01 婚約解消してください、お兄様
「お兄様、私との婚約を解消してください」
王立学園入学を直前に控えた日の夜、ロザリンド――ロードリック公爵の娘は、血の繋がらない兄――クリストファー・ロードリックにそう告げた。
ロザリンドの部屋の中には二人きりだ。
大切な話があるからとクリストファーを呼び出して、厳重に人払いをしたうえで、そう切り出した。
ロザリンドはクリストファーを見つめる。美しい銀色の髪に、深い青色の瞳。すらりとしているが筋肉質で均整の取れた身体。気品のある佇まい。
いつも余裕のある義兄が、言葉を失っていた。
婚約解消を持ちかけられるなど、夢にも思っていなかったような表情だ。
だが、ロザリンドは快諾されると信じて疑っていなかった。
自分との婚約は、義兄クリストファーにとって、とても不本意なものだっただろうから。
――きっと、婚約解消できて喜ぶだろう。
そう、思っていた。だから。
「断る」
怒りの滲んだ声で、はっきりとそう言われたときは驚いた。
あまりにも予想外で、今度はロザリンドが言葉を失い、立ち尽くす。
そしてすぐ思い直す。
(……ああ、お兄様も混乱しているのね)
当然だろう。最初に義兄と結婚したいと言い出したのは、ロザリンドの方からだ。
もう十年も前のことだ。六歳のロザリンドは、八歳のクリストファーと結婚したいと泣きわめいた。
子どもの戯言は、瞬く間に真実になって、後妻の娘ロザリンドは、分家から次期当主にするために連れてこられた養子クリストファーと結婚することが決まった。
次期当主になる養子と、血の繋がった実子。二人が結婚するのには、何の障害もなかった。
なのに、いきなり婚約を解消してほしいと言われれば、義兄も混乱するだろう――そう、ロザリンドは深く納得した。
だが、この婚約は解消しなければならない。
ロザリンドは強い意志を持ってクリストファーと対峙する。
「――ロザリー、俺はこの家に貰われてから、次期公爵に相応しい人間になるように努力し続けてきた」
「はい」
「公爵の実子であるお前と結婚すれば、家にとっても何も問題なくなる。なのに何故いまさら、そんなことを言い出す」
ロザリンドは悠然と微笑んだ。
「簡単なことです。私は、政略結婚ではなく愛する方と結婚したいのです。お兄様だって、既にロードリック家の血を引く正式な後継者です。誰もが、お兄様こそが次期公爵に相応しいと思っています」
――実子であるロザリンドが婿を取って継ぐよりも、養子のクリストファーに任せたいと、誰もが思っているだろう。
それだけクリストファーは完璧だ。
「お兄様の将来は盤石。ですから、結婚相手は私でなくともいいはずです。私はこの家を出て愛する方と結婚しますから、お気になさらず」
血縁関係を強化しなくても、クリストファーは既に充分の資格を得ている。
まったくロードリック家の血を継いでいないなら問題があるが、クリストファーは分家出身だ。血は多少薄いかもしれないが、資格は充分にある。
もし、ロザリンドが別の恋人を連れてきたとしても、ロザリンドが公爵位を継いでクリストファーを追い出すという流れにはならないだろう。
昔そうしようと企んでいたロザリンドの実母――公爵夫人も、いまさらそうしようとはしない。
ロザリンドの恋人がそれなりの貴族なら、ロザリンドをあっさりとそちらに嫁がせて、自分は公爵夫人として、夫が死んだら次期公爵のクリストファーに頼っていくだろう。
きっとその方が、いい暮らしができる。
――クリストファーは完璧な貴公子だ。既に、父にも、貴族たちにも、そして王家にも、その才能と人格を認められている。
もう、ロザリンドは必要ない。この家にも、クリストファーの輝かしい未来にも。
クリストファーは、不要な婚約などすぐにでも解消してしまって、本当に愛する相手と結ばれて幸せに過ごした方がいい。
――ロザリンドは本気でそう思っていた。だから。
「よくない」
クリストファーが頑なに言い切ったときは、本気で驚いた。
「お兄様……?」
「お前は本気で言っているのか」
「もちろん、本気です」
「ならば、まずはその愛する相手とやらを連れてこい。お前に相応しい相手かどうかを見極めてやろう」
「そ、それは……」
ロザリンドは口ごもった。
――そんな相手はいない。
クリストファーもそれがわかっているはずだ。わかっていて、こんなことを言ってくるのだ。
(いるわけないじゃない。だって……)
ロザリンドとクリストファーは、十年前からの正式な婚約者である。
滅多に参加しないパーティーでも、常にクリストファーにエスコートされ、年の近い男性とダンスをしたこともない。他の男性とふたりっきりで話したことすらない。
ロザリンドの傍には常に義兄がいた。
そんなロザリンドに、結婚を誓うような恋人などできるはずもなく。
むしろ、年頃の男性たちには避けられている気すらする。
だがそれは、自分に魅力がないからではない。
(ロザリンドはモブ令嬢だけれど、この世界では美少女だもの! あのお母様の娘で、公爵令嬢なのだから、モテないはずがないのよ。私がモテないのは――お兄様がずっと傍にいたから!)
責任転嫁だとはわかっていたが。
ロザリンドはまっすぐにクリストファーを見つめた。
「恋人は、これから探すのです!」
「話にならない」
宣言は、ばっさりと切って捨てられる。
「お前に、俺以上に相応しい結婚相手はいない」
「いえ、むしろ、私が力不足なのですが……」
クリストファーは美形だ。
美形な上に、次期公爵で、剣術も魔力の才能も規格外。
戦いの男神も美の女神も、彼には嫉妬するほどと言われているぐらいだ。
それもそのはず。
(お兄様は『エターナル・リンクス』のラスボスになる人だものね……)
――ロザリンドの持っている記憶では、クリストファー・ロードリックは主人公選択式SRPG『エターナル・リンクス』(通称エタリン)のラスボス――つまりこの世界の敵になる予定の人物だ。
主人公たちの最後に立ち塞がる敵――当然、この世界で一番強く、設定も盛りに盛られている。
(覚醒するのは一年後だけれど……)
ゲームのスタートは、主人公が王立学園に入学する年。そのときクリストファーは王立学園三年生。その年に、クリストファーはラスボスへの道を歩み始める。
――その一年後までに、最後の決戦までに、ロザリンドにはどうしてもやらなければならないことがある。
自分のために。そして義兄のために。
だからこの婚約は絶対に解消しなければならない。
なのに、ここまで話がうまく進まないとは思わなかった。
(どうしてかしら……お兄様は私との婚約は不本意のはずなのに。そもそもゲーム本編では婚約もしていなかったし。ロザリンドのことも大嫌いで、憎んでいたはずだし)
ゲームの設定と、現実が乖離しすぎている。
膠着状態が続く中で、クリストファーのため息が部屋に響いた。
「……一年だ」
「はい?」
「一年後、俺が学園を卒業するまでに、恋人を見つけてみろ」
まさかの、譲歩。
青い瞳がまっすぐにロザリンドを見据える。
「見つからなかったら、卒業パーティはお前をパートナーにする。そして、お前が学園を卒業したら、予定通りに結婚だ」
「受けて立ちますわ」
ロザリンドは前のめりに承諾した。
「お兄様も、私以外に結婚したい相手が見つかったら、遠慮なく婚約解消してその方をエスコートしてくださいね」
満面の笑みを浮かべるロザリンドに、氷のような冷たい視線が突き刺さる。
「ロザリー」
声は低く、冷たく。心臓が直接つかまれたように、きゅっ、とした。
(え? 怒ってる……?)
部屋の温度が物凄い勢いで下がっていっているような錯覚を覚える。
まさか魔法が発動しているのか。それとも未来のラスボスは、感情だけで周囲の温度を操作できるのか。
「これからは俺のことを兄とは思うな。兄妹と思うな」
「あの、お兄様……?」
「俺は、ずっと前から、お前を義妹としては見ていない。ほとんど血も繋がっておらず、昔から結婚する相手と思っていた相手だ。どうしてただの義妹と思える」
心臓が、きゅっとする。
――ゲーム内のように憎まれてはいないようだが、いままでずっと仲の良い兄妹のように過ごしてきたのに、まさか兄妹と思われていなかったなんて。
(お兄様にとっては邪魔者だものね。悲しいけれど、仕方ないわ)
ロザリンドが生まれなければ、クリストファーは何の問題もなく幸せに育ったはずで。
邪魔者がいたから、彼は受ける必要のなかった痛みを受けることになった。
「この一年、覚悟をしておけ」
クリストファーはそう言って、ロザリンドの部屋から出ていく。
ひとりになったロザリンドは、へなへなとベッドに座り込んだ。
「こ、怖かった……」
下がっていた部屋の気温が、少しずつ戻り始める。
ロザリンドはぶるりと震えた。
(あんなに怖いお兄様は初めて見たかも……いいえ、怯んでいる場合じゃないわよロザリンド! そう、すべてはお兄様と私の幸せのために!)
ぐっと握った拳を天井に突き出す。
すべては、これから始まるのだ。