90.我が家の元愛犬は平穏を取り戻す
よい意味で大反響を呼んだ次期王太子妃のお披露目式から二週間が過ぎた頃。
ラテール伯爵邸に戻ったフィリアナは、ふと目を向けた窓から差し込む日差しが、いつの間にか柔らかなものになっている事に気づいた。
同時にアルスが人の姿に戻ってから、約二ヶ月近く経っている事にも驚く。
しかしこの二ヶ月で姿が大分変わってしまったアルスは、時の流れの早さを感じるどころか、フィリアナのすぐ側で心地良さそうに惰眠を貪っていた。
そんなアルスの様子にフィリアナが苦笑していると、突如サロンの扉が勢いよく開かれた。同時にそこから、やや顔色が悪いロアルドが姿を現す。
「あー。兄様、おはようー」
「おはようじゃない! お前達、いい加減にしないと……本気で父上に怒られるぞ!?」
やっと王立アカデミーで出された夏季休暇中の課題が終わったらしき兄から、急に何かを指摘されたフィリアナが不可解そうに眉間に皺を刻むと、先程まで気持ち良さそうに寝息をたてていたアルスが目を覚まし、気だるそうに視線だけをロアルドに向けた。
「何がだ……。俺達はフィリックスに怒られるような事は何もしていないぞ?」
太々しい様子で反論してきたアルスに対し、目の下のクマが目立つロアルドが盛大にため息をつく。
「だったら今のお前達の状態はなんなんだよ……。いくら婚約者同士とはいえ、この状態は明らかに不適切な男女の接し方だろう!?」
更に指摘されたフィリアナは視線を下に落とし、自身の膝上を大占領しているアルスに目を向ける。アルスの方もロアルドの指摘に納得がいかないという表情をしながら、フィリアナと顔を見合わせる。
「「どの辺が?」」
本気で意味がわからないという反応を見せる二人にロアルドが、大きく息を吸った後、ビシッと二人を指差す。
「今のお前達のこの状態の全てだよ!! 大体……何で隙があれば、すぐに膝枕を始めるんだよ……」
そう呟いたロアルドは、只でさえ疲労困憊という状態で、更に落胆するようにガックリと肩を落とす。どうやら使用人達からあまりにもフィリアナ達の接し方が親密すぎるので、ロアルドのほうへ報告が入ったらしい。
だが、フィリアナにとってアルスとの近すぎる距離感は、アルスが犬の姿だった頃からの延長でもあるので、特に問題視していない。当然、アルスのほうも同じ感覚なので、不快そうな表情を浮かべてロアルドに反論する。
「仕方がないだろう!? 俺がまだ犬の姿だった頃は、フィーの膝の上が常に定位置だったのだから! 7年間当たり前のように続けていた習慣は、そう簡単には変えられない!」
「いや、変えろよ! 最近、父上のアルスに向ける目が人でも殺しそうな目つきになっているんだよ! お前、その状況に危機感を抱かないのか!?」
「フィリックスごときにやられる俺ではない!!」
「毎回、父上に拳を叩き込まれている癖にその自信はどこから来るんだよ……」
「何事も自信を持つ事は大事だと兄上が、よく言っていた」
「そういうのは時と場合によるんだよ!! そもそもお前……何で一週間前から何食わぬ顔で、うちに居座り続けているんだよ! 公務はどうした! 公務は! さっさと城に帰って片付けてこい!」
すると、アルスは息でもするかのようにとんでもない事を口にする。
「全部ラッセルに丸投げしてきた」
「はぁ!?」
「俺はあいつのせいで14年間も命を狙われ続け、そのせいで7年間も犬としての生活を強いられたのだぞ!? その責任をあいつに取らせるのは当然だろう!?」
「いやいやいやいや! ラッセル卿は表向きでは急病という形で宰相職を辞した事になっているが、実際はルケルハイト公爵家の監視下のもとで前国王派の貴族達の僕滅に奮闘しているんじゃないのか!?」
「それもやりながら俺の公務も全てやらせている。ちなみに今はユーベルに宰相業務の引き継ぎも行なっているから、あいつはここ一週間ほど今日のロアのように一睡もしていないと思うぞ?」
その話にロアルドだけでなく、フィリアナも絶句する。
「お前……そんな血も涙もない事を……。そんな状態の人間に自分の公務を押し付けてきたのか……?」
「俺だけじゃない! 兄上もたまにやっている!」
「「セルクレイス殿下も!?」」
思わず叫んでしまった二人の態度にアルスが面白くなさそうな表情を浮かべた。
「何故、驚く? あいつは俺と兄上を殺そうと長期にわたり、暗殺者どもを多々送り込んで来たのだぞ!? しかも最初の頃の兄上など頻繁に毒を盛られたのだからな! それに比べたら、たかが過度に仕事を押し付けられるだけで済んでいるのだから、むしろ感謝してもらいたいくらいだ!」
そう主張するアルスは、ラッセルを断罪した時に口にしていた『命が擦り切れるまで使い潰す』を本当に実行するつもりらしい。気持ちは分かるが、少々やり過ぎでは……と思ってしまったフィリアナだが、それを口にしてしまうと、またアルスが不貞腐れそうなので、その言葉は飲み込んだ。
そんなラッセルだが、表向きでは急病で倒れた事になっており、代理として息子のユーベルが引継ぎを受けながら現在の宰相業務を辛うじて行っている。だが、最終的にユーベルへの業務引継ぎが終了すると同時にラッセルは病死として死亡扱いされ、その存在を完全に表舞台から消される事となっている……。
では何故王家は、そんな回りくどい隠蔽を行い、ラッセルを大々的に粛清しないのか……。
王族の暗殺を企て、王権略奪を画策したラッセルだが……20年近く国王の右腕として国を支えていた実績から、周囲や国民からの信頼が厚すぎる為、表立って断罪すると逆に国内に混乱を招く可能性が高かったからだ。
同時に現状では代々宰相職を担ってきたアーストン侯爵家以外、すぐに宰相職を任せられる家が国内にない状況なのも、ラッセルをあからさまに断罪する事が出来ない理由でもある。
現在リートフラム国には、アーストン侯爵家の他に三つの侯爵家が存在しているが、その一つであるニールバール侯爵家も長い間、他国との交易関係を管理している家系であり、宰相職を代々担ってきたアーストン侯爵家と同様に代理が利かないポジションである。
しかも王家転覆を画策していた前国王派のマークレン伯爵家にエレノーラが嫁ぐ予定だった為、その婚約を決めた父である現ニールバール侯爵にも謀反の疑いが掛けられ、宰相を任せられる状態ではない。その流れで現在、息子のライオネルにすぐに家督を譲るべきだという声も高まっている。
なお今回、フィリアナを罠に掛けてしまったエレノーラだが……。
実は嫁ぐ前の行儀見習いと称してマークレン伯爵家に招かれてからは、ほぼ監禁生活を強いられており、更に兄であるライオネル達が進めていたグランフロイデでの白ワイン販売計画の成功補償をネタに恐喝され、言いなりになるしかない状態に追い込まれていた事が調査の結果で判明した。
そんなエレノーラは、フィリアナを罠にかけた後、再び屋敷の地下室に監禁されており、今回王家転覆を謀ろうとした容疑でマークレン伯爵家に強制捜査が入るまでの間、ずっと地下室に監禁されていたそうだ。だが、やや衰弱気味ではあったが強制捜査中に無事保護され、現在は大分回復を見せていると、親友のコーデリアから届いた手紙に書いてあった。
それでもニールバール侯爵家に向けられる周囲からの懸念の目は、どうしても拭いきれない。
だからといって他二家の侯爵家に宰相職を任せられるかといえば、それもかなり難しい状況だ。
宰相職を担うアーストン侯爵家と並ぶと言われているフリーゼル侯爵家は、医療福祉関係を中心となって管理している重要なポストを担当している為、他二家と同様に代替えが利かない。
そしてもう一つのライクス侯爵家は、外交関係を担っているので替えは利くのだが……この家はお披露目式でアルスにまとわりついていた侯爵令嬢リリティアの家でもある。早々に第二王子に取り入るよう娘に指示を出している野心的な面を持つ家では、とてもではないが宰相など任せられない。
そのような背景から宰相職は引き続きアーストン侯爵家が担い、罪を犯した現当主のラッセルは病死という形でその存在を完全に消され、その後はルケルハイト公爵家の厳しい監視を受けながら、生涯リートフラム王家を裏側から支える事を強要される事になる。
その際、ラッセルは全くの別人としての人生を歩まされるので、敬愛する父の名にちなんだ名は強制的に変えられ、今後は自身が忌み嫌っていた銀髪で過ごす事を強いられる。何よりも長い間、憎み続けていた男が残したこの国の繁栄の為、身を削るように尽くさなければならないのだ。
それが処罰内容である事が甘すぎるという人間も出てくるとは思うが……。国民だけでなく直属の部下からも信頼の厚かった有能な宰相が、王族の暗殺と王位略奪を画策していた事実を公表する方が、デメリットが多い為、国王リオレスはこのような対応をとったと思われる。
何よりも一番の被害者である息子のアルスが、ラッセルを簡単には死なせないで欲しいと強く訴えていた事もあり、この処遇が一番丸く収まる対応だったのだろう。
そんなアルスとセルクレイスに対する長期間に渡って行われた暗殺行為だが……。実は頻繁に二人へ刺客を放っていたのは、今回拘束された国内の前国王派の貴族達と、現在隣国で取り締まられている前王家派の貴族達の仕業だった。
国こそ違う彼らだが、どちらも前任の王の時代に甘い汁をたくさん吸すぎた所為で、現在ではそれぞれの国の社交界では爪弾きにされている状態だった。だが、過去の栄華が忘れられず、再び返り咲きを望む同じ境遇の者達が集まっているところをラッセルに利用されてしまった状態である。
そんなラッセルは、今回息子に上手く王位が回れば、王族殺しの罪を全て彼らに被せ、自身は国王の父として罪から逃れるつもりだったらしい。
独断で王太子と第二王子に過剰ともいえる刺客の差し向けを行った落ちぶれ貴族達も相当だが、その貴族達を完全に使い捨ての駒にしようとしたラッセルもなかなかである。
しかし現状では、国王リオレスもラッセルと同様に王子暗殺未遂と国家転覆を謀った容疑を彼らに全て被せている。恐らく施政者側から見た場合、彼らは早々に始末したかった存在だったが、今回自ら重罪行為に加担してくれたお陰で、面倒事の処理だけでなく、邪魔者だった彼らも一緒に始末することが出来たという状況なのだろう。
そんな国のトップに立つ者達の狡猾な面を垣間見てしまったフィリアナは、アルスが将来臣籍に下ってくれる事に安堵しかない。もしアルスがそのまま第二王子でいる事に固執していたら、フィリアナは全力で婚約者という立場から逃げていただろう。
そういう意味では、腹黒い駆け引きよりも魔獣討伐で活気づいている単純明快でさっぱりとした武闘派の多い辺境伯領は、アルスだけでなくフィリアナも性に合っている環境なのかもしれない。
だが、そんな単純明快な環境が合っているタイプだからこそ、アルスが放つ言葉は全てストレート過ぎるのである。
「俺は辺境伯領に行くまでは、ずっとラッセルに公務を押し付け続けるつもりだ! これまで生きてきた人生の殆どを滅茶苦茶にされた俺にはその権利があると思うし、ラッセルにはその責任を取る義務がある!」
「いや、それ……単におまえが公務をやりたくないだけだろう!? 大体、公務をラッセル卿に丸投げしたら、お前は何もやる事がないじゃないか! 今から王立アカデミーにでも通うつもりか!?」
「いや、アカデミーに通う事は、父上に頼んで免除してもらった。あそこで学ばされるものは、俺はすでに知識として身についているからな」
「確かにアルスは地頭がいいから勉学に対する学びは少ないと思うが……。人との交流などは学ばなければいけない事が多いんじゃないか? それなのにリオレス陛下は、お前の入学免除をあっさりと受け入れてくれたのか?」
「父上の考えでは、俺がアカデミーに入って問題を起こす事は目に見えているから、それならばラテール家で大人しくしてくれていた方が手は掛からないとの事だ」
そのリオレスの言い分を聞いたフィリアナが勢いよく吹き出してしまう。逆にロアルドの方は、盛大に呆れ果てた。
「陛下……。結局は問題児をうちに押し付けているだけじゃないか……」
「誰が問題児だ! 俺は今回宰相の自害を止めた功労者だぞ!」
「肋骨を5本も折って内臓まで損傷させていたけれどな……」
「肋骨の一本や十本くらい何だ! 俺なんて犬だった頃、串刺しにされたのだぞ!? 多々死にかけた事のある俺に比べたら、そんなの虫に刺された程度のはずだ!」
そう主張したアルスは段々面白くなくなってきたのか、再びフィリアナの膝の上に寝っ転がり、不貞腐れるように腰の辺りに腕を巻き付け、腹部辺りに顔を埋め出す。
「ああー!! お前なんて事を!! 卑猥すぎるだろう!! 早くフィーから離れろ! この発情少年!」
「発情なんてしてない! 俺がこうやってフィーに甘えるのは7年前からの特権だ! ロアにとやかく言われる筋合いはない!」
「いや、あるから! 兄として妹の貞操の危機を見逃すわけにはいかない! いいから離れろよ!」
「嫌だ!」
「今日は午前中のみと言っていたから、そろそろ父上が帰ってくるぞ!? こんな状態見られたら、また烈火のごとく怒られるからな!」
「知るか! 今日、俺はフィーのぬくもりに包まれながら惰眠を貪ると決めているのだ!」
「それ、どういう決意だよ! い・い・か・ら! 離れろぉぉぉぉー!!」
「い・や・だぁぁぁー!!」
もはやアルスが犬だった頃の7年前から繰り返されているこの『フィリアナからの引き離し』に当事者であるフィリアナは慣れてしまったのか……。両者から体をガクガクされた状態で、その攻防が収まるのを虚ろな瞳で天を仰ぎ見ながら静かに待つ。
すると、突然サロンの扉がノックされ執事のオーランドが入って来た。
「失礼いたします。フィリアナお嬢様、実は先程ルケルハイト公爵家のオリヴィア様がお見えになられまして。何やら大変素晴らしいロマンス小説を見つけられたらしく、是非フィリアナ様にお貸ししたいと応接間でお待ちなのですが……」
「素晴らしいロマンス小説!?」
オーランドのその話に瞳をキラキラさせたフィリアナが、勢いよく立ち上がった。
すると腰に巻き付いていたアルスが椅子から転げ落ち、その反動でアルスを引き離しに掛かっていたロアルドも盛大に後ろに転がる。
「あっ! ふ、二人とも……ごめんね?」
「「フィー……」」
床に転がった状態で恨みがましい目を向けてくる男二人にフィリアナが、気まずそうに謝罪する。だが、すぐにその謝罪の姿勢は舞い落ちる紙のように軽いものとなった。
「お嬢様、面会はいかがいたしますか? 急なご訪問であるのでお断りも出来るかと思いますが……」
「いいえ! すぐにオリヴィア様のもとへ向うわ!」
「フィー! 待て! 今日は俺とのんびり過ごすと言っていただろう!?」
すると、ドアノブに手を掛けた状態で振り返ったフィリアナが、苦笑を浮かべながら少しだけ考える仕草をする。
「うーん……ごめんね? のんびりするのは、また今度ね!」
そう言ってウキウキした様子で足早にサロンを出て行ってしまった。
「フィー……」
「まぁ、今のフィーの年齢だと婚約者様より友情を取るよなー」
「俺の優先順位は、いつだってフィーが一番なのに……」
「お前、犬の頃からフィー至上主義だよな……。もしかして幼少期からの無意識な刷り込みが原因か?」
「そんなの、知らん……。だが、俺は酷く傷ついた……」
そう嘆いたアルスは、もそもそした様子で長椅子によじ登り、クッションに顔を埋める。
「傷ついた俺はしばらく寝る……。フィーが戻ってくるまで起こすな……」
「いい歳をしてふて寝か? お前、それ王族としてどうなんだよ……」
「フィーがいない時間なんて起きている意味などない……」
クッションにグリグリと顔を埋めながら、そう愚痴るアルスの様子にロアルドが呆れながら深いため息をつく。そしてその頭を少し乱暴にワシャワシャ撫で始めた。
「まぁ、今後は命を狙われるなんて事は、そうそうないと思うから……。お前もちゃんと人としてフィーと一緒にゆっくり成長していかないとな?」
そう言って年上風を吹かしながら頭を撫でてくる将来の義兄の手を乱暴に振り払ったアルスは、再び不貞腐れるようにクッションにしがみつき、しばらく経つと規則正しい寝息を立て始めた。
これにて『我が家に子犬はやって来た!』は一応、完結とさせて頂きます。
作品のあとがきを別枠投稿したので、ご興味ある方は下記URLコピペで、どうぞ!
【我が家に子犬がやって来た!】のあとがき
https://ncode.syosetu.com/n0517gu/16
そして今回に関しては読者様方へ、いつも以上に土下座する勢いで感謝を述べたい!
私自身100話近くもあるお話を手に取るのが、かなり億劫になる人間なので、それを1話から最後までお付き合い頂いた読者様方には、本当に感謝の言葉しかない!
そして連載中の更新する度に押して頂けた『いいねボタン』に何度救われたか……。(泣)
この作品に関しては、もう最後まで読み切って頂けるだけで大感謝です!
こんなにも長いお話に最後までおつき合いいただき、本当ぉぉぉーにありがとうございました!




