前編
「…………婚約解消?」
「いや、王家の失態だ。取り決めが違うとこちらから破棄にした。すまない『マーガレット』」
いつもより早くご帰宅したお父様から王子が浮気したことをリビングルームで知らされ思わず聞いてしまったが、まさか私の婚約を破棄にしたなんてよっぽどのことだ。
先週、婚約者である『バージル』王子とお茶をした時はいつもと変わらぬ様子で共に過ごしていたので、まるで実感が湧かない話に私の理解は追いつかない。
相当話が拗れており、埒が開かないと「婚約を破棄する」と宣言して、お父様は話の途中で帰って来たらしい。
一緒に王宮に仕事に行っていたお兄様はどうしたのかと思ったら、現在私の掌に刻まれている『魔術契約紋』をどうにかするために手配していると。
今は手袋で隠れている、王家と公爵家となった我が家を縛る取り決めの『魔術契約紋』。
元々王族の血筋が色濃いお父様がいる我が家が、大公家から家臣に下る公爵家になるために取り決めた次代の結婚。
争いの火種になるからと自身の王位継承権の順位を下げるために身を引いて、代わりに私を次の王妃にするとの約束を反故にされたお父様は控えめに言って物凄いお怒りのご様子だ。
普段は温厚な分、怒らせたら怖い。
隣で一緒に話を聞いていたお母様が震えた声でお父様に質問した。これからどうなるのかと。
「領地に引っ込む。その後は金輪際王宮には出向かない」
「でも、マーガレットの結婚はどうなるのです。お相手を愛妾には出来ないのですか?」
お父様が苦虫を噛み潰したような顔で低く唸りながら、絞り出すようにして王子の浮気相手を口にした。
大公家の娘である『ローズ』。
王子と……私も従姉にあたる。愛妾なんてとんでもない。相手の方が家格が上どころか、王族で第二の王家と言ってもいい存在だ。
お母様は名前を聞いた瞬間、崩れ落ちてしまわれた。
「お、お母様!? 大丈夫ですか?」
「ちょっと眩暈が……」
「後はこちらで手配するから、部屋でゆっくり休みなさい。風邪を引いて病み上がりでこんな話をしてすまなかった。マーガレット、続きは『エドワード』が帰って来てからだ」
「はい、畏まりました。お母様お大事になさってください」
青白い顔をしたお母様の肩を抱きながらエスコートして、私に声をかけたお父様を見送ってポツンとリビングに取り残された私。
手をつけていなかった紅茶を侍女に入れ直して貰って、ゆっくりと飲み込んだ。
胃に染み渡る温かさとは逆に私の心は冷えて行く。
先月誕生日を迎えた私は18歳。
再来年に予定している結婚式をどんなものにしようかと、バージル様を含めて王家の皆様と公爵家の内輪な夕食会で話していた。現実的な話が出て、このまま結婚すると思っていた矢先にまさかこんなことになるなるんて。
あのバージル王子が浮気をするなんてとても信じられないが、お父様の怒り様を見ると多分事実なのだろう。
悲しみから涙がポロポロと出てくるも、拭う気力もなくてそのままにしていると、ドアのノックの音と共にお兄様が入室してもいいかと声がかかる。
私が頷くと代わりに侍女が返事をしてくれた。
俯むいていると、足早に近づいて来る絨毯を敷いた床にも関わらず、踏み鳴らされた足音。
お兄様に抱きしめられたとわかった私はそのまま淑女の何もかもを忘れて縋りついて大泣きした。
暫くして身体を離すと、お兄様に濡れたタオルで顔を拭われる。
「お兄様手袋が濡れてしまわれます。侍女に任せますから……」
「構うものか。真っ赤な目元を引っ込めてから言いなさい」
聞く耳を持たないお兄様の好きなようにさせていると控えめな低い咳払いが聞こえ、タオルで視界を塞がれた私はピシリと身を強張らせた。
まずい。どなたか兄以外の殿方いたようで、羞恥心から顔に熱が上るのがわかった。
「大丈夫、アレは紳士だから後ろを向いているよ。マーガレット、こんな状況ですまないがこのまま契約紋を私に移す施術を受けて欲しい。早急に済ませないと、王家と大公家の横槍が入った時に不利な状況になる」
「お兄様に、移すの……ですか?」
婚姻の魔術契約紋だと思ったが、そんなこと出来るのだろうか? 私は魔術系の術式に詳しくないのでわからなかいが、お父様が謀反を起こさないようにする抑止力でもあるので、お兄様が替わりになると。
要は私を次の王妃にと約束とすると共に人質の役割も担っていたとか。そんな話私は知らなかった。
公爵家の跡取りであるお兄様にこの魔術契約紋が移ったら、確かに私より人質の価値は上がると思う。
でも…………。
「バージル様と結婚するのは、どう頑張っても、もう無理なんですね……うぅっ……」
「すまないマーガレット。諦めてくれ」
バージル王子はもう従姉と一線を越えてしまったと説明を受けて、酷い裏切りにショックを隠しきれない。
魔術契約紋があるのだ。他者と交わるなんて、意図して解除しなければ出来ない。
啜り泣きの最中。左手の手袋を外され、私の中で何かが抜けて行く感覚を感じ取りながら、愛していたバージル様との繋がりが途切れたと知る。そのまま私は意識を手放した。
目が覚めたら自室のベッドの上。
ベッドから抜け出して、薄暗い部屋の窓辺に近づき月明かりの下で確認した左手には黒い蔦が絡まるような魔術契約紋の代わりに、花が咲くような赤い綺麗な術式があった。
ふらつきながらベッドの中に戻って、部屋が明るくなるまでその日は寝付けず、涙を拭う気力もなくした頃に眠りについた。
日がだいぶ前高くなってからベルを鳴らして、枯れた声で侍女にお風呂の支度をお願いするとその前に医者を呼ばれる羽目に。確かに自覚したら喉がかなり痛い。
診察は心労と風邪。安静を心がけお風呂は湯上がりに身体を冷やさないようにと注意を受けて、お薬を処方された。このお薬苦いから、あまり好きではないのよね。
お風呂の前に食事を取るも、喉の痛みとそもそも食欲が全くと言っていいくらいないので匙が進まない。パンの粥と果物を少し食べた程度ですませて、お薬を飲むと幾らか喉の痛みはマシになった。
入浴をすませてベッドに横になる。考えるのはバージル様との結婚がなくなった悲しみで枕を濡らすばかり。結婚どころか、もう会うことすら叶わないだろう。
上がって来た熱にうなされながらまたひと晩過ごし、さらに数日微熱が続き、たまにお見舞いに来るお母様に心配をかける羽目に。
熱が引いても起きて来ない私に、とうとうお母様と一緒にお兄様とお父様までお見舞いに来た。
「態々ごめんなさい……」
「構うものか。こんなにやつれて」
「マーガレット。父が不甲斐ないばっかりに……。すまない」
お兄様の顔を見たら胸が締め付けられた。
気になってしまう。私の替わりに魔術契約紋が刻まれたであろう手袋に隠された掌に。
どうしようもない思いを向ける私自身が惨めで、また涙を流しているとハッとしたお兄様に腕を取られる。
「何だコレは?」
「……え?」
赤い花が咲いている掌。魔術契約紋をなぞりながら、お兄様が眉根を寄せてコレはどうしたと詰め寄って来た。ちょっと怖い。
お兄様に魔術契約紋を移した日の晩にあったと言うとお父様も私の掌を確認してから、2人は部屋の隅に移動して話し始めた。
「お母様……」
「大丈夫。大丈夫よ」
お母様に抱きしめられながら不安に思っていると、どうやら2人の話は終わったらしく、お父様はそのまま部屋を出て行きお兄様がコチラに近寄って来た。
「マーガレット。私の友人を紹介するから会ってくれないか?」
「お、お兄様のご友人ですか?」
この流れで何故お兄様のお友達を紹介されるのかわからずに、ビックリして涙が引っ込む。
それにしても、お兄様のご友人って誰だろう? 紹介したいってことは私が会ったことのない人かも知れない。
「魔術師なんだがいい奴だしオススメだぞ。マーガレットの契約紋を見て貰おうと思ってね」
「コレはそんなに悪いものですか? こんな状態でお会いするのはとても……えっと……」
恥ずかしいと小さな声で言うと、最初はお兄様も同席すると笑顔でゴリ押しされてしまい、今月中に顔合わせをすると宣言されてしまった。今月って、もう半ば過ぎてますけど。
眼鏡が似合うお兄様は怒っている時に爽やかな笑顔を浮かべるのだが、今回かなりいい笑顔だった。ここは素直に従うに限る。
お兄様のご友人は男性らしく、ベッド上で会うのは何とか避けたいと気力を振り絞り、体調回復に専念。
2日後の昼間に会う約束を取り付けたとお兄様から言われた時は食堂室で晩餐が食べられるまでになっていた。
しかし、食欲は前ほどは戻らない。私だけ違う食事を目の前に並べられたけれど、家族は何も言わないのがありがたい。
クタクタに煮込まれた野菜スープを口に運んでいると、お父様が今後の我がハワード家の予定を説明してくださった。
「仕事の引き継ぎをすませたら、領地に戻ろうと思う。夜会に食事会などは全て欠席だ」
「まぁ、こんな状態で我が家が何かの大規模な催し物にでも出たらいらぬ誤解を生みますからね。父上の能力がなまじいいからこんなことになるんですよ。最初から私に契約紋を施せばよかったものを」
「まだ言うか。まさか、あそこまで馬鹿な異母弟達だと思うまい……。もう、いっそ独立したいな」
この状態で冗談でもそんなこと言ったら洒落にならないと言いながら、お兄様は具体的にどうするか話を詰めて行くあたり親子だと思う。
お母様はお友達に領地に行くお知らせのためにお茶会出席と並行して手紙をしたため始めたらしく、私も何人かの友人に手紙を書く準備をしようと思っていたが、当事者の私が書くのはやめておいた方がいいとのことでお母様に甘えて手紙の方はお願いした。
確かに、従姉に婚約者を寝取られたので一家揃って領地に引っ込みますを柔らかい表現で書くのは困ってしまう。なまじ権力者の醜聞に近いので、相手も返事に困るだろう。
今後同じような内容を書く事はないとは思うが、念のためお母様が書いた手紙は勉強のために見てせいただく約束をした。
私の方はほとぼりが冷めたら領地から直接の手紙を出そう決める。今は下手すると恨みつらみに悲しみと愚痴が飛び出てしまいそうで、まともに書けそうもない。
ため息をついてからホロホロと崩れるようなメインの白身魚のソテーを食べているが、中々進まなくなって来た。
皿に盛られた分の最後のひと口を何とか咀嚼して飲み物と一緒に胃に流し込む。
男性2人が物騒なお話をしている中で、お母様と一緒にお兄様のご友人のもてなし方について話していると晩餐の時間は過ぎて行った。
お風呂に入り、就寝準備。
侍女が退出したところで私は窓辺に歩みを進める。
掌のこの美しい花を時折り眺めるのが最近の日課になっていた。
最初は真っ赤に近い赤色だったが、徐々に薄れて行く変化を楽しむと共にバージル様に傷つけられた心を癒す時間でもある。
また昨日より薄くなったピンクの花をなぞりながら、コレは果たして何なのだろうかと疑問に思う。
幾何学的な文字の羅列を花のように模した魔術契約紋。
普通は黒色や青系統だと家庭教師から習ったことがあるが、細かな魔術式の内容までは魔術を専門に扱う家や貴族でも男性陣しか習わないだろう。
お兄様にコレが何なのか聞いてみたけど、確かなコトは言えないから友人に説明は任せるの一点張りだった。
2日後になればわかると疑問を飲み込んで、今はただただ綺麗なピンク色の花を愛でることに勤しみ、月が分厚い雲に隠れたところで私は寝ることにした。
お兄様のご友人の到着を自室で知らされて、身だしなみのチェックをする。
あまりかしこまった席ではないとのことで、私の瞳の色と一緒の青色のシフォンドレス。
編み込みを入れた金髪はバレッタで半分止めて、残りの腰まであるストレートの髪は流すようしてもらった。
真珠で揃えたアクセサリーと、最後にレースの手袋をつけて部屋を出る。
1階に降りると応接室にいるとのことで、そちらに顔を出すと思いがけない人物がいらっしゃったので一瞬固まってしまった。
目の覚めるような紅髪と瞳の美丈夫。肩で切り揃えられた髪に、王宮魔術師団長を示すローブとブローチを見なくても分かる。
多くの魔術師を輩出する名門ボールドウィン公爵家の嫡男『ギルバート』様だ。
何とか淑女の礼をとって頭を下げてご挨拶を待つ。
お声がかからないので、どうしたのか覗き見たら片手で頭を抱えたギルバート様のお姿が見えた。
「…… 」
「?」
「貴女に……妹君と会うなんて聞いていない」
「言ったら来ないと思って知らせませんでした」
お兄様それ酷くないですか? もしかしたらお兄様と水入らずでゆっくりお茶どころかお酒を嗜む予定日だったのかも知れない。よし、部屋に戻ろう。
大変失礼致しましたと言って踵を返そうとしたら流石にギルバート様に止められた。
挨拶やり直しである。何でも半休を取って王宮から直接来たので仕事着で申し訳ないと言われた。
こちらこそ兄が大変失礼なことをして申し訳ありませんでしたと謝罪すると、慣れているから大丈夫だと返されてしまった。
お兄様は一体普段どんなことをこの方にしているのかと、淑女の微笑みを浮かべながら再度いつも兄がすみませんとお返事しつつも内心冷や汗を流す。
お茶の用意が出来たとのことで、場所を移して中庭に。お兄様にエスコートされて差し出された腕に若干力を込めて握る。ツネりたいこの腕を。
大きな日除けが準備された中庭で午後のティータイムを楽しむ筈が、出だしの衝撃で全て持って行かれた。
ただ、兄に振り回された当人同士通じ合うところがあったのか、思いの外お話は弾む。
本題の掌の魔術契約紋について聞いてみると、ギルバート様は私から視線を外して口元に手を当てながら歯切れの悪い感じで説明を始めた。
「…………いや。あまりにも君が泣いていたから。少しは慰みになればいいと……すまない勝手に」
「マーガレットの契約紋を私に移したのはギルバートなんだよ」
「っ!?!!!?!」
あの大泣きした日に居合わせた相手だったのかと、羞恥の悲鳴をどうにか飲み込んで真っ赤になっているとお兄様に笑われた。
タオルで視界を塞いでいたし、咳払いしか聞いていなかったので分からなかった。
見た目は魔術契約紋のように見えるが、ただの色の付いた模様だと。時間が経てば自然に消えるらしい。
一応確認のために模様を見てもらったが、後数日すれば完全に消えるだろうと。ちょっと残念ではある。
「消えてしまうのですか……。綺麗なので実は気に入っていました」
「それはよかった」
ホッとした様子のギルバート様に出来ればもう少し眺めていたかったですと言うと、少し考える素振りをしていらっしゃる。
それなら模様が消えた頃にまた私の掌に術式を施すのはどうだろうかと提案されたので、お願いすることにした。嬉しい。
「良かったなマーガレット。あぁ、何だか久しぶりにマーガレットのちゃんとした笑顔を見た気がする」
「そっか……私笑う余裕もなかったのですね。ご心配お掛けしてすみませんでしたお兄様」
私が泣きながら寝込んでいる時にお兄様とお父様が物凄い心配しているとお母様から伺っていた時は余裕がなかった。
少しだけ心に余裕が出来た今、領地に行く前に今後の身の振り方を考えなければなと思う。結婚の話がなくなったが、いつまでもお父様やハワード公爵家を継ぐお兄様のお世話になりっ放しもよくない。私1人だけの事ならいいが、ハワード公爵家としても外聞が悪い。
これから社交をしない、王家や大公家と関係が思わしくない我が家だ。
多分私の次の嫁ぎ先はあまり思わしくはないだろう。
私の暗い胸の内が表情に出てしまったのか、ギルバート様から声をかけられた。
「ハワード公爵令嬢どうされた?」
「いえ。何でも御座いません」
誤魔化すようにお茶を口にして、小さく深呼吸をする。久しぶりの家族以外とのティータイムで大分気が緩んでいたみたいだ。お客様の前ではしっかりせねば。
その後は当たり障りのない話をした後にギルバート様とお兄様の出会い話で盛り上がる。
なるほど、魔術関係の勉強でどうやらお兄様がボールドウィン公爵家に一時期通っていたのか。
一般的な教養は公爵家ともなると家庭教師を家に招くが、魔術関係は家から持ち出せないモノや資料、危険な物を取り扱う場合があるらしく、本格的な事を学ぶなら魔術師の家に足を運ぶ必要があると。
「エドワードはある意味問題児だったな」
「こらこら。研究に明け暮れて自身の父君を困らせていたギルバートにだけは言われたくありませんよ」
「それはお互い似たようなものだろう。研究で思い出した。そう言えばまた呪術関係の貴重な資料が届いてな。読んだ時にギルバートが好きそうだと思わず頭を抱えた」
「今度屋敷に伺うとお師匠様にお伝えください」
嬉しそうな顔で答えたお兄様とは対照的に、ギルバート様は苦笑いを浮かべていた。
魔術関係のお勉強に大変興味を示しているお兄様はどうやら一般的な魔術の枠を飛び越えて専門分野に手を伸ばすありさまで、門外不出のものにまで手を出されて困ると度々ボールドウィン公爵様を悩ませている種だとか。
お兄様がごめんなさいと心の中で思いつつ、お兄様が大変生き生きとされているご様子に本当に好きなんだと分かったのであまりご迷惑かけるのはよくないと強くも言えない。
ほんの気持ち程度「ほどほどになさいませ」と、言ったところでいい時間になって来たのでお茶の時間は終了。
次の約束はお兄様共々ボールドウィン公爵家に伺う運びとなった。
明日王宮に出向いてから2人のお休みの日を調節するとのことで、お伺いするのは日にちが決まり次第お兄様が知らせてくれると。
帰り際にギルバート様が私の掌に刻む花模様の種類を次回までに考えておいて欲しいと言われたので、頷いてから玄関先でご挨拶を済ませてお見送りした。
晩餐まであまり時間もなかったので、急いで自室に戻って晩餐用のドレスに着替える。
支度の最中に王宮にお仕事に行っていたお父様と、他家のお茶会に出ていたお母様のご帰宅を知らされた。
食堂室に家族揃ったところで、食事の時間である。
前菜が運ばれて来たところで、お母様と今日の出来事を話す。
あと、ボールドウィン公爵家にお呼ばれしたので、手土産は何がいいかとご相談だ。
私はあまり関わったことがない家だったので、好みがよくわからない。
公爵夫人は甘い物がお好きなようだが、ボールドウィン公爵様とギルバート様はお酒に目がないと。
我が領自慢のワインとお父様がいいウィスキーがあるとのことで、焼き菓子と合わせて手配をお願いした。
量は少なめだが、今日から家族と同じ食事内容だ。
前菜の彩り豊かなゼリー寄せを半分食べ進めた時に、もしかしたらとんでもないお願いをしてしまったのでないかと思い当たる。
「こんな状況で私がボールドウィン公爵家にお伺いしたら、あちらにご迷惑でしょうか」
「大丈夫だ。あそこの家は貴重な魔術師関係の役職持ちが多いのでおいそれと他が手出し出来ないだろう。一応私からボールドウィン公爵に手紙で確認するから、マーガレットは心配しなくていい」
「ありがとうございますお父様」
お父様のお言葉と配慮に胸を撫で下ろしたところで、食事の続きを楽しんだ。
晩餐が終わって自室に下がり、就寝前に窓辺でいつものように掌の薄くなった花模様を眺める。
次の花は何にしようか。
私が好きな花はガーベラだが、バージル王子にはよく大輪の百合や薔薇をいただいていた事を思い出して……胸が苦しくなった。
何気ない時にフッと思い出す元婚約者となったバージル王子。
綺麗な百合や薔薇の花に罪はないが、今はあまり見たくないと思って、出来ればこの手にはガーベラを刻んで貰うことをお願いしようと決める。
涙を滲ませてベッドに入り、花模様を握りしめながら眠りについた。
今度ギルバート様にお会いしたら、この花は何の種類なのか聞いてみよう。
ボールドウィン公爵様から来た手紙には、「兄は来るな!」と書いてあったらしく、お父様に笑いながら書斎で報告を受けた私はそしたら私も行くのは辞めとこうと考えた。
流石に親しくもない未婚の私がひとりでギルバート様に会いに行くのも外聞が悪いから。
元々お兄様が行きたいとおっしゃって約束を取り付けていたので、正式にお呼ばれした訳じゃない。少し残念ではあるが、花模様は諦めることにした。
「いいのかい?」
「えぇ、大丈夫です」
「わかった。では、私から手紙を送っておこう。それからマーガレット────」
お父様とお母様は領地に戻るが、どうやらお兄様は王都のこの屋敷に残るらしい。
お父様とお兄様がいっぺんに抜けると、流石に政務が滞ってしまうとか。お兄様の仕事はお父様の分もいくらか割り振られて、直ぐに他に回せる量ではないみたいだ。
私はどうしたいかと言われたので、少し前から教会にお世話になろうかと思っていたと話すとビックリされた。
「教会かぁ……」
「お父様も若い頃にお世話になったと伺いまして。ダメですかね?」
「ダメではないが、もう少しよく考えなさい。まだ時間はあるから」
お父様は先王の側室の子どもで男児では第ー子。
同じ母を持つお姉様がいらっしゃったが、流行り病で亡くなったとか。
後にご正室に異母弟2人が生まれてから、一時期俗世と切り離された教会に身をおいていた結構な苦労人である。
異母弟達に中々子どもが生まれないので、教会から俗世に戻されてお母様とご結婚。
お兄様が生まれたが、その後異母弟達に男児が産まれ、私が生まれて暫くしてから継承権問題のゴタゴタに巻き込まれないようにお父様は身を引いたと。
お父様からよく聞く異母弟達とは国王様と第二の王家と言ってもいい大公家の当主の大公爵様だ。
バージル王子と浮気相手である従姉のローズの生家。お父様の方の親族には、私はもうお会いしたくない。
しかし、これから結婚して嫁ぎ先で王族関係の社交が出来ないとなっては貴族女性としては致命的である。
20代後半のお兄様が結婚どころか未だに婚約者がいないのは、こう言った問題もある。
私が教会に入るって行ったら、お兄様もついて来そう。
お父様とのお話が終わってから、私は手慰みに刺繍をし始めた。
このだいぶ薄くなった掌の花の模様をハンカチに刺繍するためだ。
5枚の花びらで図面化した模様。そこまで難しくなかったので、赤い花を刺し終わったら今度は違うハンカチを用意する。
刺繍糸の色を変えてグラデーションになるように赤からピンク色で。
刺繍を施すのは好きだったが、体調を崩す前は王妃教育で忙しくて中々時間も取れず、最近やっと時間に余裕が出来た。
一針一針丁寧に刺繍系を通して行くことで綺麗な物を自分で作り上げて行くこの時間が好きだ。
幾つか花模様をハンカチに散りばめながら、我ながら良いものが出来たと顔を綻ばせていると、まだ時間もありそうだしガーベラの花も入れ込む事に。
色とりどりの花々を咲かせながら、今まで出来なかった時間を埋めるように私は暫く刺繍三昧の日々を過ごした。
掌の花模様も完全に消えてしまったそんなある日の午後。
突然お兄様が明日ギルバート様が来ると言うので、急いで次の日着るドレスをお母様と一緒に考える羽目になった。
もっと前もって言ってもらわないと困ると愚痴を溢しながら、あーでもないこーでもないと頭を悩ませる。
やっとモスグリーンの上品なドレスと宝飾品や靴など一式決めた時には私は力付きながら、全身マッサージとお手入れを侍女総出で受けていた。
外出もないと油断して手入れを怠り、刺繍や読書ばかりにかまけていた私のせいでもある。
反省している時に眠ってしまい、気が付いたら朝だった。よく寝た。
眠い頭で紅茶をいただき、ベッド上で軽めの朝食をすませて支度に取り掛かる事に。お昼からの約束なので、これから忙しない。
「この前の装いも良かったが、このドレスも似合うな」
「ありがとうございます。ギルバート様も大変素敵です」
挨拶を済ませて服装を褒めていただけて、頑張った甲斐がありました。主に侍女が。ご褒美に甘い物でも差し入れしよう。
ちなみに堅苦しいのはナシにしようと言う事で、双方名前呼びに落ち着いた。お兄様の妹でもあるし気軽でいいと。
お言葉に甘えて呼んでみたけど、異性を名前で呼ぶって親戚以外でなかったと思い至って慣れない。気恥ずかしくも少し嬉しくもある。
ギルバート様は仕事着ではないが、斜めボタンで止められた長い丈の上着は、サイドにスリットが入っている。魔術師にはよく見られる、貴族としてはちょっと変わったお洋服をお召しになっている。
黒の布地に金糸をところどころ混ぜ込んだ大胆な図柄がとても印象的で素敵だ。
見る角度で黒の布地に凹凸の変化があるので、もしかしたら同系色でそちらも何か縫われているのかも知れない。
刺繍好きとしては大変興味深いお洋服ではあるが、あまりジロジロ見るのも失礼だろうと思い視線を外した。
一階の広いお客様用の食堂で昼食をいただきながら、今回の訪問の経緯について説明を受ける。
どうも、ボールドウィン公爵様と私のお父様で認識の行き違いがあったらしく、あちらはまさか私が来ないと思わなかったらしい。え?
「私の掌の花模様よりも、元々はお兄様が資料を拝見する為の意味合いが強い訪問だったと思いましたが……一度お会いしただけの私だけ行っても」
「いや、父上に私もそう伝えはしたんだ。マーガレット嬢だけでは来ないぞと」
そんな馬鹿な話があるかとボールドウィン公爵様は思っていたが、我が家から送られた手紙の返事を見た時に認識を改めたと。本当に来ない!? と、焦ったらしい。
お兄様に会いたくないがために、私との約束を反故にして申し訳なかったと。
「公爵家の跡取りのギルバートと二人っきりで会うチャンスを棒に振る貴族令嬢なんて、早々いないでしょうね」
「やり取りの手間を増やさせて申し訳なかったと、父君にも伝えて欲しい。謝罪の手紙は私が持って来たので渡してくれ。それと、マーガレット嬢の分もある」
食事中で失礼かと思ったけれど、家令が持って来た盆の上の手紙とともに添えてある小箱が気になったので、先に読ませていただくことに。
謝罪と、次はひとりでも気にせず遊びに来て欲しいとのお言葉が書かれた、多分直筆らしいお手紙に笑ってしまった。
力強い字とは裏腹にズラッと並んだ謝罪が、何だか必死さを醸し出している。
後で返事をしたためて、怒っていないですとボールドウィン公爵様にお伝えした方がいいかも知れない。
小箱の方は何かと思ったら、ボールドウィン公爵様から私に贈り物だと。
開けてみて欲しいと言われたので、従うと中には見慣れない綺麗な石の細工物が入っていた。
どうも、ボールドウィン公爵家に入るための通行手形を担う役割りがある「玉 (ぎょく)」と呼ばれる緑の半透明の「翡翠」を削って作られたものだとか。
普段私が身につけている透明度の高いカットされた緑のエメラルドの宝石よりも、ミルクを垂らしたような色合いの翡翠は何だか味わいがある。
魔術師の家々には守りの陣が大体組み込まれており出入りが他家より厳しいんだとか。
気軽に遊びに来て欲しいを形にした心使いが社交辞令ではないとわかって、バージル王子との婚約破棄の事は気にしていないと感じ取れた。
お礼を言って笑顔で受け取り、通行手形は保管するために他の宝石類同様、専門の部屋の金庫に仕舞ってもらうことにした。また食事を再開する。
話はかわって、今度は私の左手に刻む花模様の話題に。ギルバート様の今回主な訪問理由でもある。
手の内側 じゃなくて、外側……手の甲の方が描きやすいらしく、それでも大丈夫かと言われたので了承する。
花はガーベラをお願いすると、どんな花なのかわからないと言われてしまった。
ギルバート様はあまりお花に詳しくないらしい。
屋敷に飾ってあったガーベラを執事に持って来てもらって見せると難しい顔をしていらっしゃる。
「花弁が多いな。どう簡略化するべきか……」
「難しいようでしたら、前のお花でも構いません。そう言えば、アレは何の種類の花だったのですか?」
「ウチの庭に咲いている『梅』の木を模した花なんだ。咄嗟に思いつく花がソレしかなかったので」
「あぁ、『紅梅』ですか。確かに他所であの木を見た記憶はないので、マーガレットが知らなくても不思議じゃありません」
ガーベラを様々な角度から眺めて観察しているギルバート様に、平面でわかりやすくなった刺繍の方を見るかと提案した。
出来ればお願いしたいとのことで、侍女に私の部屋から最近刺したばかりのハンカチを数枚持って来て貰う。
ハンカチを受け取ったギルバート様は何だか満足顔だ。わかりやすくて助かると。
「しかし、どれも見事な腕前だな。特にこの色が徐々にかわる梅が気に入った。ウチに引き抜きたいが、良い腕の職人がいるのだな」
「お褒めに預かり光栄です」
ベタ褒めされて内心照れながら私がお礼を言うと、お兄様が笑いながらギルバート様に説明してくれた。多分刺繍をしたのは私だろうと。正解ですお兄様。
「なるほど。マーガレット嬢は刺繍の腕前が良いのか。出来ればこのハンカチのようなガーベラを描きたいのだが────」
可能であれば見本としてハンカチを一度家に持ち帰って、術式を練習して来ると。流石にぶっつけ本番でやるには、花弁が多くて梅より難しいみたいだ。
よろしければお好きなものを差し上げると言うと、グラデーションの梅と色とりどりのガーベラが散りばめられたものを選らばれた。
今日は梅を手の甲に描いてくださるみたいだ。
デザートのチョコレートケーキを食べ終わり、別室でゆっくりお茶をしながら色を決めて行く。
色の変化を楽しみたいので少し濃いめのピンク色。
侍女に手袋を外してもらって、ギルバート様に差し出した。
ギルバート様も黒の手袋を引き抜き、私の手に触れる。
自身の手と比べると少し温度の低い大きな手に包まれて、私の熱を奪って行くような錯覚に陥る。
「少しだけ我慢して欲しい。直ぐに終わらせる」
ギルバート様の手袋をしている方の手で私の左手が動かないように固定された。
黒い箱から出された眼鏡をかけて、更に出てきた羽根ペンのように見えるモノを手の甲に一瞬押し当てられる。
何か書いているが、私には感触がまるでない。
どうやら、皮膚スレスレに術式を書いて動かしているらしい。
光をたたえて浮かび上がるピンク色の不思議な羅列。羽ペンを動かすたびに増えていく模様はとても美しい。
「綺麗……」
「固定術式を発光させるので、眩しくなる。いいと言うまで目を瞑って欲しい」
「わかりました」
瞼を閉じて待っていると、一瞬ピカッと光を感じる。中々目を開けていいと言われないので、開けても大丈夫か聞いてしまった。
もう平気との事で、目を開けると艶やかなピンク色の梅の花が私の手の甲に描かれていた。
「どうだろうか?」
「素敵です! ギルバート様ありがとうございます」
笑顔でお礼を言うと、まるで眩しそうに目を細めたギルバート様はそのまま微笑まれた。
初めて見たギルバート様の笑顔が至近距離過ぎて、ちょっとドキドキしてしまった。お顔がいいので、攻撃力倍増である。
「ギルバート、もう手は離しても大丈夫でしょう?」
「う、うむ。すまない長々と。しかし、前も思ったがマーガレット嬢の手は小さいな」
「ギルバート様の手が大き過ぎるんです」
苦言申しあげると、もう少し描く面積が広ければもっと模様を入れられるのにと言われてしまった。大きさはコレ1つが限界で、小さく出来ないと。
くっ……自身の小さい手が悔やまれる。
「マーガレットに刻んだものはそんなに大変なのですか?」
「色を入れるのがな……」
使った道具を片付けながらギルバート様に説明を受けたが、やっぱり魔術契約紋の術式は普通は黒か青っぽい色合いらしい。
赤系統の色を出すのに、結構な量の術式を組み込んでいると。詳細を聞いたお兄様は呆れ顔である。
「才能の無駄遣いですね」
「試すことはないだろうと色々とやっていたが、まさか実際にこの術式を使う事になるとはな。こちらも勉強になる」
綺麗な花模様が実は高度な術式が組み込まれた、ボールドウィン公爵家の技術を駆使した叡智の結晶とも言える力作だと知って、手袋を嵌めてくれている侍女の手が一瞬止まった。後で労いのお菓子に、あなたの好きなオレンジピールのチョコレートも加えておくわね。
次の約束は1ヶ月後。それまでにはガーベラをマスターしておくとの事で、花模様の大きさや図式など進捗状況を手紙で送ってくれると。
お礼を言ってから、その日は私は部屋に引っ込んだ。
あまりギルバート様を独占してもお兄様に悪いし、二人でお話ししたい事もあるかも知れないと思って。
私はその後ボールドウィン公爵様に礼状をしたためてから、自室のソファに座り手の甲を眺めながら刺繍をする至福の時間を過ごした。
ギルバート様からの手紙でガーベラの花模様の進捗状況について数日に一度ご報告が届く。
お仕事もされながらの作業なので、大変かと思ったけれど趣味みたいなものだから大丈夫だと。
ご報告ついでに些細な事柄も添えられた手紙のやり取りをする事が、外出もしなくなって、屋敷の者以外と関わらなくなった私にはとてもありがたい。
いつしかギルバート様の手紙を待ち望み、そのお返事をしたためるのが私の日常の一部になりつつあった。
いくら魔術関係の実験がお好きでも、こんなに私に時間を割いてもらって申し訳ないと思い、何かお礼がしたいと手紙で伝える時、私が刺繍した「普段使いのハンカチが欲しい」との事。
早速商人を家に呼んで布と刺繍系を選び、ギルバート様用に気合いを入れて一針一針丁寧に心を込めてボールドウィン公爵家の家紋の入ったハンカチと、イニシャルが入った図柄を取り入れたハンカチを量産した。
気合いを入れ過ぎて作り過ぎたのは内緒だ。1枚くらい気にいるものがあればいいかな? と、前向きに捉える事にした。
寒くなって来たが庭の『楓』の木が見ごろだと言う事で、花模様を施す傍ら観に来ないかとお呼ばれした。
是非! と、返答して今度は私がボールドウィン公爵家の屋敷に足を運ぶ事に。
ちなみに約束の日はお兄様は仕事が立て込んでいるので、一緒に行けない事を大層悔しがっていた。凄く悔しそうにしていたので、私だけ申し訳ない。
その代わりお母様がお時間を作ってくれて、ボールドウィン公爵夫人も交えてお茶を共にしてくださる運びとなった。
ボールドウィン公爵家に向かう当日。私は山吹色のデイドレスに身を包み、お母様と共に馬車に揺られながら久しぶりに外の景色を眺めている。
私がいただいた通行手形を屋敷の門前で確認され、馬車ごと敷地内に入る。
他家に初めて伺う時は毎回緊張するが、今日はワクワクした気持ちが上回る。
魔術師の家にお呼ばれするなんて、多分貴族令嬢では稀だろう。
期待に胸を膨らませていると、エントランスからすでに驚きに見舞われた。挨拶も忘れて思わず聞いてしまう。
「大きな猫ですね。可愛い」
「『クロヒョウ』だな。魔物だがテイム契約して躾はされているので噛み付くことはないが、念のため先に匂いを覚えさせてもいいだろうか?」
了承してからお行儀良くお座りしていたり、寝そべっていたりするクロヒョウ達に手を差し出す。
のそりと肢体を起こして代わる代わるフンフンと匂いを嗅ぎに来る、それに合わせて髭や尻尾が動く様が可愛い。
まだ大公家として王宮に住んでいた時は特に幼少期よく普通の犬やウルフ系の魔物と戯れていた。
お父様の下の異母弟もいらっしゃったので、お兄様や従兄弟姉に混じって広い敷地内で日が暮れるまで犬達と遊んだものである。
あちらも大小様々な番犬がいたので、ボールドウィン公爵家もその代わりかな? と、思った。
お母様もクロヒョウに匂いを覚えさせる作業が終わったところで双方ご挨拶。
お母様達は暖かいサンルームで紅葉を眺めながら先にお茶をいただいているとの事で、私はギルバート様に案内されながら庭の散策に出かけた。
花は咲いていないが、梅の木を近くで見るためだ。実物を知っているお兄様曰く、枝が特徴的らしい。
エスコートされながら石畳みを歩き、サンルームのガラス越しにお母様の姿が見えたので、手を振る。
更に先に進むと庭の一角に数本、天に向かって鋭利な枝が伸びる木が存在。コレが梅の木らしい。思っていたよりも小さい。
「もっと大きな木かと思っていました」
「庭師が剪定して、枝を切り揃えているからな。咲いたら知らせるので、観にくればいい」
梅の花が咲く時期は冬の終わりから春先との事だが、どうしようかと考える。お父様とお母様はその前に領地にお帰りになるのだ。
私も身の振り方を決める期日が迫っている。
返答に困っていると、ギルバート様は言葉を急かす事なく待ってくれている。
私は深呼吸してから、まとまっていない考えを口にした。
「まだ、どうしようか決めかねているのですが。もしかしたら教会の方にお世話になるかも知れません」
「…………そうか」
王都に残るつもりは実はない。
領地に行くか、どこかの教会に行くか決めかねていると素直に言うとギルバート様に椅子に腰掛けないかと誘われた。
庭に備え付けられているベンチに2人で座り、話の続きを口にする。
縁談は何件も来ているが、お相手は他国か国内だと野心ある家々だ。
王家の血を引く私は他国に嫁ぐ承認は得られないだろうとの事で、国内でもお相手は難しい。国政的なパワーバランスが崩れてしまう場合があるとかで下手な所に嫁げないと。
しかも、バランスだけを考えるなら第一候補が大公家の……ローズの弟になる。
次いで2番目が王子達誰かの正室や側室。3番目が国政から身を引いた先王弟殿下の後妻のような形に収まると言うから、嫁ぎ先でどんな顔して過ごせばいいか分からない。
他の貴族はゴタゴタに巻き込まれたくない家は名乗りを上げず、後に残ったのは野心ある家々だがそちらに嫁ぐと王家や大公家がいい顔しないと。
「何とも……理不尽な話だな」
「教会にいた方が平和です。私を含めて周りも。いつまでも家に居ていいと家族は言ってくれていますが」
私の心情的に申し訳なく思ってしまうので、いつかは教会に身を置くだろうなと。
私が家にいると、ずっと縁談関係の話で他家から何かしらアプローチがあるだろうし。
お兄様がどうするのかもコレからわからない中で、私が俗世から切り離されたところにいればお相手を選ぶ幅が増えると思う。
他家に血を入れるのではなくて、ハワード公爵家にお嫁に来る方が問題は少ない。
この先お兄様が結婚しても私が家にいるのはお嫁に来た方に気を遣わせてしまう。
暗い話を打ち切るために屋敷の中に戻らないかと提案した。
身体が冷える前にお母様達がいるサンルームに移動して、お茶をいただく。
ハラハラと葉か落ちる楓を眺めならお菓子やお茶をいただくと身も心も洗われるようだ。
暫くお喋りを楽しみ、素敵な眺めに見入っていると、そろそろ花模様を手の甲に入れようかと言う話になった。
場所を移動して、光が入るガラス窓の近場のソファで作業を開始するようだ。
ギルバート様は準備をしながらため息をついた。
「母上がはしゃいですまない。前に見本で持って帰った君のハンカチをいたく気に入ってな。今回のは取られないように私が大事に使わせてもらう」
「ふふっ。お気に召していただけて嬉しいです。頑張って刺繍した甲斐がありました」
ギルバート様と少し離れたソファで小声で話しているが、お母様達は楽しくお喋りしているようで話に花を咲かせている。
お父様やお兄様達は交流があるらしいが、魔術師の家の女性陣はあまり家に人を呼べないので、久しぶりのお客様にはしゃいでいるらしい。
お茶は普通だったが、温かい甘い菓子類がかわっていてとても興味深いものばかりだった。
特に桃の形のフワッとした生地に白いフィリングが入った甘い蒸したパンが見た目もだが、味も上品で美味しかった。
コチラから持参した焼き菓子も大層喜ばれたので、お母様の見立ては正解だったようだ。ギルバート様はワインを今夜早速開けるらしい。
準備が出来たところで、前のように羽ペンで花模様を描いてもらっていると、いつの間にか私の横にクロヒョウがいた。
ビックリしていると、アルバート様が持っていた羽ペンを追って戯れついている。
ピカッと一瞬光ったと思ったらギルバート様がクロヒョウに話しかけた。
「こら、『ニャン子』これは玩具じゃないと何度も言っているだろう。誰か外に出してくれ!」
「みゃーーーーんっ!?」
とっても悲しそうな鳴き声を上げながらギルバート様の従僕によってサンルームから摘み出されたクロヒョウは、体は大きいがどうもまだ子どもらしい。
「『ニャン』の子どもで『ニャン子』だが、親もだったが、子どもはもっとヤンチャでな。後でよく言って聞かせるから許してやって欲しい」
「お転婆さんなんですね。私も小さい頃はお転婆で……叱るのはほどほどにしてあげてくださいね」
「ははは。マーガレット嬢もそんな時期があったのか。君に免じてオヤツ抜きくらいにしよう。それにしてもどうしたものか……。一度全て消そう」
私の左手の甲を見ると不自然に入った黒い線。模様を消すのに置く時間がかかるらしく、今日は反対の甲でもいいだろうかと言われた。
ん? 反対側???
「前に消えそうになった時に描き直すとおっしゃっていましたが、反対側でも大丈夫なのですか?」
最初花模様をもっと眺めていたいと言った時は確か消えたらまた描く的な事を言っていたと思ったけれど。
それでお兄様とお宅訪問のはずが、話がなくなって再度アルバート様が我が家に足を運んでくれたのだ。
最初から反対側の手にも花模様を描けたのなら、その場で済んだのでは?
ハッとしたアルバート様はそのまま口元を手で覆って、私から視線を外された。若干耳が赤い気がする。
「いや……。黙っていてすまん。何と言っていいか…………」
あの時は一度でいいから、もう1回私に会いたかったと。
「え?」
「会う口実にしてしまったのは確かだ。傷心の君につけ込むような、不誠実な行いをしてすまなかったとは思っている」
私に会いたいがために咄嗟に思いついたらしく、確かにあの時反対の手に梅の花模様を描けば話は終わっていたと。
ちなみにその後、今の私と同じツッコミをお兄様にすでにされていたらしい。
「自分でも、変な事をしたとは思っている。あまり女性にそういった気持ちも湧いた事がなかったので……。迷惑なら今後は会うのを控えるので言って欲しい」
耳どころか、目元まで赤いギルバート様を見て流石に察した。自惚でなければ今私はとんでもない事を言われてる?
ななななな何て言葉を返せばいいのかわからなくてあたふたしていると、とりあえずガーベラの花模様を描くので、ジッとしていて欲しいと言われた。了解デス。
落ち着かない気持ちのまま、左手の模様を消す術式が終わり、次に右手。
ギルバート様と触れている手が熱を持つのが分かる。とても恥ずかしい。
ただ、不思議な事に嫌ではないから困ってしまう。
目を瞑って欲しいと言われたので、ギュッと瞼を閉じて光をやり過ごす。
次に目を開けた時には私の右手に真っ赤なガーベラの花模様が浮かび上がっていた。
光に翳して眺めると、所々キラキラしている。
「…………素敵」
「真珠の媒体を混ぜ込んだので、光が反射してるんだ。気に入ってくれたようでこちらも嬉しい」
道具を片付けながら、ギルバート様は私に視線も合わせないでお話された。
先程の返事は期待していないみたいだ。
私が教会に入るくらいの覚悟があると知って望みが薄いと思ったらしい。
本当はもっと後になってからか、私に何も告げずにいようと思っていたけど、伝える機会がなくなるかも知れないと思って今勢いで言ったと。
「急に私にこんな事を言われてもマーガレット嬢を困らせてしまうよな」
「正直驚きが勝ります。そんな素振りなかったので」
「あー……。多分、そう思っているのは君だけだろう。これでも家族やエドワードに散々揶揄われているからな」
お兄様に影で色々と言われてるらしいギルバート様はバツが悪そうな顔をしながら、最後に眼鏡を外して黒い箱に仕舞った。
道具は片付け終わったが、話は続く。
コチラを見たギルバート様の顔は真剣そのものだった。
「ひとつ確認なんだが、今はバージル王子をどう思う? まだ結婚したい程好意があるだろうか?」
元婚約者の名前が出てドキリとしたが、言われてみれば今はもう結婚したいどころか顔も見たくない程である。
素直にそう伝えると、大事な話があるのでお茶の席に戻ろうと言われた。
席に戻るとギルバート様が私のお母様にアイコンタクトらしきものを取っていた。お母様は頷きを返す。私が知らない内に何か双方で話でもあったのだろうか? 人払いもされたので、何か内緒の話があるのだと理解する。
隣の席のお母様が私の方に向き直って、これから言う事は他言無用だと説明を受けた。
「先に言うとあまりいい話ではないの。気を確かにもってちょうだいマーガレット」
「はい。お母様」
「貴女の掌にあった蔦模様の魔術契約紋に精神に干渉するような術式が入っていたそうよ」
お母様の言葉を聞いて、私は息を呑んだ。
ただの花模様だと知らされた梅の花模様は、実はその精神干渉の術式を緩和するためのモノも組み込まれていんだとか。
今は元の術式の干渉も完全に消え失せ、更に私の気持ちも落ち着いたようなのでキチンと話をしたいと。
「ギルバート様がもう一度私に会いたいと言ったのは、それが理由だったんですね」
「………………いや、一度ちゃんとした術式を組み込んだので後は自然と治ると思っていた。術式を再度打ち消すために干渉解除を早めたのは私のエゴだ。すまん、親の前でこれ以上は勘弁して欲しい」
「純粋にマーガレットちゃんに会いたかったのよウチの子。ごめんなさいね、分かりにくいけど家だと結構浮かれているのよ」
ボールドウィン公爵夫人の言葉に、余計なコトは言わないで欲しいと苦言を漏らしているギルバート様。
そっか、今日も今か今かと私が来るのを待っていたらしい。嬉しいやら恥ずかしいやらでいたたまれない。
精神に干渉とは具体的に何かと思ったら「魅了」が組み込まれた術式だった。
「みりょう? ですか???」
「魔術師界隈では割とポピュラーな術の類だが、女性にはあまり知られていないだろう。人を惚れさせるために使われる術だ」
私の場合は中度の術式をバージル王子に使われていたみたいで、程度によるがこの術を使うと相手を愛さずにはいられない状態になるらしい。
貴族の男性陣が魔術関係の勉強をするのは、魅了を始めとした精神干渉や毒物の類を避けるための自衛の意味合いが強い。
外にひとりであまり外出しない貴族の若い女性に使われる例は稀だと言われた。
浮気を知らされた時よりはショックは少なかったが、私がバージル王子を愛していたのが強制的なものだと知って言葉が出て来ない。
しかも、この術の酷いところは「好きだった」と言う事実は残る事だ。
私の場合は完全に術が解けて感情が引っ張られる事はなかったが、術が解けてもそのまま相手を好きで居続ける場合も少なくない。
浮気で裏切られた事によりもう愛したくないと、私の心の中で強い反発心が生まれたのかも知れないと言われた。
後に残ったのは傷つけられた胸の痛みだけだ。
何故そんな事をしたのか疑問だが、それは当人に聞いてみないと分からない。
不当な扱いを受けて抗議することも出来るが、事実が露見した場合に相当荒れる事が予想された。
何せバージル王子はローズと浮気。更に私に了承もなしに魅了の術がかけられていたと分かったら、更に王家の立場は危うくなる。
「お父様は何とおっしゃっているのですか?」
「旦那様は結婚も含めて、何もかもマーガレットの好きなようにしていいと」
酷い仕打ちだと思う。魅了の術を使って、更に浮気まで。
しかし、私が気軽に言葉を発していい程、事は簡単ではない。
ここで声を上げたところで行き着く先は側室の子とは言え第一子で優秀なお父様が担ぎ上げられて王位が回って来るかも知れない。そうなったら王家、大公家、公爵家の三つ巴の戦いだ。
争いを避けるために身を引いたお父様のこれまでの苦労が水の泡になる。
侮辱的な扱いに唇を噛み締めながら怒りを飲み込んで、私は何も言わない選択肢を選んだ。
でも、好きにしていいと言うならば、やはりに王家にだけは今後絶対嫁がないと決めた。それだけは譲れない。
その後は当たり障りのない話をしてお茶の続きをしたが、私は上の空であまり会話には参加出来なかった。
帰りの馬車の中でお母様に頭を撫でられながら帰宅。
夕食は軽いものを部屋に運んでもらう事にして、先に湯浴みを済ませて楽な格好で部屋で過ごした。
さて、ギルバート様どうしようである。
正直な話、私は自分のことが薄情だと思った。
バージル王子との結婚がなくなってそう時間も経っていないのに、他の男性に告白まがいな事を言われて迷惑だと思うよりも嬉しい気持ちが優ってしまった事が。
しかし、嬉しいと思えど結婚したい程好きなのかと問われたらよく分からないと答えが出る。
右手の甲に描かれたガーベラの花模様を見て癒されなが、手紙のやり取りと直接お会いしたお人柄を見ると少なくとも誠実そうな方だとは思った。だからこそ悩んでしまう。
私のせいで王族関係のゴタゴタに巻き込むのは可哀想。
ため息をついて、部屋に運ばれて来た食事を食べながらお父様とお母様と一緒に領地に帰ろうと決めた。
ギルバート様は私の返事を期待していないとおっしゃっていたし、王族が訪れるかも知れない王都の教会は除外。
領地で私を受け入れてくれそうな地方の教会をゆっくり調べて行こう。
と、言う話を次の日屋敷にいたお母様にお話したら、非常に残念な顔をされた。
「昨日の2人の様子を見ていると、お似合いだと思ったわ。アチラのお母様もとっても人柄がよろしかったし。残念ね。本当残念だわ」
「流石にウチのゴタゴタをどうにかしない事には……。ご迷惑おかけするのは悪いです」
「マーガレット。その言い方だと、ゴタゴタしていなければ嫁いでもいいって事よね?」
流石お母様。娘の事をよくおわかりで。確かにどこかにお嫁に行くならば今のところギルバート様が1番好ましい相手だとは自分でも思っている。
けれど、色々な問題がなくてもギルバート様の事をあまりよくは知らないので即答は出来ないと素直に言うとお母様はにニッコリ顔だ。
「知らないなら知ればいいのよ。お母様もお父様とはじめてお会いした時に常に笑顔を浮かべた『よくわからない人』だと思ったものよ」
ただの穏やかな人だとわかって、笑顔が普通だと慣れたらしい。
しかも、婚約したと思ったら教会に入られて待ちぼうけを食うは、お母様はヤキモキして日々を過ごす羽目になったとか。
お兄様を産んだのは30歳手前だけれど、私が生まれたのは更に10年後だ。子どもを2人授かれたのは奇跡だと言うお母様の言葉は重みがある。
「子どもは養子でも良いけれど、アチラは後継ぎですもの。あまり悠長にしていると他に行かれてしまうわよ。マーガレットはそれでも大丈夫なの?」
「…………」
ギルバート様が他の誰かと結婚するのを想像したら、何だか胸がチクリと痛んだ。
キチンと本人と向き合って親睦を深めるなり、腹を割って話しなさいとお母様から助言を受けて、部屋に戻りひとり考える。
考えても考えても、やはりどうすればいいのか答えは出ない。
数日後、私はもう一度ゆっくりお話がしたいとギルバート様にお手紙を出す事にした。