1 ヒトメボレ
「或る夏、海の見える街」 第1話
津島符憂 処女作です。
吉野君。そんなに聞きたいなら話してあげましょうか。少し長くなるので麦茶を入れてこよう。こっちに座ってください。ええ、その辺です。座ってください。今日は晴れてよかった。こんな話は雨の日にするものでは無いね。ジメジメしているとつい話まで重くなってしまう。あ、そのザブの柄、いいでしょう。前まで使っていたのは古くなってしまって、座ってもおしりが痛くなってしまうので、ついこの間新調したのです。え?ああ、あっちに飾ってるのは百合の花です。お気になさらずに。さて、どこからお話しましょうか。
十七歳の夏、私はどうやらヒトメボレというやつをしたのかもしれません。今でもときどき、夢を見るのです。いや、私に限って恋愛という実態のない、危なっかしい幻想に現を抜かすような、そんな馬鹿なことは、今も当時もあるわけがないのですが、まあ聞いてください。何一つ偽らず、本当のことを、言います。
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或る夏、海の見える街、すました白い顔で坂を下る彼女はこの街の出身でない。病の療養のため、ひと月ほどこの街で過ごす白石菜々子さんというらしい。歳は高校生。とまあこれら全部、斜め向かいのお家の矢坂おばさんのおしゃべりを盗み聞いて知ったのですが、真偽は定かでありません。あとは、ときどき白く細い腕で、華やかな花を抱えて眩しそうに空を睨んで歩いているのを見かけます。その様子はまるでパリイのお嬢さんみたいで、こんな田舎の街とあまりに不釣り合いだから笑ってしまった。ここは海も山もあるいい街です。けれど、この街の人達はみな他人に興味津々で気持ちが悪い。私はこの街が好きでも嫌いでもありません。しかし、こんなに美しい人がこの街にいる。それだけでこの街を愛してみたくもなった。彼女とはときどきすれ違う、というよりも私が彼女に会えるのを期待して外出することが多くなった、と言った方がいいのだろうか。彼女は大きい鍔の麦わらを顎のところでリボンで結んでいて、それがこの街の誰より綺麗だった。彼女に就いて、既知の情報はこれだけ。
彼女は私のことを知りません。知るわけが無いのだ。それどころか彼女はこちらに親しい友人の一人もないようです。私は恋などという浮ついた幻想など信じていないのですが、今はそれに似た感情が少し、いや違う。勘違いはよしてください。断じてそういったものではないのですが、彼女はこちらに頼れる友人もおらぬようだし、少し、ほんの少しだけ、仲良くしてやってもバチは当たらないだろうという気まぐれが起こっただけなのです。断じて恋では、ない。
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