74.我が家の元愛犬の守りは今はない
エレノーラに案内されながら、お披露目式の会場を後にしたフィリアナだが、今更ながら急にこの状況に不安を抱き始める。もしかしたら、これは罠かもしれないと……。
だが、先程フィリアナにコーデリアとの面会を申し出てくれたエレノーラが、無理強いをしている様子は一切なかった。それどころか、一度申し出を断ったフィリアナに「その方がよろしいかと思います」とも口にしていた。
そのエレノーラの一言があった為、フィリアナは一度辞退したコーデリアとの面会を再度受ける事にしたのだ。その選択をしたのはフィリアナ自身なので、もしこのエレノーラの申し出が罠だった場合はフィリアナの自己責任となる。
だが、この案内が罠ではなかった場合、フィリアナは一刻も早くコーデリアに隣国グランフロイデが、リートフラムに対して何か企んでいるかもしれない可能性を伝えたかった。
もし隣国がこの国を乗っ取るような事を画策していた場合、現状隣国との交流が盛んになりつつあるニールバール侯爵家が、王家より謀反の疑いを掛けられてしまう可能性が出てくる。今後、親友が嫁ぐ予定の家が、そんな状態に追い込まれてしまう可能性があるこの状況をフィリアナは、見過ごす事など出来なかった。
罠かもしれない……。
だが罠ではなかった場合に隣国の脅威をコーデリアに伝え損ねれば、自分は絶対に後悔する。
そんな思いから今回エレノーラの申し出を受ける事を選んだフィリアナは、徐々に膨らんできてしまった不安を押さえ込むように自分の判断は間違っていないと言い聞かせながら、エレノーラの後に続いた。
すると、今回ゲストルームとして用意されている部屋がズラリと並んでいる一室の扉をエレノーラが丁寧にノックする。
「ライオネルお兄様、お加減はいかがでしょうか?」
しかし室内からは返事が返ってこない。
「お兄様? とりあえず中に入らせて頂きますよ?」
そう言ってエレノーラがドアノブに手を掛けると、鍵の掛かっていなかった扉があっさりと開く。そのままエレノーラと共にフィリアナも室内に入ったが、室内にはコーデリアどころか、エレノーラの兄ライオネルの姿すらなかった。
「おかしいわ……。先程まで青白いお顔をなさってコーデリア様に介抱されていらっしゃったのに……」
そう言って首を傾げるエレノーラから、フィリアナは室内のテーブルに視線を移す。そこには三分の一ほど水が入ったグラスと、粉状の何か包まれていたと思われる薄紙が置いてあった。そんなフィリアナの視線の先に気付いたエレノーラが、苦笑を浮かべる。
「兄は昔から神経質な所為か、よく胃炎を起こしておりまして……。うちの主治医が調合した胃薬を常に持ち歩いておりますの」
そのエレノーラの話に思わずフィリアナは納得してしまう。以前会ったライオネルは、かなり神経質そうな雰囲気があったからだ。同時にそんな男性の妻となる親友の事も心配になってきてしまう。
そんな事を考えていたら、エレノーラが深いため息をついた。
「どういたしましょう……。このままわたくし達が会場で二人を探しに出てしまうと、入れ違いになってしまうかも……」
「では、わたくしが会場を見てまいります」
「いけません! それではフィリアナ様に何度もご足労頂く事になってしまいます! それでしたら、わたくしが兄達を探してまいりますので、フィリアナ様はこちらで少々お待ち頂けないでしょうか?」
「それは構いませんが……もしかしたら会場にいらっしゃらない可能性もあるのでは?」
「そうですわね……。もしかしたら中庭の方に行ってしまったのかも……」
「中庭?」
フィリアナが聞き返すと、何故かエレノーラは室内の窓際の方に向かい、勢いよくシャッとカーテンを開け放ち、更にバルコニーに出る為の大きな窓の鍵も開けた。そしてそのままバルコニーに出て、中庭の様子を確認するように見渡し始める。
「胃炎を起こした兄は横になって少し体調が回復した後、張り詰めた緊張感をほぐす為、外の空気を吸いにお招きいただいたお宅の庭などをフラフラしている事が多いのです。ですので、もしかしたら今回も……」
そう言いかけたエレノーラが何かを見つけたのか「あっ……」と小さな声をあげる。
「やはり城内の中庭をコーデリア様に付き添われ、散歩なさっていたわ! 申し訳ございません、フィリアナ様。今から兄達をこちらに連れてまいりますので、しばらくここでお待ち頂けますか?」
「ええ。分かりました」
フィリアナの同意を得たエレノーラは素早く窓を閉め、扉の方へと足早に向かう。
「もしわたくし達がこちらに戻る前にフィリアナ様が会場に戻らなければならない状況になった際は、遠慮なく戻られてくださいね? その場合、会場にて改めてこちらからお声がけさせて頂きますので」
「お気遣いありがとうございます」
「ではわたくしは一度、失礼致しますね」
そう言ってエレノーラは退室する為にドアノブに手を掛けるが……何故か数秒ほど、その状態のまま動かなくなる。そんなエレノーラの様子にフィリアナが怪訝そうな表情を向けた。
「エレノーラ様? どうかなさいましたか?」
「いえ、その……。折角、ご足労頂いたのに……本当にごめんなさい……」
「お気になさらないでください。むしろコーディと会える機会を作って頂き、こちらこそありがとうございます」
この状況に責任を感じている様子のエレノーラにフィリアナが労いの言葉をかけると、何故かエレノーラが痛みを堪えるような切ない笑みを返して来た。その様子にフィリアナは「そこまで気にしなくてもいいのに」と思っていると、軽く会釈をしたエレノーラがドアノブを回し、部屋を出ていく。
その様子を何となく眺めていたフィリアナだが……。
ふと扉が閉まる瞬間に目に入ったエレノーラの様子に全身を凍りつかせるように強張らせる。扉が閉まる瞬間……俯き気味だったエレノーラの瞳からポロリと涙がこぼれ落ちたのだ。
そんなエレノーラは、扉がゆっくり閉まるその一瞬に何かを呟くように口元を小さく動かす。その動きからエレノーラが発したであろう言葉をフィリアナが読み取る。
『ごめんなさい』
無音でエレノーラから発せられた言葉は、彼女の涙と悲痛な表情を隠す様に閉まっていった扉の向こうへと消えて行った。その瞬間、フィリアナの全身から一気に血の気が引く。そして今さっきエレノーラが退出していった扉の方へ、慌てて駆け出した。しかし……それは誰かに腕を掴まれた事で阻止される。
「なっ……!」
自分以外誰もいないはずの室内で、いきなり現れた騎士のような格好をした男に腕を捕まれた事で、フィリアナが声を詰まらせる。すると男は、掴んだ腕ごと強引にフィリアナを自分側に引き込もうとした。
一体この男はどこから現れたのだろうか……。
焦りながらもふと男の背後に目を向けると、先程エレノーラが開け放ったカーテンが微かに揺らめいていた。どうやらこの男は、フィリアナ達が部屋に入る前からカーテンの裏でジッと身を潜め、この機会を狙っていたらしい。
だが、フィリアナの方も自身が狙われる可能性をある程度覚悟していた為、恐怖よりも全力で抵抗する事に集中する。しかし相手も抵抗される事を予想していたようで、強引にフィリアナを体ごと自身の方へと引き込み、羽交い絞めにしようとした。
その際、相手の顔を見てやろうとフィリアナは自分の後方に目を向けた。だが、その刺客は羽織っている外套に付いているフードを深く被っていた為、顔までは確認出来なかった。しかし、よく見るとそのフード付きの外套と、その下に着ている服が第一騎士団に所属しているシークと同じデザインである事に気づく。どうやらどこかで第一騎士団の制服を手に入れ、今回紛れ込んだらしい。
だが、その男は体の線が細かった為、騎士ではないようだ。
ならば非力な自分でも全力で抵抗すれば、振りほどけるかもしれない……。
そう考えたフィリアナは、ありったけの力で全身を左右に振り、背後から羽交い絞めにされた状態から抜け出ようと暴れる。同時に強力な水属性魔法を放てるように密かに魔力も練り上げ始めた。
しかし、フィリアナが魔力を練り上げきる前に何故かバルコニーに出るための窓が、勢いよく開く。そしてそこから刃のように鋭い風がフィリアナだけを避け、男の両耳の端を切りつける。そして風の刃は、そのまま勢いよく吹き抜けていき、男の背後の壁に大きな傷を刻みつけた。
その状況に怯んだ男が、フィリアナを羽交い絞めにしていた腕を一瞬だけ緩めた。その一瞬の隙でフィリアナは、相手の腕から自身の体を下から抜くように素早く腰を落とし、その拘束から逃れる。同時にその風が放たれてきた窓から、深緑色の外套を羽織った女性が室内に飛び込んできた。
「フィリアナ様!! お怪我はございませんか!?」
そう声を掛けてきた女性は、なんとパルマンを追跡している最中にフィリアナを護衛してくれた王家の影の女性だった。恐らく今回もアルスが、この女性をこっそりフィリアナ専用の護衛として付けてくれていたのだろう。
「え、ええ! 大丈夫です! 助けて頂き……ありがとうございます!」
そう返答しながら、女性の背後に回ったと同時にフィリアナは襲ってきた男に勢いよく水圧の高い水属性魔法を渦のようにうねらせながら放った。しかし、相手もそれなりの手練れのようで咄嗟に地属性魔法で土壁を展開させ、その攻撃を防いだ為、室内は暴風でも通り過ぎたかのように物が散乱し、水浸しになる。
だがその状況に乗じて王家の影の女性が、再び鋭い風魔法を放ちながら剣を構え、相手に突っ込んでいった。すると襲撃者の男は、よく分からない言葉を素早く口にしながら、空中に見た事もない光る文字を描き出す。するとフィリアナ達は、謎の爆風のような衝撃によって、壁際まで勢いよく吹き飛ばされてしまった。
「…………っ! フィ、フィリアナ様、ご無事ですか!?」
「は、はい!」
幸いな事に護衛の女性が吹き飛ばされる直前、庇うようにフィリアナを抱きかかえながら背後に回ってくれたので、フィリアナは壁に背中を強打する事はなかった。だが、代わりにフィリアナを庇ってくれた女性が壁に背中を打ち付けてしまい、痛みで一瞬だけ顔を歪ませる。
その女性の容体を心配しつつもフィリアナは、襲撃者の男と対峙しようと立ち上がろうとした。しかし……その膝は、何故かガクンと力なく床に落ちる。
「えっ……?」
急に言う事を聞かなくなった膝の状態にフィリアナが驚いていると、影の女性も同じように膝をガクンと折り、小さな呻き声を上げながら、そのまま四つん這いになるように床へ崩れ落ちる。その状況に驚いていると、フィリアナの方も膝だけでなく全身から一気に力が抜けていく感覚に襲われた。
「…………っ!!」
まるで上から何かに激しく圧迫されるような感覚に襲われたフィリアナは、女性と同じように四つん這いになりながら突っ伏すように床に倒れ込む。すると、今度は強烈な眠気のようなものがフィリアナを襲い始めた。それに抗うようにフィリアナは必死で力を振り絞り、顔を少しだけ上げる。
すると、目の前の男が先程から意味のわからない言葉を口にしながら、文字だけでなく光る魔法陣のような物を空中に描き切っていた。その瞬間、フィリアナはやっと男が口にしていた謎の言葉が何なのか理解する。
隣国の魔術…………。
そう心の中で呟くと同時にバチンと目の前が真っ暗になったフィリアナは、そのまま一瞬で意識を失ってしまった。




