45.我が家の元愛犬の過去はそれなりに重い
「フィー?」
急に後ろからフィリアナに抱きつかれたアスルが、少しだけ驚いた反応を見せる。そんなアルスの背中にフィリアナが涙を流しながら顔を埋めた。
「ご、ごめんなさい……。わ、私、まだ幼かったから……お父様が可愛い子犬を連れ帰ってきたって、はしゃいじゃって……。アルスがそんな辛い思いをした直後だったのに……無理矢理仲良くなろうとして、何度もしつこく追い回して……たくさん撫で回したりしてた……。でも、その時のアルスは、誰も信じられなくなっていたんだよね……? 人が怖いって感じていたんだよね……? それなのに……それなのに私は……」
そう言ってフィリアナは、アルスの背後から回していた腕に力を込める。自身では受けとめきれない悲しみに直面した時、フィリアナはよくこうして犬だったアルスに抱きつき、安心感を求める事が多かった。
その事をよく知っているアルスが、フィリアナを安心させようと、腹部辺りで重なり合うように回されたフィリアナの手に自身の手をそっと重ねる。
「フィー、それは違うぞ? 確かに俺はお気に入りの侍従に裏切られた直後、もう誰も信じたくないと周囲の人間を拒んでいた……。だが、ラテール邸で過ごす内にそういう気持ちは、きれいさっぱり無くなったんだ。フィーがこの世の終わりみたいに俺に嫌われたって大泣きして、全力で仲良くなりたいと訴えてくれたり。ロアがブツブツ文句を言いながらも嬉々として俺の散歩や入浴を世話してくれたり……。二人とも何の打算もなく純粋な気持ちで、俺を家族の一員として、すぐに受け入れてくれただろう? あの時、俺がどれだけ二人の接し方で救われた事か……」
そう言って、アルスは重ねられていたフィリアナの手をそっと外し、そのままクルリと体の向きを変えた。そして再びフィリアナの両手を取って、その額に自身の額を押し当てる。
「フィーとロアが今まで俺にたくさん愛情を注いで接してくれたから……俺は侍従に裏切られた事から立ち直る事が出来たんだ」
「でも……でもアルスは、7年間も犬としての生活を強いられていたんだよ!? しかも本当は王族なのに……その間、格下の私達にペット扱いされて……」
フィリアナが瞳に涙を浮かべながらアルスに憐憫の眼差しを向ける。何故ならアルスは一番遊びたい盛りの幼年期から、色々な事をたくさん吸収出来る少年期の貴重な時間を犬になる呪いを掛けられた事で奪われているからだ。
だが、当のアルスは同情的になっているフィリアナに対し、苦笑を返す。
「確かに王族が伯爵家でペットとして飼われていた状況は、あまり外聞がよくないな。だが、俺にとってラテール邸で過ごした日々は、城で第二王子として過ごすよりも何十倍も充実した日々だったんだ」
そう言って、ニカッっと歯を見せながら笑みを浮かべるアルスにフィリアナが、やや納得出来ないという様子で首を傾げる。
「俺は物心が付く前から命を狙われていたから、幼少期は警備上の関係で殆ど自室から出してもらえなかったんだ。もちろん、そんな俺を気遣って、兄上と母上は頻繁に部屋に足を運んでくださったし、たまに父上も顔を出してくれた。あとクリス達兄妹も必ず月に一回は遊びに来てくれたが……俺の性格からして、そんな自由を奪われた生活は、苦痛でしかなかった……。しかも王族は、三歳から英才教育が始まる。もしあのまま犬にされずに城で生活をしていたら、俺は心を病んでいたかもしれない……。だから犬にされても、ラテール伯爵家でフィー達にたくさん遊んでもらって自由に振る舞えた俺の7年間は、苦痛どころか楽しい日々でしかなかった」
フィリアナを安心させるようにそう語ったアルスは、くっ付けていた額をゆっくりと離し、やや照れくさそうな表情を浮かべた。恐らく幼少期のアルスの悪戯が酷かったのは、そんな隔離された生活でのストレスと、周囲から腫れ物のように扱われていた事への反抗だったのだろう。
だが、アルスのその話を黙って聞いていたロアルドは、ある不可解な点に気付く。
「なぁ、アルス。その話、ちょっとおかしくないか? その頃は、お前よりも王太子であるセルクレイス殿下の方が、頻繁に命を狙われていたはずだろう? ならば何故、第二王子のお前の方が自室に軟禁される程の厳重な警護をされていたんだ?」
すると、アルスが苦笑しながら、その質問に答える。
「いいや。おかしくはない。俺は5歳くらいまで自身で魔力制御が出来なかったんだ。その間、刺客に襲われた際、無意識で防衛本能が働いてしまって、よく城の一部を吹き飛ばしていた」
その話にロアルドも苦笑する。
「なるほど。アルス本人が対処すると城が崩壊しそうだから、なるべく周囲の人間が警護するようにしていたのか……。確かにアルスの魔法は強力過ぎるから、制御が出来ないと化け物じみた威力になりそうだもんな」
城の一部を吹き飛ばした話を聞いたロアルドが、敢えて茶化すような言い方をする。しかし、何故かアルスはそれに乗らず、辛そうな笑みを浮かべた。
やや重苦しい空気を変えようとおどけたが、逆に悲痛そうな笑みをアルスに返されてしまったロアルドが首を傾げる。
「アルス?」
「化け物じみた威力じゃない……。当時、制御が上手く出来なかった俺は、本当に化け物そのものだったんだ……。それこそ、まだ口も利けない赤ん坊の状態で本能的に放った魔法が、襲ってきた刺客を殺してしまうほどの……」
その瞬間、フィリアナが分かりやすいくらいに体をビクリと強張らせ、口元を抑える。対してロアルドは、眉間に皺を刻んだ。
「それは……確実に正当防衛になるんじゃないか?」
「だが俺は、まだ赤ん坊だった状態で人を殺めたんだぞ?」
「それこそ、尚更じゃないか! 相手は、まだ起き上がる事も出来ない赤ん坊のお前を殺そうとしたんだぞ!? どう考えてもその相手の方が頭がおかしいだろう!? しかも暗殺を生業としている犯罪者だ! 理不尽に自分が殺されるかもしれない状況であれば、全力で抗うのは当然の権利だろう!」
ロアルドが吐き捨てるようにアルスの正当防衛を強く主張する。
しかし、アルスの方は暗い表情を浮かべながら静かに首を振った。
「だが、周囲はそう思わない……。赤ん坊を手に掛けようとした奴らよりも、まだ満足に動けない状態で襲撃者を始末した赤ん坊の方に脅威を抱くんだ……」
アルスからこぼされた重い言葉に流石のロアルドも思わず息を呑む。そんなロアルドの反応にアルスが、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「5歳以降は、俺も魔力制御が出来るようになったので過剰な魔法攻撃はしなくなった。それでも……過去を知る者の多くは、また俺が魔力制御が出来なくなる事を恐れ、俺に仕える事を拒んでいたと思う……。あの頃、俺の事を恐れずに年相応の子供として扱ってくれたのは、両親と兄上、ルケルハイト公爵家の叔父上一家、護衛のフィリックスとシーク、剣術の師でもある第一騎士団長のマルコム、そして……」
そこでアルスは、何故か声を詰まらせるように間を取る。
「俺が3歳の頃から侍従として4年間仕えてくれた……ルインだけだ」
そのアルスの言い方から例の侍従に扮した刺客の青年が、かなりアルスから慕われていた事が伺えた。その事に気付いてしまったフィリアナが、アルスに握られていた手を逆に強く握り返す。すると、アルスが困ったような笑みを返してきた。
「フィーは昔から泣き虫だな……。しかも自分が苦しい時は平気な癖に……他人の事で心を痛めてしまうと、すぐに泣く」
いつの間にかボロボロと涙を零しているフィリアナの涙を拭おうと、アルスが強めに握られていた手をゆっくりと外し、フィリアナの頬に手を伸ばしてくる。
「だって……だって、アルスに起こった事が、あまりにも酷過ぎるから!! 赤ちゃんの頃から命を狙われて……でもたまたま自分で守れる力を持っていたから、それで自衛しただけなのに周りから怖がられて……。でもやっとアルスの事をちゃんと見てくれる人に出会えたと思ったら、その人はアルスの命を狙う側の人間で……。その人の所為で7年間も犬として過ごす事になった挙句、私を庇った所為でたくさんの血を流して、一度命を落としたんだよ!?」
悲痛な表情で泣きながらフィリアナが訴えてきた内容に一瞬、アルスが目を丸くした後、盛大に吹き出す。
「ふはっ……! 改めて内容を聞かされると、今までの俺の14年間の人生はかなり壮絶だったな」
「笑い事じゃないよ!! アルスは何でそんなに平気でいられるの!? 何でアルスばかりがこんな辛い目に遭うの!? こんなの……こんなの酷過ぎるよ!!」
感情的になり過ぎて止まらなくなった涙をフィリアナ自身が両手で拭い出す。
そんな泣きじゃくり始めたフィリアナにアルスがそっと腕を回して、自身の方へと抱き寄せた。
「平気ではなかったぞ? でも……大きすぎる力を持っている事で周囲から畏怖の目を向けられる辛さは、父上や兄上も同じで俺の気持ちを分かってくれていたし。そんな力を暴走させてしまうかもしれない俺に普通に接してくれる従兄妹や家臣もいてくれた。何よりこのラテール邸での生活が始まってからは、毎日フィー達が俺に愛情いっぱいで接してくれたから……俺はまた人を好きになる事が出来た……。もし俺が平気そうに見えるのであれば、それは周囲の人間が、俺の心が折れないように手を差し伸べ、支えてくれたからだと思う。だから俺は、今までの自身に起こった理不尽な状況を何とか受け入れ、前に進む事が出来たんだ」
そう言ってアルスが、抱き込んでいるフィリアナの頭を優しく撫でる。
「アルスは……強いね……。私だったら、そんな状況は耐えられないと思うから……」
「まぁ、俺は現リートフラム王家内では一番の高魔力保持者だし、不本意であるが父である『戦神王リオレス』に性格がそっくりだと言われているからな。恐らく俺の神経の図太さは、完全に父上譲りのはずだから、そう簡単には心が折れたりはしないと思うぞ?」
自身の過去の話で重苦しい雰囲気になってしまった事に気づき、敢えておどけるような返しをアルスがし始める。すると、ある言葉にフィリアナが反応した。
「戦神王?」
初めて聞いた現国王リオレスの謎の二つ名にフィリアナが、首を傾げる。
すると、ロアルドがやや唖然とした表情を浮かべて話に入ってきた。
「フィー……。まさかリートフラム史上、上位に入る『戦神リオレス』の武勇伝を知らないのか!?」
「ええと……。それって、悪政を繰り返す前王を退位させる為に不正に手を染めていた国王派の貴族達が立てこもった王城を当時王太子だったリオレス陛下が、お一人で一斉制圧したというお話?」
「それだよ!! その時のリオレス陛下は戦神のごとき勢いで、オルスト国王派の貴族達をたったお一人で、一網打尽にした事から『戦神王』って呼ばれるようになったって歴史の講義で習っただろう!?」
「えっ……? そ、そうなの? 私が受けた講義で使っていた教材には、そんな事は書かれていなかったと思うけれど……」
「嘘……だろ……? もしや男女で使っている教材が違うのか……?」
どうやら現状の貴族子女達向けの歴史教育では、令息向けの歴史教材のみ現国王リオレスが、かなり英雄視された内容で書かれているらしい。その状況に昔から武勇伝や英雄譚などが好きなロアルドが地味にショックを受けていると、横からついでのようにアルスが補足情報を主張するように言い出す。
「ちなみに城で生活していた頃の俺は『狂犬王子』と呼ばれていたぞ!」
「……………」
自信満々という様子で情報提供してきたアルスにフィリアナが無言になる。すると、ロアルドがアルスに憐憫の眼差しを向けながら、敢えて優しく語りかける。
「アルス……。お前、それをカッコいい二つ名だと思い込んでいるみたいだから、一応教えてやるけれど……。それは王族に付けられるには、物凄く不名誉な悪口的な二つ名だからな……?」
「何……だと……? 『狂犬』という言葉は強そうな響きだから、武勇に富んだ者に付けられる呼び名ではないのか!?」
今まで勇ましい二つ名だと思い込んでいた様子のアルスが衝撃を受ける。
そんなアルスを憐れむようにロアルドが言葉を選びながら、その二つ名について語り出す。
「あー、うん。確かに僕もアルスと同じ年齢だった二年前までは、そう思っていた時期もあった。でも、よく考えみろ。その呼び名、使い捨にされる下っ端の小悪党に付けられている事が多くないか……?」
「下っ端……」
「ほら、口ばかりで実力がない奴の事を『弱い犬ほど、よくキャンキャンと吠える』とか揶揄するだろう? 思わずその状況を彷彿しないか?」
「キャンキャン……」
実際に子犬の頃、よくキャンキャンと吠えて無駄な抵抗していた経験のあるアルスの胸にロアルドの言葉が、グサリと突き刺さる。
「あっ、でも、ほら! アルスには『俺様犬』という立派な二つ名があるじゃないか! だ、だから『狂犬王子』の二つ名はもう卒業でいいんじゃないか?」
すると、アルスが恨みがましい表情を浮かべ、ジッとロアルドを見やる。
「ロア、その呼び名は『狂犬王子』よりも更に不名誉になっていないか……?」
「ええと……」
咄嗟に口にしたが、逆に墓穴を掘る結果を招いてしまったロアルドが、明後日の方向に視線を向け、誤魔化そうとした。
すると、傷心を装ったアルスがフィリアナを抱きしめたまま、寝台の方へと移動し始める。
「フィー……。俺は今まで不名誉な二つ名で呼ばれていたショックで、心が折れてしまった……。だから今夜も今までのように寄り添って眠って俺を癒してくれ……」
「待て、アルス! お前、何どさくさに紛れて、ちゃっかりフィーと同じ寝台で寝ようとしているんだよ!! フィーもフィーだ! 拒めよ!!」
「だ、だって……。さっきアルスの辛過ぎる過去のお話を聞いてしまったから、つい……」
「お前、最近ちょっと流されやすいんじゃないか? 一緒に寝るなんて兄様は絶対に許さないからな!? アルスもいい加減にフィーから離れろ!! アルス、ハウス!!」
どさくさに紛れてフィリアナを寝台に誘導するアルスにロアルドが長椅子を指差しながら叫ぶ。すると、アルスが小さく舌打ちをしながら、渋々という様子でフィリアナから離れ、最初に指定された長椅子にゴロンと横になった。
「これでいいのだろう? 全く……ロアは、まるで口うるさい小姑のようだな」
「お前、それ母上に向かって言えるか?」
「母上殿は、口うるさくなどないぞ。先程も着替えの服を選んでくださったが、明日からどの服を着せるか楽しみだと言っていた。近々、デザイナーも呼んでくれるそうだ」
「母上……。完全に美少年を着せ替え人形にして遊ぶ気満々じゃないか……」
そうロアルドが愚痴っていると、いつの間にか寝台に入ってアルスの代わりにレイを撫で付けていたフィリアナが、今後についての不安をポツリとこぼす。
「明日から本格的に犯人探しをするのかな? 現状だとパルマン様とラッセル宰相閣下が怪しいんだよね?」
「そう……だな。つい先程、セルクレイス殿下が魔道具で伝令らしきものを飛ばしていたから、今夜中にアルスが人間に戻った事と容疑者が二人浮上した事については、リオレス陛下の耳には入るんじゃないか? その後、陛下がラッセル卿とパルマン殿が生まれる前後の母親の情報を集めるように指示を出されると思うから、早ければ明日にはお二人の各母君の基本情報が、こちらに入って来ると思うぞ?」
すると、ロアルドの予想を聞いたアルスが再びガバリと体を起こす。
「とりあえず、俺はパルマンが怪しいと思う!」
「お前、そればっかりだな……。余程、パルマン殿に恨みがあるのか?」
「あいつ、俺が城で暮らしている時、二属性魔法について調べたいとか言って、一日中俺の事を追い回していた時期があるのだぞ!? 恨みたくもなる!」
そう悪態をついたアルスは、プイッと長椅子の背もたれの方へ体を向け、ふて寝をし始める。そんなアルスの様子に二人が苦笑した。
「まぁ今回の件で、やっと容疑者も浮上して、しかも襲撃者を一人生捕りに出来たのだから、解決まで一気に進展するんじゃないか?」
「そうだね……。そうだといいなぁー……。」
いつの間にか寝息をたてているアルスに苦笑しつつも、フィリアナが早期解決を祈るように小さく呟いた。
しかし翌日、事態は思わぬ方向へと転がり始める。
なんと容疑者の一人であるパルマンが行方をくらましたのだ。




