67.我が家の元愛犬は傍にいる事を望む
お尻からブンブンと動く尻尾の幻覚が見えそうな程のニコニコ顔をしたアルスは、ロアルドを押し除けてフィリアナの隣を陣取り、手にしていた黒いファイルをテーブルの上にパシンと景気の良い音を立てて置いた。
「フィリックス、父上からフィーに婚約の申し入れをする事への承諾を取ってきてやったぞ! これで文句ないだろう?」
席を強奪され渋々と父親の隣に座るロアルドと、唖然とした様子のフィリックスとフィリアナに対し、アルスが勝ち誇った笑みを浮かべながら自信満々に宣言する。しかし、フィリックスはどうも信じられず、再度確認した。
「本当ぉぉぉーにリオレス陛下は、我が娘との婚約に承諾なさってくださったのですか……?」
「ファイルの中を見てみろ! 婚約申込み書の俺の保護者の欄に父上のサインがしっかりと書かれているはずだ!」
そう言ってアルスがファイルから婚約申込み書を取り出し、自信満々な様子で三人に見せる。その申込み書をフィリックスとロアルドは、かなり目を細めながら注意深く確認し始めた。
「本当に陛下がサインをされていらっしゃる……」
「アルス……。お前、一体どんな手を使ってリオレス陛下を説得したんだ?」
「フィーとの婚約を承諾してくれなければ、国を捨てて他国へ出奔すると言ったら、渋々サインをしてくれた」
「「出奔っ!?」」
どうやら半ば父親を脅して、フィリアナへの婚約の申し入れを承諾させたらしい。
「言っておくが、これは王家からの正式な婚約の申し入れだ! よってフィー以外の人間は簡単に拒否出来ないからな!」
そのアルスの言い分に三人全員が、同じ部分に疑問を感じて同時に首を傾げる。
「「「フィー以外?」」」
すると、アルスがゴホンとわざとらしい咳をした。
「俺は今回、王族としての権限を徹底的に行使する! だが、フィーに対して紳士的でありたいから、可能な限りフィーの意思は尊重したい……。だから俺は、フィーから断りの言葉を貰わない限り、引き下がらないつもりだ!」
その瞬間、フィリックスとロアルドが同時にフィリアナに向かって叫ぶ。
「フィー! とりあえず一旦、断れ!!」
「フィリアナ! すぐにお断りしなさい!!」
「お前ら! フィーの意思を無視して勝手に誘導的な言葉を投げ掛けるな!」
父と兄から、さっさと断るように言われたフィリアナだが……。
急に婚約を迫られたからか自身の気持ちがわからなくなってしまい、返事が出来ずにいた。まさかこんなにも早くアルスが父である国王から、婚約の申し入れの承諾を得てくるとは思わなかったのだ。
「あ、あの……私……」
動揺のあまり返事もまともに出来ず、目を泳がせる始めたフィリアナにアルスが不安そうな顔を浮かべながら、顔を覗き込んできた。
「フィーは……俺と婚約するのは嫌か?」
先程までありもしない尻尾を嬉しそうに振っているような幻覚を見せてきたアルスだが、今は捨てられた子犬のように縋るような視線をフィリアナに向けている。
そんなアルスから、またしても元気のない犬耳と尻尾の幻覚を見てしまったフィリアナは、慌てて否定した。
「ち、違うよ!? 嫌ではなないよ!? 嫌ではないのだけれど……」
しかし、その後の言葉が続かない。
嫌ではないが……何かがフィリアナの中で酷く引っかかっているのだ。
「ならば俺と婚約してもいいんだな!?」
「う、うん……」
「「フィー!!」」
アルスに誘導されるように承諾の返答をしてしまったフィリアナを咎めるようにフィリックスとロアルドが、同時に叫ぶ。
「フィリアナ! よく考えてから返答しなさい!! 殿下と婚約を結ぶという事は、王族と縁を結ぶという事なのだぞ!?」
「そうだぞ! フィー! 大体アルスと婚約したら、お前がずっと嫌がっていた辺境伯夫人の未来が待っているんだからな!?」
「わ、分かってるよ! 分かっているのだけれど……」
断るつもりはないらしいが、どうも煮えきれない態度を繰り返すフィリアナに男三人が、もどかしそうな様子でフィリアナの次の言葉を待つ。
すると、先程からモヤモヤした状態を繰り返していたフィリアナが、深く深呼吸をした後、ゆっくりとアルスを見据えた。
「アルスは……どうして私がいいの?」
控えめに放たれたその問いにアルスだけでなく、フィリックスとロアルドも驚くようにフィリアナに視線を向ける。
「だって……アルスが私を婚約者にしたいと好意を抱いてくれているのは7年間、私が犬だったアルスを可愛がっていたからだよね? それって家族間で抱く好意というか……愛情みたいなものでしょう? それなのに……結婚相手として、こんなにも早く私を選んでしまっていいの?」
自信無さげに語られたフィリアナの主張の意図がよく理解出来なかったアルスが、怪訝そうな表情を浮かべる。
「どういう事だ?」
「だから……その、世の中には私とは比べ物にならないくらい素敵なご令嬢がたくさんいるのに……。アルスは、その事を知らない状態で、慌てて私と婚約してしまうのはどうなのかなって……」
そのフィリアナの言い分に再びアルスが、驚くような表情を浮かべる。
「アルスは7年間も犬だったから、社交場への参加は一切出来なかったでしょう? だから……婚約相手は、もう少し他のご令嬢方を知ってから決めた方がいいんじゃないかなと思って……」
そう口にしながらもアルスが自分と他の令嬢を比べ、自分が選ばれなかった事を想像してしまったフィリアナは寂しさを感じてしまい、思わず最後が尻すぼみになってしまう。
すると、アルスが呆然とした表情のまま、小さく呟いた。
「何故……そんな事を言う……?」
「えっ……?」
「やはりフィーは、俺と婚約するのが嫌なのか……?」
「ち、違うよ!? 本当にそれは違うから!」
「ならば何故、俺に他の令嬢も検討しろなどと言うんだ!!」
珍しくフィリアナに対し怒りの感情を見せてきたアルスに一瞬、フィリアナが怯えるような反応をする。すると、その様子を見ていたロアルドがアルスを咎めた。
「アルス! まずはフィーの言い分を聞けよ!」
ロアルドのその声掛けで、思わず感情的になってフィリアナを怯えさせてしまった事にアルスが気付き、我に返る。
「すまない……。その、怒っている訳ではなくて……。あまりにもフィーが他の令嬢との交流を勧めてくるから、つい……」
するとロアルドが深いため息をついた後、自分の感情を上手く言葉に出来ない妹とアルスの間を取り持つように入る。
「フィーが言いたいのは……7年間も犬にされていた所為で、他の令嬢達と交流の機会が得られず、選択肢が少ない状態で安易に自分を婚約者に選んでしまうのは、アルスにとって勿体無いって事だろう?」
「うん……」
「何故そうなる!? 選択肢なんて必要ない!! フィーがいれば十分だ!!」
そう言い切ってきたアルスにロアルドが盛大に呆れる。
「だーかーらー! それは今のお前がラテール伯爵邸で生活していた狭い視野だけで考えた場合での判断だろう!? 今のお前は、自分と同年代の令嬢との交流がフィーだけじゃないか! フィーが言いたいのは、一度他の令嬢達にも目を向けて選択肢を広げてから、婚約相手を決めた方がいいんじゃないかって事なんだよ!」
「フィーは俺に他の令嬢とも遊べと言っているのか!?」
「違う! フィーが言っているのは、他の令嬢達の中にフィー以上にアルスが気に入る令嬢がいるかもしれなから、それを確認してから婚約を決めた方がいいんじゃないかと言っているんだ!」
「何故そんな無駄な事をしなければならないんだ! やはりフィーは俺と婚約するのが嫌なのか!?」
「あのな、アルス。今のお前は、自分と歳の近い女性をフィーしか知らない状態なんだよ……。そんな状態で婚約者に選ばれたフィーにしてみれば、アルスは選択肢がない状態だから、自分を選ぶしかなかったんじゃないかと懸念してしまうんだ……」
フィリアナが窮地に立たされた時だけ妹に甘くなるロアルドが、自身の気持ちを上手く説明出来ない状態の妹の気持ちを代弁する。
対してアルスの方もロアルドが間に入ってくれた事で、自身の言いた事を遠慮なく訴えられるようで返しに遠慮がない。
「それの何がいけない! 俺はフィーにしか興味がない! 他の令嬢の情報なんて必要ない!」
「じゃあ、お前、フィーと婚約した後にフィー以上に好意を抱ける令嬢が出てきたら、どうするんだよ! 婚約を解消したら フィーの経歴に傷が付くんだぞ!?」
「フィーと婚約を結んだら解消など絶対にしない! そもそもこの先フィー以上に婚約したい令嬢なんて、現われるわけないだろう!?」
段々と押し問答のようなやり取りになってきてしまったアルスと兄の攻防に当事者であるのに蚊帳の外にされているフィリアナはアワアワし始める。対して父フィリックスの方は、呆れて言葉が出てこないという表情を浮かべながら、二人のやり取りを静観していた。
「何でそう言い切れるんだよ! そんなのこの先、どうなるか分からないじゃないか!」
「言い切るに決まっているだろう!? 俺はフィーと7年間も常に一緒に生活をしてきたんだ! だからこの先、俺にとってフィー以上に裏表なく接し方をしてくれて、俺の事を大切に思ってくれる令嬢なんて……絶対に現れない!!」
ロアルドの三倍くらい大きなアルスの声で室内が一瞬、静まり返る。
しかし、その言い分を聞いたロアルドは、何故かあっさりと納得した。
「ああ、なるほど。そういう事か……」
妙に何かに納得したロアルドの様子に静観を決め込んでいたフィリックスが苦笑する。しかし、フィリアナだけ兄が何に納得したのか分からず首を傾げた。
すると、その反応に気がついたアルスが、フィリアナに真っ直ぐな視線を向けながら、その理由を語り出す。
「フィー。俺が生涯の伴侶にフィーを望むのは、フィーの事を大好き過ぎるという単純な理由だけではないからな」
「なっ……!」
真顔でそう言い切ったアルスの言葉でフィリアナは赤面し、ロアルドとフィリックスは呆れた表情を浮かべる。
「フィーを伴侶にしたいのは、一緒いると凄く気持ちが落ち着いて俺が安心出来るからだ。フィーは俺の事を思って全力で泣いてくれるし、俺が間違った事をしようとしたら遠慮なく叱ってくれる。何よりもこの7年間、ずっと俺の事を大切に扱ってくれただろう?」
そう言ってアルスは、隣に座っているフィリアナの手に自分の左手を重ねる。
「同時にフィーが俺の隣にいるのが、空気のように当たり前になり過ぎてしまって……。俺にとって、フィーのいない生活なんて、もう考えられない。だからこの先もずっと一緒にいられるようにするには、フィーを俺の伴侶にするしかない。フィーが側にいてくれないと、俺が落ち着かない……」
そう言ってアルスは、今度は重ねていた手でフィリアナの両手を取る。
「本来……こういう状況では『好きだ』とか『愛している』的な事を口にして、婚約を申し込むのが理想的な流れだとは思う……。だが今の俺は、恐らくそんな情熱的な感情をまだフィーには抱いていない。俺はよく自覚もしていない感情を思い込みで口にはしたくないから、こういう言い方しか出来ないが……。それでもフィーが一緒にいてくれないと、俺がダメになる。それだけは確かだ……。だからもし、フィーが俺と婚約をしてもいいのであれば、絶対にこの話は受けて欲しい」
そう言ってフィリアナの両手を手に取ったまま、アルスはまるで懇願するようにフィリアナの顔を覗き込む。
すると、フィリアナは何かに気付くようにゆっくりと瞳を大きく見開く。
しかし同時にプクリと涙袋を膨らませ、ポロポロと涙を零し始めてしまった。




