07 最初のフラグ
――王立学園の中庭の隅にあるバラ園。憩いの場としても、イベントの場としても、よく使われる場所。
今日は入学式ということもあってか静かだった。
(クリストファーとの最初の会話イベントはここで発生するはずだけれど……お兄様は本当にいらっしゃるかしら)
不安になりつつ、新緑が眩しいバラの生け垣の間を歩く。バラはつぼみが付き始めていて、もう半月もすれば美しいバラが咲き誇るだろう。
その生垣の間から、誰かが見えた。
(いた……)
銀髪の、背が高い男子生徒が、物思いにふけるようにバラ園の中に佇んでいた。
そちらの方へ、ゆっくりと近づく。
「お兄様」
声をかけると、驚いた様子もなく振り返る。
「ロザリーか、どうした」
「いえ、校内を散策していたらお兄様の姿が見えて……何をしていらしたのか気になって」
入学式の日、バラ園でのフリー会話イベントでの、クリストファーとの会話。ここが第一フラグだ。
ここで会話しておかないと、この後いくらクリストファーを追いかけても一切個別イベントが進まない。
今後の闇落ちフラグを折っていくためにも、ここでの会話を忘れてはいけない。
クリストファーエンディングに行くつもりはないが、やれることはやっておく。あとで取り返しがつかなくならないように。
(もしかしたらアリーシャがいないかなと思ったけれど……誰もいないわね。アリーシャはどこで何をやっているのよぉぉ)
とりあえず話をするために近づこうとしたとき――
「俺の言ったことを覚えているか?」
警告される。
もちろん覚えている。
(――兄とは思うな。兄妹として振る舞うなってことですよね……わかっています、が!)
更に近づく。
ここで引く選択肢なんてロザリンドにはない。
「お聞きしたいことがあるのです」
言うと、クリストファーは面白がるように薄く笑った。
「なんだ」
「お兄様なら、今年の新入生のことはだいたい知っていらっしゃいますわよね? アリーシャ・エイドリアンさんってご存じですか?」
クリストファーは一瞬驚いたような顔をする。
「聖女殿のことか? もちろん知っている。新入生ではないが」
その言葉を聞き、アリーシャがこの世界に存在することに安堵する。アリーシャが存在するのなら、ロザリンドがアリーシャの代理をすることはない。
だが同時に聞き逃せない言葉も聞こえた。
(――聖女? それに、新入生じゃない?)
頭を殴られたような衝撃が走る。
「せ……聖女――様? ですか?」
「まだ正式発表はされていないが、近々神殿の方から発表されるだろう」
「学園にも……入学されない?」
「聖女の役目に集中するため、そしてエドワード殿下と結婚準備で、学園には入学しないそうだ」
また、頭を殴られたような衝撃が走る。
――エドワード・グレイヴィル。入学式の前にあった第二王子。
ゲームでの最初の仲間で、正統派の物理アタッカー。強い正義感を持ち、どんなに困難な状況でも決して諦めない心の持ち主。完全無欠のヒーロー。
男主人公との友情エンディングも、女主人公との恋愛エンディングももちろんある。婚約し、将来を誓い合うエンディングがあるにはある。だからアリーシャと結ばれてもまったくおかしくないのだが――
(どうなってるの????)
エドワードの女主人公恋愛エンディングは、女主人公が王子と婚約する、というもの。
まだゲームスタート時点だ。どうして既にエンディングにまで到達しているのか。
(しかも聖女って? 確かに、ゲーム終盤に聖女認定されるイベントはあるけど)
ロザリンドの想定していなかった事実が起こっている。
あまりにも予想外で、いまにも失神しそうになる。
(あ、いや、まだ……一縷の望みが……)
ロザリンドは細い希望を抱いてクリストファーを見上げた。
「お兄様は、もしかして……アリーシャ――……いえ、聖女様のことを好きだったりとか――」
「するわけがない」
はっきりと言い切られる。しかも怒っている。
「で、ですわよね……失礼しました……」
聖女であり、王族の婚約者に横恋慕なんて、していたとしても認めるはずがない。そんな疑惑を投げかけられれば怒って否定するのも当然だ。
(まさか、ゲーム開始前にエドワードとのエンディングに到達しているなんて……現実がゲームのようにいかないとはわかっていたけれど……これはさすがに予想外よ……)
――ということは、このままではクリストファーはラスボス化が確定してしまうのだろうか。
ロザリンドはクリストファーを見上げた。
彼はここにいる。まだ闇落ちなんてしていない。なのに未来が決まってしまっているなんて、そんな理不尽、あっていいはずがない。
(焼死エンドは絶対嫌!)
このままではロザリンドも父も母も、火事に巻き込まれて死ぬ。クリストファーに殺される。
――そんなのは、絶対に嫌だ。
「ロザリー……?」
「――おーい、ロザリンドさーん」
遠くから呼ぶ声が聞こえて、ロザリンドはびくりと肩を震わせた。
振り返ると、生垣の合間からジュリアンの姿が見えた。
話を途中で切り上げたロザリンドを探しに来たのだろうか。
「もう学友ができたのか」
「あ、はい……」
まだ友人と呼べる仲の良さかはわからないが。
「……お前なら、それも当然か」
クリストファーがどこか寂しげに呟いたかと思うと、ロザリンドの手を取り奥へ連れていく。
そして、バラの生け垣の中にできている空洞の中に押し込まれる。
「動くな。棘で怪我をする」
あまりの暴君ぶりに抗議の声を上げようとすると、低く囁かれる。
「お兄様……?」
「見られてもいいのか? 俺は構わないが」
息を呑みこむ。
学友にこんなところを見られたら、どう思われるか。
クリストファーとロザリンドが婚約しているのは周知の事実だ。
恋人たちが二人きりの時間とスリルを楽しんでいると思われかねない。学園内でそんなことをしているなんて、軽蔑されかねない。
息を殺してじっと身を潜めていると、ジュリアンが諦めて去っていく気配がした。
ロザリンドは目の前のクリストファーを恨みがましげに見つめる。
――婚約解消間近のこんなときに、どうしてこんないじわるをするのか。
怒りすら覚えてきたロザリンドの目の前に、ハンカチーフが差し出された。
「お前のそんな顔は、誰にも見せたくない」
――どんなひどい顔をしていたのか。
ロザリンドはハンカチーフを受け取り、目許を拭いた。
ハンカチーフからは落ち着く香りがして、そしてあたたかかった。
(お兄様は……やっぱり優しい)
胸が苦しくなるくらい優しい。
(そうよ……私が諦めてはいけないわ。こっちは命がかかっているんだから! アリーシャとエドワード殿下も、まだ婚約段階なら解消だってできるはず!)
自分とクリストファーの婚約のように。
なんとかクリストファーとアリーシャを引き合わせて――……
「何を考えている?」
「お兄様のことです」
潜めた声で問われ、潜めた声で返す。
クリストファーはわずかに息を呑み、そして苦笑した。
「お前は昔から、わかりやすいようでわかりにくい」
戸惑っているような――だが、それすらも楽しんでいるように呟き。
ロザリンドの髪を一房手に取り、そっと口づけをした。
親愛の証のような、騎士の誓いのような、縋るような。
(こんなお兄様……知らない……)
目の前にいるのが一瞬誰なのかわからなくなる。
「――よく見ろ、ロザリー。お前が親愛していたのは、善き兄の虚像だ」
髪を手にしたまま、青い瞳でロザリンドをまっすぐに見つめる。
「ここにいるのが誰なのか、よく考えておいた方がいい」
言って、手を離す。
――クリストファー・ロードリック。
いま目の前にいる彼は、優しく完璧な義兄とも、ゲームのキャラクターとも、違う表情をしていた。