71.我が家の元愛犬は社交界デビューする
いきなり室内に入ってきた父親にアルスを膝の上に乗せている状態を見られたフィリアナは、一瞬でけ呆けた後、サッと顔色を青くする。
対してアルスの方は開き直ったのか、毅然とした態度を貫き通そうとした。しかし、怒涛の勢いで部屋に入ってきたフィリックスの予想外な魔王顔に一瞬だけ押し黙る。
「殿下……婚約期間中は適切な距離で娘に接すると婚約契約書に記載があったかと記憶しておりますが……何故、娘の腰に巻き付いていらっしゃるのですか……?」
「これは犬だった頃からの癖なのだから、俺とフィーにとっては適切な距離だ!」
「いいえ! 不適切な距離です! そもそも、殿下はもう犬ではなく、10代の若者の姿に戻られているではありませんか!」
「たとえどんな姿になろうとも俺とフィーの関係は変わらない!」
「そういう問題じゃない!」
そう叫んだフィリックスは、アルスが体勢を立て直す前に全力で、その頭頂部に拳を叩き込んだ。
「…………っ! フィリックス! 折角、ジーナがセットしてくれた髪型が乱れたらどうする!!」
「そうならぬよう垂直に拳を叩き込みましたので、ご安心を」
「クソっ……! 何故、犬の姿では許されたのに今はダメなのだ……」
「殿下こそ、何故今のお姿でも許されると思われたのです……?」
そう言って白い目を向けてくるフィリックスをアルスが、恨めしそうに睨みつける。初めはこの父の行為に不敬罪を懸念していたフィリアナだが……。アルスが元の姿に戻ってからは、もう何度も目にした光景なので、今ではそれが二人とって当たり前なやり取りなのだと察し、疑問を抱かなくなってしまった。
すると呆れ顔のシークが、この場を仕切り直すようにパンパンと手を叩く。
「はいはーい。じゃれ合うのはそのくらいにして、さっさと会場入りの準備をなさってくださーい」
「シーク……。元はと言えばお前がフィリックスに余計な事を言ったから、こうなったのだろうが!」
「何をおしゃいますか。婚約者と不適切な接し方をされていた殿下に落ち度がございます!」
「黙れ! このデキ婚!」
「殿下……。どこでそういう俗世まみれな言葉を覚えられたのですか……?」
「ラテール邸のメイドや、邸に食材等を運んでくる商人達からだ!」
「自信満々に答えないでください……」
するとシークの後ろで待機していたフィリックスが、密かに眉間に皺を刻んでいた。どうやらアルスのガサツさが上がってしまったのは、自身の育て方に問題があったかもしれないと責任を感じてしまったようだ……。
対してシークは力なく小言をこぼしながら、フィリアナ達に控室を出るよう促す。
「いいから、さっさと会場入り口まで移動されてください。もう皆様、すでにお待ちですよ?」
「フィリックスに余計な一言を告げ口したお前が、それを言うのか!?」
「あーもー、いちいちうるさいなー……。フィー、さっさと殿下を引っ張って行ってくれ!」
「シーク様、アルスの扱い雑すぎるよ……」
「いいんだ! 殿下とは以前からこんな感じだから!」
「だから、お前がそういう事を言うな!!」
シークに猛抗議をしながら、アルスがフィリアナの手を取り、王族専用の会場入り口に向かいだす。その後ろをシークとフィリックスも続いた。
だが本来は王族しか入れないエリアの長い通路な為、フィリアナが物珍し気にキョロキョロし始める。そんな反応を見せる婚約者にアルスが苦笑すると、すでに会場入り口付近で待機している国王夫妻と今回の主役であるルゼリアとセルクレイスの姿が見えてくる。その王族の集団に二人が合流すると、リオレスがアルスに声を掛けてきた。
「アル。お前は一部の人間には、クリスが演じていた病弱で温厚な印象で一応通っているからな? 出来るだけ素を出さないよう心掛けろ」
「一部の人間というのはルケルハイト公爵家傘下の令息達のみですよね? その者達以外とは出来るだけ交流しないようにしていたとクリスから聞いているので、今回俺が猫を被る必要性はないのでは?」
「お前の場合、猫を被らなければ、ただの悪童だろう! クリスが演じていた相手関係なしにとりあえず、来賓全員に対して猫は被っておけ!」
「…………分かりました」
父親から、かなりのダメ出しと釘を刺されてしまったアルスが不貞腐れながら返答をする。そんな次男の様子にリオレスは呆れ顔で盛大にため息つく。
すると、会場から国王夫妻の入場を宣言する声が聞こえた。
その瞬間、リオレスの表情が皆のよく知る威厳に満ちた顔つきになり、ゆっくりと開かれた扉から、国王夫妻が会場へ入場していく。
だが、その光景をその瞬間、不安と緊張感が一気にフィリアナの中で膨れ上がった。しかしフィリアナの心境とは裏腹に会場からは、国王夫妻の入場に盛大な拍手が巻き起こっている。今からそのような雰囲気の会場の中にフィリアナは、注目されながら入場しなければならない……。
その間に今回の主役であるルゼリアとセルクレイル達が、会場に足を踏み入れ盛大な拍手で迎えられている。
しかし急遽アルスとの婚約が成立したフィリアナの場合、会場の参加者達は一体どのような反応をするか、全く想像が出来ない。しかし一番最悪な展開だけは、何故か容易に想像出来てしまった。知名度が低い伯爵令嬢のフィリアナが第二王子の婚約者として姿を現わせば、現在の湧きたっている来賓達の高揚は一気に下がってしまうのでは……と。
少なくともフィリアナが入場した瞬間、どよめきが起こる事は確実だろう。
ただでされ秘蔵っ子のように表舞台に出る事がなかった第二王子が、やっと姿を現わしたと思ったら、いつの間にかよく分からない家柄の婚約者を伴っていたという状態なのだ。
その様な状況を急に知る事になる爵位の高い家の令嬢達は、恐らくフィリアナに対して、かなり非難めいた視線を向けてくるはずだ。その事をすっかり失念していたフィリアナは、酷い不安に襲われ始め、無意識にアルスの手をギュッと握ってしまう。
「フィー?」
「ど、どうしよう……。会場内の方々は、私がアルスの婚約者になった事を今日この場で、いきなり知らされるのでしょう? そうしたら私、第二王子の婚約者候補だった同年代のご令嬢方から絶対に非難めいた視線を向けられてしまうんじゃ……」
そう言って真っ青な顔になってしまったフィリアナの顔をアルスが、苦笑しながら覗き込む。
「大丈夫だ。フィーはあまり気づいていなかったようだが……。俺がまだ犬だった頃、俺に扮したクリスが頻繁にフィーを城に呼び出していただろう? その状況から周囲からは『第二王子の最有力婚約者候補は、ラテール伯爵家の令嬢でほぼ決まりだ』と社交界では噂になっていた。だから、これから入場しても殆どの人間は予想通りだという反応をするから、そんな目は向けられないと思うぞ?」
「で、でも……」
「もし今回そんな視線をフィーに向けてくる令嬢がいたら、俺がまたドレスの裾を引きちぎって撃退してやる!」
そう言ってアルスはゆっくりと口を開いた後、噛みつくような素振りをしながら歯をカチンと鳴らした。そんなアルスのふざけた言い分に思わずフィリアナが吹き出す。
「もう犬ではないのだから、ご令嬢のドレスに噛みついちゃダメだよ?」
「一応、心には止めておく」
いつの間にか不安な気持ちがどこかに行ってしまったフィリアナは、自分達の名前が呼ばれても、落ち着いた気持ちで会場へ足を踏み入れる。すると、一瞬だけ騒めきが起こったが、その後今まで以上に盛大な拍手が巻き起こる。恐らく今までなかなか公の場に姿を現わさなかった第二王子の姿に会場内が盛り上がったのだろう。
その反応に安堵したフィリアナは、アルスと顔を見合わせた後、そのままゆっくりと会場内へと歩みを進めた。




