37.我が家の番犬は拘束を振り切る
「わたくしにお願いしたい事……ですか?」
身構えながらフィリアナが問い返すと、オリヴィアは大きく頷いた。
「ええ。ですが、立ち話が出来るような内容ではないので、庭園内にお茶のご用意を致しました。さぁ、こちらへ、どうぞ」
有無も言わさないという様子のオリヴィアに更に庭園の奥へと促されたフィリアナが足を進めると、優しい木漏れ日が差し込んでいる四阿にティーセットの準備と給仕とメイドが一名ずつ控えていた。
恐らくオリヴィアは、本日フィリアナがアルスと共に公爵邸を訪れる情報を得た段階で、このように個人的に接触する事を計画していたのだろう。
「さぁ、フィリアナ様、どうぞお掛けになって」
席を促されたフィリアナはテーブルと椅子の間に滑り込むと、給仕が椅子をひいてくれたので、ゆっくりと腰をおろす。ふと見回せば、周囲に柔らかな日差しが絶妙な加減で庭園に優しい光を注ぐ何とも癒される空間が広がっており、フィリアナは一瞬だけ気を抜きそうになった。
だが、今からオリヴィアにアルフレイス関連で無茶な頼み事をされるかもしれない事を思い出し、必死で気を引き締める。
そんなフィリアナの様子を見抜いたのか、オリヴィアが苦笑した。
「フィリアナ様、そのように警戒なさらないで? 今からわたくしがお願いしたい事は、フィリアナ様にとっても悪いお話ではないと思いますので」
「ですが……アルフレイス殿下関連の内容なのですよね?」
「ええ」
そう返答したオリヴィアは、いつの間にか目の前に用意されていたティーカップを美しい所作で口に運ぶ。その動きに一瞬目を奪われたフィリアナだが、すぐに我に返って再度気を引き締め直す。
すると、オリヴィアがふぅと可愛らしい吐息を漏らし、おもむろに口を開いた。
「フィリアナ様は先程のわたくしの様子から、お気づきになられているかと思いますが……」
そこで一瞬、言葉を溜めたオリヴィアは、何かを決意したかの表情をしながらフィリアナの事を真っ直ぐに見据える。
「わたくしは、あなたのお兄様であるロアルド様の事をお慕いしております」
そのあまりにも衝撃的な告白をあっさりとされてしまったフィリアナは一瞬、思考が止まる。どうやらオリヴィアは、かなり思いきったところがある令嬢のようだ。意志の強そうな瞳から、はっきりした性格だと予想はしていたフィリアナだったが、意中の相手の妹にこうも堂々と「あなたのお兄様に好意を寄せています」と宣言が出来る令嬢は、なかなかいないだろう。
しかもその令嬢は、フィリアナよりも一つ年下の12歳の少女だ。
そんな年下の少女の堂々とした圧に早くもフィリアナは、呑み込まれそうになる。
「あの、大変不躾な事を伺ってしまうのですが……。もしやオリヴィア様は、その兄との関係醸成をわたくしに協力して欲しいという事でしょうか?」
「いいえ。その件につきましては、フィリアナ様のお力添えを頂くのではなく、わたくし自身でロアルド様に振り向いて頂くよう努力するつもりです!」
オリヴィアの決意を聞かされたフィリアナは、ますますその勢いに押し流されそうになる。同時に僅か12歳で、こんなにも情熱的に男性を想える事にも感心してしまった。しかもその相手は、普段のほほんとした雰囲気を持つあの兄である。妹であるフィリアナは、なかなか複雑な心境に陥ってしまう。
だが、何故この件がアルフレイスに関係しているのかが、全く分からない。
そもそも公爵家の権力を使えば、オリヴィアは簡単にロアルドと婚約が出来るはずなので、そこにアルフレイスの存在など関係ないはずなのだが……。
「あの、それではオリヴィア様がわたくしに頼みたい事というのは……」
すると、何故かオリヴィアが真剣な眼差しを向けながらスクッと立ち上がる。
「単刀直入に申し上げます……。フィリアナ様、どうかなるべく早急にアルフレイス殿下とご婚約を結んで頂けないでしょうか」
そのオリヴィアの要望を聞いたフィリアナが、驚きからポカンと口を開けてしまう。むしろそれは、フィリアナがオリヴィアに望んでいた事だったからだ。
「お願いです! 殿下は今年で14歳になられました。その為、周囲からは殿下が婚約者を得る事を望む声が高まっております。ですが、当の殿下はのらりくらりと躱しており、このままでは最有力婚約者候補として見られているわたくしに殿下の婚約者としての白羽の矢が立ってしまいます!」
両手をテーブルに突いて必死に訴えてくるオリヴィアの気迫に押されたフィリアナは、思合わず座っていた椅子の背もたれにしがみつく。
「そうなれば、わたくしは完全にロアルド様への想いを断ち切らねばなりません……。いくら将来的に臣籍に降下されるとはいえ、婚約が結ばれてしまえば、王族であるアルフレイス殿下に嫁ぐ事を視野に入れられるので、王家も早急に第二王子妃としての教育を婚約者となった令嬢に行いたいはずです。ですが……わたくしは政略結婚ではなく、恋愛結婚を望んでおります! でももし殿下の婚約者に選ばれてしまったら失恋どころか、一生その権利を失ってしまいます……」
そう訴えたオリヴィアは、項垂れながら再び席に着く。
「ですが、ここ最近は殿下の最有力婚約者候補としてフィリアナ様のお名前が囁かれるようになりました……。周囲の反応もそうですが、フィリアナ様ご自身も殿下に対して好意的な印象をお持ちだと、わたくしは感じたのです。ならば是非、殿下との婚約のお話を進めて頂けないでしょうか!」
「ええっ!?」
まさか自分がオリヴィアに頼もうとしていた事を逆に頼まれてしまうとは微塵も思っていなかったフィリアナは、あまりにも予想外の展開に焦り出す。
そもそも今の話では、もしフィリアナがアルフレイスの婚約者となってしまったら、すぐにでも王族向けの淑女教育が開始されるという事だ。しかもアルフレイスが公務として参加するイベントには、強制的にフィリアナも参加する事になる。
すなわち第二王子であるアルフレイスの婚約者になるという事は、自由な時間を奪われてしまうという事なのだ……。
もしフィリアナが、アルフレイスに好意を抱いていたのであれば、そのような状況でも受け入れられただろう。しかし、現状のフィリアナは、アルフレイスに対して全く恋心など抱いていない……。それどころか、過剰に自分に絡んでくるアルフレイスに困惑している状態なのだ。
その為、オリヴィアのこの要望は、フィリアナにとっては何のメリットもない。
だが目の前で瞳を潤ませながら己の恋心を貫く事に必死な美少女を前にすると、その願いを断る事は、非常に心が痛み始める。
だが、もしフィリアナがこのオリヴィアの願いを聞き入れても、オリヴィアの恋が成就するとは限らない。そもそも三つ年下の妹に散々振り回される事が多いロアルドが、更に四つ年下の少女を将来の伴侶と見る事が出来るかは微妙なところである。
その為、とりあえずこの返答は一端、保留にした方がいいとフィリアナは判断する。
「オリヴィア様……。その、大変申し訳ございませんが、今のお話に関しては、すぐに返答する事が難しい為、一度じっくり考えさせて頂きたいのですが……」
そのフィリアナの申し出に何故かオリヴィアが、驚くように瞳を大きく見開く。
「えっ……? で、ですが、フィリアナ様は殿下に対して、少なからず好意を抱いていらっしゃるのではないのですか?」
「ええと……確かにアルフレイス殿下は、ご公務に関しては優秀で、魔力も高く、見目麗しいお姿で、非の打ち所がないないほどの素晴らしい殿方だと思いますが……」
「思いますが?」
「その……わたくしは、あまり頭の回転が速くない為、殿下が得意とされている社交術に置いて行かれてしまう事が多々ございます。そのように未熟なわたくしが、殿下の婚約者として隣に並ぶなど大変おこがましいかと……」
「なるほど」
フィリアナのその言い分を聞いたオリヴィアは、何故か深く納得するような様子を見せた後、何かを悟ったように口元に笑みを浮かべた。
「ようするに……フィリアナ様は、殿下の大変いやらしい策士的な部分に問題を感じている為、好意を抱けない……という事でよろしいかしら?」
あまりにも図星を指されたフィリアナは、動揺からあからさまに固まってしまった。
そんなフィリアナの反応から、アルフレイスに対する気持ちを読み取ってしまったオリヴィアは、何故か楽しそうにフィリアナの顔を下から覗き込む。
「ふふっ! そのように焦らなくてもよろしいですわ! そもそもわたくしもフィリアナ様とは同意見です! 殿下のあの徹底した策士的なところは、流石のわたくしも引いてしまいますもの。そもそもわたくしの場合、兄も似たような人間なので、策略めいた行動を好まれる男性は、あまり好ましく感じられませんの!」
やや鼻息を荒めて訴えてきたオリヴィアにフィリアナがキョトンとする。
「えっ? クリストファー様も……ですか?」
「まぁ! フィリアナ様もお兄様のあの『天使の仮面』にすっかり騙されていらっしゃるのですか!? 兄は大変二面生のある人格をしております! 騙されてはなりませんよ!?」
そのオリヴィアの証言にフィリアナは、唖然としてしまう。
正直なところ、クリストファーに関してはアルフレイスのような策士的な部分など、一切感じなかったからだ。
フィリアナやロアルドに対しては常に穏やかで気遣いある接し方であり、アルスに噛まれた際も怒るどころか、アルスが心身ともに回復した事を喜び、妹のオリヴィアには少々厳しい部分もあるようだが、それでも優しい兄という印象が強かった。
とてもではないが、アルフレイスのように相手の足元を見ながら自身の要望を押し通すような策士的な部分は、少なくともフィリアナの目には留まらなかった。
だが妹であるオリヴィアがそう言うのであれば、それは本当なのだろう。
そもそもクリストファーは、あのアルフレイスの従兄でもある。
血縁関係であるのだから、性格的に似ている部分があってもおかしくはない。
最近は、王太子セルクレイスも腹黒い部分を見せる事があるので、王族の血が流れている人間は、策士的で腹黒くなければやっていけないのかもしれない。
遠い目をしたフィリアナがそんな事を考えていると、何故かオリヴィアが力強く兄ロアルドを推してきた。
「その点、ロアルド様は大変素晴らしい方だと思います! 殿下や兄と違い、交渉時は策略的な話術ではなく、正論で相手の方を納得させるように諭してしまわれるのだもの! その振る舞いにわたくしは、とても誠実な方なのだと感じておりますの! 何よりも社交場でのロアルド様は、常に妹であるフィリアナ様の事を気遣い、そのお優しい気質で多くの年下のご令嬢方の心を鷲掴みされていらっしゃいます!」
大興奮で兄を絶賛してくるオリヴィアの話からだと、どうやら兄は年下層の令嬢達に大人気らしい。そしてそうなってしまった経緯は、確実にフィリアナのせいである……。現状、まだその年齢層の令嬢達は幼い事もあって、あまり行動に出ていない様子だが、あと二年もすれば、確実に兄への婚約打診は殺到する事だろう。
その事を初めて知ったフィリアナは帰宅後、兄には早々に婚約者を決めるようにと助言した方がいいと決意を固める。すると、先程まで大興奮で兄を絶賛していたオリヴィアが、何故か急に困惑した表情を浮かべ始めた。
「ですが、困りましたわ……。わたくし、てっきりフィリアナ様は、アルフレイス殿下との婚約に前向きであると思い込んでおりましたので……」
「その……お力になれず申し訳ございません……」
フィリアナが不甲斐なさそうに謝罪すると、考え込むように片頬に手を添えてテーブルに視線を落としていたオリヴィアが、ふと何かを思い立ったように視線をあげる。
「あの……フィリアナ様は、殿下や兄のような策士的で腹黒い殿方は、あまりお好きではないのですよね?」
「クリストファー様はまだお会いして日が浅いので、よく分かりませんが……。少なくともアルフレイス殿下に関しては、あの策士的な部分が少々苦手ではあります」
「では逆に……思った事をすぐに口に出し、少々デリカシーに欠けている部分はありますが、自分に正直で裏表のない性格のグイグイ引っ張ってくれるような殿方は、どうでしょうか?」
「はい?」
「そういう殿方は、あまりお好きではない?」
急に実在しているかのようなタイプを例えであげられ、好みの男性像を確認されたフィリアナが戸惑い出す。
「どうでしょうか……。今まで周囲にそのような男性がいなかったもので、何とも……」
「そう、ですか……」
何故か残念そうに呟くオリヴィアの様子にフィリアナが首を傾げる。
今の話の流れでは、オリヴィアがフォリアナにそういう男性を紹介しようとしているような雰囲気だったからだ。だが、その状況はフィリアナがアルフレイスを回避出来るだけで、オリヴィアにとっては何のメリットもない。
そもそも……グイグイと引っ張ってくれる男性については、ぼんやりとしたイメージしか湧かなかった。何故ならフィリアナの周りにいる男性の殆どが、面倒見のよい穏やかな雰囲気をまとった人物ばかりだったからだ。
フィリアナにとって一番身近な存在である兄ロアルドは、口では手厳しい事を言う事は多いが、フィリアナが激しく打ちのめされている時は、すぐに過保護になる。
策士的な面が強いアルフレイスも基本的には、柔らかい口調なのでグイグイと引っ張るタイプではない。その兄である王太子セルクレイスなど、更に輪をかけたような正統派王子であり、フィリアナの事は初めて顔を合わせた頃から、妹のように可愛がってくれている。
同じく父やその元部下のシークは、昔からフィリアナの事を猫可愛がりしており、ラテール伯爵家に仕えている男性騎士や魔導士達もフィリアナだけでなく、兄ロアルドに対しても過保護だ。
まだ知り合ってから日が浅いクリストファーに関しては、王子二名以上に穏やかな雰囲気なので、確実にグイグイ引っ張ってくれるタイプではない。
唯一、フィリアナの中で人を引っ張るタイプで思い当たったのは、国王であるリオレスだが……。こちらもフィリアナに対しては甘く、登城した際に顔を会わせると、高級な焼き菓子などをお土産に持たせてくれるほどだ。
ようするに今までフィリアナの身近にいた男性の殆どが、穏やかな雰囲気をまとっているか、フィリアナに対して過保護で甘いタイプばかりだったのだ……。その為、『グイグイと引っ張ってくれる頼り甲斐がある男性像』というのが、フィリアナには具体的に想像出来なかった。
そもそも何故オリヴィアは、そのような男性をフィリアナに勧めようとしているのかが謎である。仮にその男性がフィリアナの好みだったとしてもオリヴィアが、第二王子にとっての最有力婚約者候補という状況は変わらない。
もしロアルドとの婚約が上手く成立した際、行き遅れのフィリアナが邪魔だと考えての対策だとしても、決行するにはまだ早すぎる。
その事が気になり、オリヴィアに確認しようとフィリアナが口を開きかける。
しかし、その絶妙なタイミングで近くの植木から何かが勢いよく飛び出して来た。
「きゃあ!!」
その突然の状況にオリヴィアが悲鳴を上げる。一方フィリアナは、その飛び出してきた存在を反射的に両手で受け止めた。すると、それはドカリと椅子に座っているフィリアナの両膝に圧し掛かり、切ない声で鳴き始める。
「クーン! クーン! クーン!」
「アルスッ!? えっ……? も、もしかして兄様達のところから逃げ出してきちゃったの!?」
「クーン……」
やや咎めるような口調でフィリアナが問いただすと、アルスは鼻をピスピス鳴らしながら、フィリアナの膝に顔を擦りつけてきた。
すると、遠くの方からアルスの名を呼ぶ兄の声が聞こえる。
「アルスゥゥゥゥー!! お前、いい加減にしろぉぉぉぉー!! 今、お前の今後の安全面についての大事な話し合いをしていたんだぞ!?」
そのロアルドの声を耳にしたオリヴィアが苦笑を浮かべる。
「どうやら今日のお茶会は、その駄犬の所為でここまでのようですわね……」
「えっ……? あ、あの、まだ伺いたい事が――――」
フィリアナがそう言いかけた時、今度はアルスが飛び出してきた植木から兄ロアルドが勢いよく顔を出す。
「やっぱり、ここかっ!! アルス!! お前、最近フィーにベッタリしすぎだぞ!? 少しは空気を読めよ!!」
「バウッ、バウッバウッバウッ!!」
「申し訳ございません、オリヴィア様……。少し目を離した隙にあっという間にアルスが庭の方へと駆け出してしまって……」
「お気になさらないでください。この駄犬が口で言っても聞く耳を持っていない事は、重々承知しておりますので」
「ウゥー……バウッ!! バウッバウッ!!」
「あら? 何か言いたい事でもおありなのかしら? 駄犬さん?」
「バウッバウッバウッバウッバウッ!!」
「こらっ!! アルス、暴れるなぁぁぁー!!」
結局、この話は突如乱入してきたアルスのせいで先程のオリヴィアの話の意図が確認出来ないまま、終わりを迎えてしまった。
しかしこの後、フィリアナは帰りの馬車内でアルスの安全面が、それどころではない状況である事を兄から突き付けられてしまう。
その事を痛感したフィリアナは、この日からますますアルスにベッタリとなり、常にアルスが傍にいないと不安を感じるようになってしまった……。




