪訝そうな顔をしたけど、何も聞かずに門の手前に停車して後部座席のドアを開く。
「ここで待ってるから行ってきな」
タクシーから降りて門の中に入ると、シロマルに餌をあげようとしていたのか、ドッグフードを片手に庭に立っていたお義母さんと目が合った。
お義母さんは目を見開き、一瞬硬直したあとに、おぼつかない足取りで私のほうに歩み寄ってくる。
「優奈ちゃん……どうしてここに……」
か細く震える声が、風に溶け込むように消えていく。
「純くんと待ち合わせしてたんですけど、時間を過ぎても来なくて、電話も繋がらなくて……」
寝坊しているのかと思って――そう続けようとした瞬間、お義母さんの手からドッグフードがバラバラと地面に落ちた。
そして、その場で崩れ落ちるように泣き出す。嗚咽が次第に強まり、静かな庭に張り詰めた空気が広がっていった。
そっか……そうだよね……最初の電車が発車した時点でもうわかってた。寝坊したとしても、純くんが私に何も連絡してこないわけがない。卒業式の日に、お義母さんが起こさないなんて考えられない。
「ごめんねっ! ごめんね優奈ちゃんっ! あの子ったら、あの子ったら……」
現実の重さが胸の奥に重くのしかかり、心臓の鼓動が激しく響く。まるで世界が崩れ落ちる音が、心の奥でじわじわと広がっていくような感覚が押し寄せてくる。
もう自分の心をごまかすことはできないんだね……。純くんはまた……死んでしまったんだ……。




