9.我が家の子犬はホームシック気味
シークがラテール伯爵邸を訪れてから二週間後、アルスとフィリアナが心待ちにしていた王太子来訪日がやってくる。
その日は、邸全体が慌ただしい雰囲気になり、使用人達は王太子をもてなす準備に追われ、警備の騎士や魔道士達は警備に不備がないか入念に確認を行っていた。
そんな大人達が醸し出す緊迫感ある雰囲気に当てられたフィリアナも顔を強張らせる。すると、ロアルドが呆れ気味な表情をしながら、無駄に緊張している妹に声をかけた。
「フィーが、緊張しても仕方がないだろう? そもそも王太子殿下はアルスに会いに来るんだからな?」
「でも……でも! もしかしたら王太子殿下が、アルスを連れ帰りたいって言うかもしれないでしょ!?」
「何でそうなるんだよ……」
「だって、アルスが……」
言いかけたフィリアナがチラリと足元のアルスに目をやると、アルスはやや興奮気味に尻尾をブンブンとさせながら、室内を行ったり来たりして駆け回っていた。
「アルスの奴、相当セルクレイス殿下に会える事が嬉しいんだな……」
兄のその呟きを聞いたフィリアナの瞳にジワリと涙が溜まりだす。
「アルスは渡さないもん! アルスは……アルスはフィーのワンちゃんなんだから!!」
両手で握りこぶしを作ってファイティンポーズをし始めた妹にロアルドが呆れながら、ツッコミを入れる。
「アルスはフィーのワンコじゃなくて、アルフレイス殿下のワンコだろ……?」
「でもアルスは第二王子殿下よりもフィーの方が好きだもん! だからフィーのお家にいた方がアルスは幸せだもん!」
「そのアルスに好かれているっていう絶対的な自信はどこから来るんだよ……。いいか? フィー。アルスは、すでに第二王子殿下を自分のご主人様だって決めているんだ。だから将来的に必ずアルスを第二王子殿下にお返ししなければならない日が来る……。それはアルスをうちで預かる事になった時に分かっていただろう?」
「でも! でも! アルスはフィーのお家に来てから、すごく元気になったんだよ!? なのにまたお城に戻ったら元気じゃなくなるもん!」
フィリアナの主張にロアルドが押し黙る。
確かにラテール邸に来たばかりの頃のアルスは、不安と警戒心を剥き出しにしつつも、どこか怯えているような様子を感じさせた。
だが、それはここで過ごした二ヶ月の間にすっかり消え失せ、現状のアルスはのびのびと過ごしている。その事から城で暮らしていたアルスは、主の第二王子と共に常に身の危険を感じながら過ごしていたのではないかという推測が出来る。
まだ幼いフィリアナでさえ、アルスのその変化に気づいてしまう程、ラテール邸に来る前のアルスの日常は緊迫した生活環境だったはずだ。その状況を容易に想像してしまったロアルドもフィリアナと同じく、このままアルスはラテール家で生活をした方が幸せでは……と感じてしまう。
だが、アルスは本来第二王子の飼い犬であり、しかも高い魔力を持つ貴重な聖魔獣なのだ。いくらアルスが第二王子よりもフィリアナに懐いていたとしても、アルスの所有権を持っているのは第二王子アルフレイスである。
その為、王家からアルスを連れ戻したいと言われてしまえば、一介の伯爵家であるラテール家では、その要望に抗えない。たとえアルスの平穏な生活が、このラテール邸にあると主張しても……。どんなにアルスが城に戻る事を嫌がったとしても……。そのように王家から打診されてしまえば、フィリアナ達は涙を呑んでアルスを第二王子に返さなくてはならないのだ。
しかもアルスは、本日来訪する王太子セルクレイスをかなり慕っている様子だ。
もし本日、セルクレイスがアルスを連れ帰りたいと言い出せば、アルスはあっさりその要望を受け入れてしまう可能性がある。その状況が先程からフィリアナに大きな不安を与えてくる。
すると部屋の扉が遠慮がちにノックされ、その音で二人はビクリと肩を震わる。それと同時にガチャリと扉が開くと、メイドのシシルが入室してきた。
「ロアルド坊ちゃま、フィリアナお嬢様。先程、王太子セルクレイス殿下がお見えになりまして、お二人とアルス様にお会いしたいそうです。恐れ入りますが、一階のサロンまでお越し頂けますか?」
フィリアナの不安の原因を察しているのか、いつも以上に優しげな声音で話しかけてきたシシルの対応にフィリアナの涙腺が刺激される。同時に嬉しさで興奮気味なアルスが、部屋を飛び出して行く姿も目に入った。
その瞬間、フィリアナの瞳からポロポロと涙が零れ始める。
「アルスは……フィーの大事なワンちゃんだもん……。フィーの方が王太子殿下より、アルスの事をいっぱい……いっぱい可愛がってるもん……」
「フィー……」
この後、一階に降りてしまえばアルスを取り上げられるかもしれない……。
そんな不安の波がフィリアナの中に大きく押し寄せる。そして、その辛さが痛いほど分かるロアルドは、泣きべそをかき始めた妹の手をギュッと握った。
「大丈夫だ。もし王太子殿下がアルスを連れ帰りたいって言い出したら、兄様が全力で阻止してやる!」
「兄様ぁ……」
大人を論破してしまう事がある兄のその宣言に少しだけフィリアナの不安が和らぐ。
すると、先程部屋を飛び出して行ったアルスが何故か戻ってきた。
だが、フィリアナが泣いている事に気付くと切ない声を上げながら、その周りをグルグルし始めて心配そうに見上げてくる。
「ほら、アルスがフィーの事を物凄く心配しているぞ? だから大丈夫だ! もし殿下がアルスを連れ帰りたがってもアルスは、きっと城には帰りたがらないよ!」
兄の言葉にフィリアナが大きく頷き、繋いでいた手をギュッと握り返す。
「アルスは……絶対に渡さないもん!」
そう口にしたフィリアナは兄と共に力強く一歩を踏み出し、一階の応接間へと向かった。しかし、その決意は室内に入った途端、すぐに大きな不安へと変わってしまう。
「アルス!」
二人と一匹が入室すると、サラサラで見事なプラチナブロンドの煌めかしい少年が、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべて、アルスのもとへ駆け寄ってきたのだ。
すると、フィリアナの横にピッタリとくっ付いていたアルスも勢いよく、その煌めかしい少年のもとへと駆け出す。
その再会の場面が、何故かフィリアナには時間がゆっくりと流れるように見えた。
同時にとてつもない不安が自分の中に流れ込んでくる。
だが、そんなフィリアナの様子に気付かないアルスは勢いよくその少年の胸に飛び込み、鼻先をその首筋に寄せてピスピスと甘えるような仕草をする。そんな自分以外の人間に甘えるアルスの様子を初めて目にしたフィリアナは、ますます不安に押しつぶされそうになる。
しかし、その不安は一瞬で少年に対しての同情心へと変わった。何故ならその少年の宝石のような鮮やかなエメラルド色の瞳が、やや潤んでいたからだ。
恐らく、アルスをラテール家に預けるという決断をした際、この少年も断腸の思いだったのだろう。先程のフィリアナのように必死で自分の手元に置きたいと抵抗したはずだ……。
それを今目の前で繰り広げられている感動の再会から、王太子がどれだけアルスの事を慕い、心配していたかが、幼いフィリアナにも痛い程伝わってきた。
だが、それはフィリアナも一緒だ。
たとえどんなに王太子がアルスとの帰路を望んだとしてもフィリアナは、全力で抗うつもりだ。
そんな決意を更に固め、二人の再会を見つめていると、王太子セルクレイスがフィリアナ達の存在にやっと気付き、視線を向けてきた。そのあまりにも整い過ぎた美貌の少年の顔立ちに幼いながらもフィリアナは、一瞬息をのんでしまう。
すると、怯えさせてしまったと勘違いした王太子が、アルスを抱きかかえながらフィリアナ達のもとへとやってくる。そして驚く事に王太子は、二人に対して深々と頭を下げたのだ。
王族が一介の伯爵家の人間にいきなり頭を下げてきた事にロアルドを含め、室内の大人達がギョッとする。この日、セルクレイルはシークを含む5人の護衛騎士を伴い来訪していたのだが、そんな彼らも護衛対象である王太子の行動に驚いていた。
だが、まだ幼いフィリアナはその重大性がよく分からず、キョトンとした表情で頭を下げてきた王太子のつむじ辺りをジッと見つめる。すると頭をあげた王太子が、柔らかい口調で二人に話しかけてきた。
「君達がロアルドとフィリアナだね……。僕はセルクレイス・リートフラム。この国の王太子で、アルスの飼い主であるアルフレイス・リートフラムの兄だ。君達がこの二カ月間、弟が大切にしているこのアルスの事を物凄く可愛がってくれていると、ラテール卿から聞いているよ。本当に……本当にありがとう……」
そう涙ぐみながら語る王太子の言葉にフィリアナの視界が一気に歪む。
今のセルクレイスの口ぶりでは、まるで今日アルスを連れ帰ると言っているようにフィリアナには聞こえてしまったからだ。
そんなフィリアナの異変に気付いたセルクレイスが、アルスを抱えたまま腰を落とし、フィリアナに目線を合わせる。
「大丈夫だよ。僕は今日、アルスを連れ帰ったりしないから……。本当は連れ帰りたい気持ちでいっぱいなのだけれど……お城は今のアルスにとって、とても危険な場所なんだ……。だから、今日はアルスに会いに来たのと同時にもうしばらく君達にアルスを守って欲しいって、お願いをしに来たんだよ?」
セルクレイスのその言葉でフィリアナの瞳から一気に涙が引っ込む。
同時にとても悲しそうな笑みを浮かべている王太子の様子が心配になってきた。
「王太子様は……アルスと離れ離れになっちゃって、すごく寂しい?」
幼いフィリアナから、思いもよらない言葉が零れた事にセルクレイスが、一瞬驚きの表情を見せる。だが、それはすぐに泣き出しそうな笑みへと変わった。
「うん……。凄く寂しくて、凄く悲しくて、一緒に居られない事がとても悔しい……。でも僕はアルスが危ない目に遭う方が、もっと嫌なんだ……。だからどんなに寂しくても我慢する。それに今日君達に会って、とてもアルスを大切に思ってくれていると分かったから……凄く安心した」
兄よりも三つほど年上の煌めかしい王太子に頭を撫でられたフィリアナは、一瞬だけ頬を赤らめる。すると、王太子の腕の中からその様子を見ていたアルスが、何故か不満げにキャンキャンと吠え始めた。
「おや? アルス、もしかして嫉妬かな?」
そう言って、セルクレイスが腕の中のアルスの顔を覗き込むと、アルスが不機嫌そうにフンと鼻を鳴らし、セルクレイスから視線を逸らす。その反応が面白かったのか、本日初めて王太子がクスクスと楽しそうな笑みをこぼした。そのあまりにも優美な笑い方にフィリアナは思わず見とれてしまう。
すると、ずっとそのやり取りを傍観していたロアルドが口を開いた。
「セルクレイス殿下、お初にお目にかかります。ラテール家長男のロアルドでございます。その……お会いしたばかりで大変不躾な質問をしてしまうのですが……。現在アルス様の本来の主であるアルフレイス殿下のご体調は、どのような状況なのでしょうか?」
初めて丁寧口調で話す兄の言葉遣いを耳にしたフィリアナが、目を丸くする。
対してラテール伯爵夫妻は、いきなり核心を探るような発言をした息子の言動に顔を青ざめさせる。だが、そんなロアルドの質問に気分を害する事なく、セルクレイスは気さくに答えてくれた。
「そんな堅苦しい言葉遣いはしなくてもいいよ。君のお父上には、僕ら兄弟はとても世話になっている。特に弟のアルフレイスはね……。現状、弟は微熱が続いていて寝台から起きられない状態が一週間程、続いているのだけれど、それはよくある事だから、そこまで心配はしなくて大丈夫だよ? でも外出が出来る状態ではないから、今日は泣く泣く留守番に徹してもらっている」
そう言って、腕の中のアルスを優しく撫でつけるセルクレイスだが、その言い方はどこか上の空という印象をロアルドは受けた。対して王太子に撫でられているアルスは、心地よさそうに目を細め、その愛撫を堪能している。
その様子にロアルドが違和感を抱く。
「セルクレイス殿下は……すでに聖魔獣をお持ちですよね?」
「うん。シルヴィスという銀狼の聖魔獣がいるよ」
「本日はお連れにならなかったのですか?」
「うーん、実はシルと顔を合わせると、アルスがすぐに取っ組み合いの喧嘩を始めてしまうんだ……。もちろん、シルは子犬相手だから、かなり手加減してくれてはいるのだけれど……。アルスがムキになり過ぎて手が付けられなくなるんだよ……。だから今日は仕方なくシルは置いてきた」
「そ、そうなのですね……」
王太子のその話にロアルドは、二週間前のシークとアルスの関係性を思い出す。
二週間前、フィリアナに懐かれているシークにアルスは、やたらと嫉妬心を剥き出しにし、ずっとシークに噛みつける機会を伺っていたのだ。
恐らく王太子セルクレイスもアルスにとっては、フィリアナと同じくらい大好きで独り占めしたい相手なのだろう。その為、彼の聖魔獣には敵意を剥き出しになってしまうようだ。
どうやら我が家の子犬は、かなり独占欲が強く、嫉妬深いらしい……。
だが、それだけアルスは、この王太子を深く慕っているという事もよく分かる。
同時にセルクレイスの方もアルスをかなり可愛がっている様子だ。
その事を察したロアルドが、ある事をセルクレイスに提案してみる。
「あの……もしよろしければ、我が家の中庭でアルスと遊ばれますか?」
そのロアルドの提案にセルクレイスが一瞬だけ目を見開く。
だが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「いいのかい?」
「はい。アルスもこの二週間、殿下にお会い出来る事を楽しみにしていたようなので。よろしければ、是非」
ロアルドの申し出を聞いたセルクレイスが、後ろに控えている護衛のシーク達にチラリと視線を送る。すると、シークがその要望を許可するように大きく頷いた。
「ありがとう……ロアルド。では、今から少しだけアルスを返して貰うね?」
そう言って心底嬉しそうな笑みを浮かべた王太子にロアルドも同じ様な笑みを返す。すると、今まで二人のやり取りをジッと見ていたフィリアナが勢いよく挙手をし、急に話に入ってきた。
「フィーも! フィーもアルスと王太子様と一緒に遊ぶ!」
しかし、その主張は兄ロアルドが間髪を容れずに却下する。
「ダメだ!!」
「何で~!?」
「セルクレイス殿下は、久しぶりにアルスに会えたんだぞ!? なのにフィーが一緒になって混ざったら、アルスとゆっくり遊べないじゃないか! 今回は遠慮しなさい!!」
「『えんりょ』って何……? それすれば、フィーも王太子様達と一緒に遊べる?」
「『遠慮』っていうのは、自分がやりたい事を我慢して相手にその権利を譲ってあげる事だよ。フィーはこの後、いっぱいアルスと遊べるけれど、殿下は今日しかアルスとは遊べないんだぞ? だから今日は殿下にアルスといっぱい遊べる時間をフィーが譲ってあげろって言う意味!」
兄からご丁寧な講釈を受けたフィリアナだが……あまり言葉の意味が理解出来なかったようで、プクリと頬を膨らませる。
「最近の兄様、難しい言葉ばっかり使うからフィー、よく分かんないよ!」
「だったら、しっかり勉学に励みなさい!」
「やだ! フィーお勉強、嫌いだもん!」
「嫌いでも頑張らないと、もっと兄様が言っている事が分からなくなるぞ?」
「うー……。兄様、意地悪だよ……」
「兄様は意地悪じゃない! むしろ妹思いの素敵な兄様だ!」
「兄様は素敵じゃないもん!! 王太子様の方が素敵だもん!!」
「それは確かにそうだけれど……兄様も素敵だ!」
「兄様は違うもん!!」
突如言い争いを始めたラテール兄妹の会話のやり取りにセルクレイスが笑いを堪える。そんなセルクレイスの服の裾をフィリアナは、いつの間にか握りしめ、ちゃっかり中庭へ一緒に向かおうとしていた。
しかし、それに目ざとく気付いたロアルドが、すぐに妹の手を掴みセルクレイルから引き離す。
「フィー! ちょっとだけなんだから今日はアルスと遊ぶのは我慢しなさい!!」
「やだぁぁぁ~!! フィーも王太子様達と遊ぶぅぅぅ~!!」
「フィー!!」
いつもはすんなりとロアルドに言いくるめられてしまうフィリアナだが、今回だけは何故か一歩も引く様子がない。そんな聞き分けがない妹にロアルドが疲弊し始めた。
「何で今日はそんなに我が儘ばっか言うんだよ……。いつもなら兄様の言う事、ちゃんと分かってくれるじゃないか……」
「だって、だってぇー……。もしかしたら、王太子様、遊びに夢中になってアルスの事、お城に連れ帰っちゃうかもしれないもん……」
そのフィリアナの言い分にロアルドが盛大にため息をつく。
すると、セルクレイスが再度言い聞かすようにフィリアナの前でしゃがみ込んだ。
「フィリアナ。さっきも言ったけれど、僕はアルスを連れ帰りたくても出来ないんだ……。だから、必ず帰る前に君にアルスを返すから……。ほんの少しだけ、僕にアルスと過ごす時間をくれないかな?」
王太子からの熱心な懇願にフィリアナは、上目遣いをしながら再確認する。
「本当にアルスを連れて帰らない?」
「うん。約束は絶対に守る。だからアルスと遊ばせて?」
「分かった……。でも絶対にアルス、返してね?」
「うん」
本来のアルスの所有権を持っているのはフィリアナではなく、リートフラム王家なのだが……いつの間にか、その立場が逆になった状態で話が進んでいる事にロアルドが苦笑する。恐らくセルクレイスもその事には気づいてはいるが、今は飼い主がフィリアナという流れで話を進めた方がいいと判断したのだろう。
そんな王太子にロアルドが申し訳なさそうに軽く会釈すると、セルクレイスも苦笑しながらその意図をくみ取ってくれた。
「それでは殿下、中庭へご案内いたします」
そう言って父フィリックスが、護衛のシークと共にアルスを抱えているセルクレイスを中庭の方へと誘導する。その後ろ姿を未だに心配そうな表情をしたフィリアナは、見つめていた。そんな妹に再度ロアルドが言い聞かす。
「殿下は、ちゃんと約束を守るって言ってくれただろう?」
「うん……」
不安げな返事を返してきた妹の頭をロアルドは、少し乱暴に撫でた。
すると髪型を乱されたフィリアナが、不機嫌そうにその手を振り払う。
そんなやり取りをしていたら、いつの間にかじゃれ合いになり、二人は邸内で追いかけっこを始めてしまう。気が付けば、そこからあっという間に2時間程経ってしまったのだが……。
セルクレイスは約束通り、帰り際にフィリアナにアルスを手渡して来た。
「それじゃ、アルス。また会いに来るから……」
そう言って寂しそうにフィリアナに抱かれたアルスの頭を何度も撫で、名残惜しそうに邸を去って行った。そんな今生の別れのような王太子の様子にフィリアナは、アルスが奪われてしまうのではないかと再び不安を募らせる。
しかしそれから三年間程、王太子セルクレイスは頻繁にラテール家を訪れたが、フィリアナとの約束を守るように、その間一度もアルスを城に連れ帰ろうとはしなかった。