68.我が家の元愛犬への想いは変わらない
急に涙を零し始めたフィリアナにアルスだけでなく、父フィリックスと兄ロアルドもギョッとし、慌て出す。
「フィ、フィー! どうした!? そんなにアルスとの婚約が嫌なのか!?」
「ご、ごめんな!? ごめん! 恋心もないのに婚約なんて申し込まれたら嫌だよな!?」
「フィリアナ……。殿下との婚約がもし負担と感じるのなら、私の方からもしっかり陛下に断りを入れる! だからそんなに思い悩まなくてもいいのだぞ……? 安心して殿下にお断りの返答をしなさい」
「おい! フィリックス! お前、どさくさに紛れて何て事を言っている!!」
「ですが、殿下。娘は殿下の告白を耳にして涙しておりますが?」
「うっ……」
そんな慌て出した男性陣にフィリアナは、何かを否定するように首をふる。
「ち、違うの……。わ、私……アルスと婚約するなら、ちゃんとアルスを男性として好きにならなきゃいけないって……そう思い込んでいたから……。だ、だからこれは……安心からの涙で……」
そのフィリアナの言葉に男性陣三人が互いに顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げる。
「わ、私……アルスの事、家族的な目でしか見れなくて……。でも婚約して夫婦になったら……他の人達のように恋人同士みたいな接し方をしなきゃいけないって思い込んでいて……。わ、私はアルスの事は大好きだけど、でもそれは、犬だったアルスに抱いていた気持ちの延長での大好きだから……。今更、恋愛的な感情をアルスに抱くのは無理そうで……。だから婚約を申し込まれたらどうしようって、ずっと不安で……。今の家族みたいなアルスとの関係が壊れちゃうと思うと、凄く怖くて……」
そのフィリアナの言い分を聞いた三人は、何故今までフィリアナがアルスとの婚約に消極的な態度を見せていたのか、やっと理解する。
「そうか……。フィーは俺とは『婚約者』ではなくて『家族』でいたかったのか……」
そう言って、アルスがフィリアナの頭を優しくポンポンと撫でつける。
「うん……。で、でも私、アルスに対して恋愛小説に出てくる主人公みたいに心がときめいたりしないから……。それなのに婚約なんてしたら、そういう気持ちにならないといけないって……思い込んでいて……」
「ならなくていいぞ。さっきも話した通り、俺もフィーに対しては、そういう気持ちはまだ抱いていない。でも……ずっとフィーと一緒にいたいという気持ちだけは確かで……。だから、どうしても早く婚約を結んでフィーの隣を確保したかったんだ……」
すると、フィリアナが顔を上げて、両手を握ってくれているアルスの顔を見上げる。
「わ、私……アルスと婚約しても今まで通りの家族みたいな接し方でいいの……?」
「ああ……。むしろその方がいい。大体、将来的に結婚したら俺とフィーは本当の家族になるじゃないか。折角、家族的な感覚を抱いているのに……わざわざ婚約者みたいな感覚に戻すのは無駄だし、勿体ないだろう?」
すると、フィリアナが小さくこくんと頷いた。
「俺に抱いてくれる愛情は家族愛で全く問題ない。だから……俺と婚約してくれるか?」
「うん……。うん! わ、私、アルスと婚約……する!」
まだ鼻をグズグズいわせている状態で何度も頷き、やっと婚約を受け入れてくれたフィリアナにアルスが、周囲にも分かりやすいくらいホッとした表情を浮かべる。
だが、その表情はフィリックスとロアルドに向けた瞬間、勝ち誇る様な顔に変わった。
「ロア! フィリックス! 今の言葉を聞いたか? フィーは俺との婚約に同意してくれたぞ!」
「ええ……。残念ながら、しかとこの耳で聞き取りました……」
「同意と言うか……半ばアルスが強引に承諾させたという雰囲気はあるけれどな……」
「強引じゃないだろう!? 俺もフィーも家族的な関係を求めて婚約を希望しているのだから!」
そう二人に言い返したアルスは、テーブルの上に置いていた黒いファイルから、新たな書類をいそいそと取り出した。
「よし! フィーの同意も得た事だし……フィリックス! この婚約契約書の保護者欄にサインしろ!」
「「はぁ!?」」
アルスが取り出してきた書類を目にしたロアルドとフィリックスが、同時に素っ頓狂な声をあげる。なんと、アルスがファイルから取り出した書類は、本来婚約の申し入れが成立した後に準備される婚約契約書だったのだ……。
「いや、待て! お前、何でそんな物をすでに用意しているんだ!」
「フィーの同意を得られたら、さっさと婚約を成立させたかった。だから予め父上にこの書類を用意して頂くよう脅した」
「お前、今『脅した』って言ったよな!? 父親とはいえ国王陛下を脅したって言ったよな!?」
「つい口が滑った……。訂正する。父上に頼み込んだ」
「いや、もう遅いからな!」
そう言ってギャイギャイ言い合いをしている息子と主君に白い目を向けたフィリックスは、盛大にため息をついた後、ゆっくりと娘のフィリアナに視線を向ける。
「フィー、本当に……殿下からの婚約の申し入れを受けてもいいのだな?」
「はい」
「分かった……」
フィリアナの意思を再度確認したフィリックスは、少し寂しそうな笑みを浮かべた後、胸元の内ポケットから携帯用のインクペンを取り出し、アルスから差し出された婚約契約書の保護者欄にサインをする。
そして今度はそのペンと契約書をフィリアナの方へと差しだした。
「お前が決めた事だ。もう私は何も言わないよ。ただ……婚約を解消したくなったら我慢などしないで、すぐに私に言いなさい」
「お父様……」
苦笑しながらフィリアナがペンを受け取り、サインをしようとすると、それをめざとく聞いていたアルスがフィリックスに抗議し始める。
「フィリックス! ふざけるな! フィーは俺と婚約解消なんて絶対に言い出さない! 俺がそんな考えを起こさせないようにする!」
「そうですかー。ですが、殿下はすでに3回も娘を酷く泣かせておりますがー?」
「何を言っている! 俺がフィーを大泣きさせたのは、元の姿に戻る直前の死にかけた時だけだ!」
「いや、お前、邸に来たばかりの頃、一生懸命声をかけきたフィーを無視した挙句、手に噛みついて大泣きさせたじゃないか……。その事を忘れたのか?」
「あれは……フィーがあそこまで大泣きするとは思わなかったんだ!」
「しかも今だってこんなに泣かせているし……」
「今回は安堵からの涙だとフィー自身が言っていたじゃないか! だから泣かせたのは俺じゃない!」
そんな三人のやり取りに苦笑しながら、フィリアナは婚約契約書に視線を落とす。
すると、婚約が解消になった場合の契約内容が、どんな状況であってもアルスの有責となるような事が書かれていた。
「お、お父様! これ……婚約を解消した場合の契約内容が、アルスにとって不利な条件しかない気がするのだけれど……」
「当たり前だろう? これはアルフレイス殿下の切望によって結ばれる婚約なのだから。たとえ今後フィーの落ち度で婚約解消に至ったとしても、それはフィーの心を繋ぎ止めておく事が出来なかった殿下の責任となるのだから、この契約内容で間違っていないよ」
にっこりとしながら、そう説明してくれた父だが、その目が一切笑っていない事で、思わずフィリアナの顔が引きつる。だが、気を取り直して再度、契約書に視線を落とし、ゆっくりと丁寧に自身の名前を書き綴る。
「お父様、ペンをお返しします」
「ああ」
どこか寂しそうな笑みを浮かべながら、フィリックスがペンを受け取る。
すると、先程までロアルドとギャイギャイ言い合いをしていたアルスが、いつの間にかテーブルの上にある婚約契約書を横から覗き込むようにジッと見つめていた。
「アルス、これでいい?」
「あ、ああ……。その、自分から頼んでおいてなんだが……。フィーは本当に俺と婚約をしてくれるのか?」
「うん!」
「そ、そうか! そうか……」
何やら茫然とした様子を見せたアルスだが、フィリアナから渡された婚約契約書をまじまじと確認しながら、一瞬だけふっと笑みをこぼす。そして大切そうに黒いファイルの中にそれを挟み込んだ。
「フィー……。同意してくれて、ありがとな……」
「お礼を言うのは私の方だよ。今まで通りの関係でもいいと言ってくれて……ありがとう」
互いに礼を言い合い、にっこりした二人だが……。
何故かアルスの方は、急に何かを思い立ったようにファイルを手にした状態で立ち上がる。
「アルス?」
「今から父上にフィーとの婚約が成立した事を報告してくる!」
「「ええっ!?」」
素早い動きで扉の前まで移動し、ドアノブに手を掛けていたアルスは、そう宣言すると足早に部屋を出て行ってしまった。そんなアルスが出て行った扉を茫然としながら、フィリアナとロアルドが見つめる。
「あれは……相当嬉しかったみたいだな……」
ロアルドの呟きにフィリアナが真っ赤な顔をしながら俯いた。
そんな妹の様子にロアルドが、飽きれと労いが混じったような苦笑を浮かべる。
「フィー、本当に良かったのか? こんな急に決めて……」
「うん。だって私、婚約して今までのアルスとの関係が壊れてしまうのが怖かっただけだから……。でもアルスは、今のままの関係でいいって言ってくれたから……大丈夫!」
そう口にしたフィリアナは、今ではすっかり安心しきった表情をしていた。
そんな妹に振り回された仕返しをしたくなったロアルドが、意地の悪い笑みを浮かべる。
「いいのか~? これでお前の将来は辺境伯夫人だぞ?」
「うっ……。それはちょっと自信がないかも……。だから兄様、色々と助けてね?」
「嫌だよ……。これからそういう事はアルスに頼め!」
「だって、社交関連は7年間も犬だったアルスじゃ頼れないでしょ!? アルスとまとめて兄様が私達を助けてよぉ~!」
「お前は……。今でもお前達の子守役みたいなっている兄様に更に寄生してくるのか……?」
「アルスは将来的に兄様の義弟になるのだから、兄様は面倒を見る責任があると思う!」
フィリアナが鼻息荒めで主張すると、一瞬だけ白い目を向けてきたロアルドがフイッと視線を逸らし、先程から婚約の申入れ書を穴があくほど眺めているフィリックスに声を掛ける。
「父上~。来週からフィーの淑女教育をリートフラム城で行っている王族向けの厳しいレッスンに通わせる手配をされた方がよろしいですよー。ついでに今回の件が片付いたら、アルスの方も再度王子教育を受けさせた方がよろしいかと思います」
「あぁー!! 兄様、何て事を言うの!?」
「いい加減にフィーも兄様ばかりに頼らず、自分で何とか出来るようにならないとな!」
「兄様の意地悪!」
「兄様は意地悪じゃない! 妹思いの優しい兄様だ! さっきだって上手く自分の気持ちを説明出来ないお前の代わりに代弁してやっただろう!?」
「私、頼んでないもん!」
「お前……未だにその語尾に『もん』を付ける癖が時々出るよな……」
「そんな事ないも……の」
「ほらぁー……。また言いかけたー」
ロアルドに声を掛けられたフィリックスは、手にしていた婚約申入れ書から一瞬だけ視線を外し、幼少期から全く同じ様なじゃれ合いの仕方をしている二人に視線を向ける。そして盛大にため息をついた後、ゆっくりと娘の名を呼んだ。
「フィリアナ」
急に父親に名を呼ばれたフィリアナが、やや驚きながらフィリックスの方に顔を向ける。
「なぁに? お父様」
「お前は、つい先程アルフレイス殿下と婚約を交わしたが……それは二週間後に行われるルゼリア様のお披露目式に参加するという事でいいのかい?」
「え、ええ……。そのつもりだけれど……」
「ならば色々と身を守る術や準備の確認と、会場の警備状況なども把握しておいた方がいいぞ」
その父の言い分にフィリアナが怯えるように体をビクリとさせる。
「父上……。当日フィーにはアルスが病的にへばり付くと思うので、その情報は把握していなくても問題はないのでは?」
「いや、今回アルフレイス殿下も社交場に初参加となるから、来賓や令嬢方に囲まれ身動きが取れなくなる可能性がある。一応、はぐれてしまう事も考慮し、護身関係は用心するに越した事はないだろう」
「確かに……」
「後でお披露目式の日程表と警備体制の資料をお前にも渡す。フィーと一緒に確認しておいてくれ」
「わかり.……ました。ちなみにアルスは一緒でなくてもよいのですか?」
「アルフレイス殿下には、王家の影達の配置場所も把握して頂けなければならない為、セルクレイス殿下より、また個別の資料を渡されるはずだ」
「あー、なるほど」
父親に返事をしながらロアルドがフィリアナに視線を戻すと、やや怯えているような瞳とぶつかった。
「フィー、今からそんなに緊張してどうするんだよ……」
「だって……もし私が暗殺者に捕まってしまってしまったら、アルスの弱点になってしまうから……」
「大丈夫だろう? 当日は恐らく鬱陶しいぐらいお前にアルスがへばり付いているはずだし。そもそもお前は、防衛対策の前にもっと気にしなければならない事があるんじゃないか?」
ロアルドの話の意図が分からず、フィリアナはコテンと首を傾げる。
「私がもっと気にしなければならない事?」
「お前、お披露目式には第二王子の婚約者として出席するのだろう? 今までの似非伯爵令嬢マナーで大丈夫なのか?」
「そ、そう言えばそうだった……」
「あとアルスと何回かダンスを練習しておいた方がいいぞ? あっちは社交場への参加は初みたいなものなんだし」
その兄の助言にフィリアナの顔からサァーっと血の気が引く。
「ひぃっ! ダンスの事もすっかり忘れてた! お、お父様! アルス、この後ここに戻ってくるよね!?」
「ああ。恐らくな」
「アルスが戻り次第、ダンスの事を相談しないと……」
急に慌て出したフィリアナに更にロアルドが不穏な事を口にする。
「当日フィーが着るドレスも恐らく王家の方で用意されるから、この後フィーはすぐにドレスの採寸だろうーなぁー」
「嫌ぁぁぁぁー!! あと二週間しかないのに準備する事が多すぎるぅぅぅー!!」
そう叫んだフィリアナはこの後、再びこの部屋に戻ってきたアルスに思わず泣きついた。




