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安部朋樹の行方もようとして知れないまま、季節は夏も越してしまい、秋になろうとしていた。
甘粕は銀座の路地裏にある、小さなショットバーのドアを開け、足を踏み出せないまま、思わず、恐る恐る中を覗き込んだ。
甘粕という男は、見た目は小洒落たかなりイケメンな格好のいい男だが、実はこういう洒落た雰囲気の、一見さんお断りの様な店には縁がない。
カランカランと心地よいベルが背の高い甘粕の頭上スレスレで音を立てると、既にカウンターに座って、1人で飲んでいた男が振り返って笑った。
「何だよ。入って来いよ。」
「いや…。どうもさ…。」
そう言いながらコソコソといった様子で、男の隣に座った。
「何にする?」
「じゃあ、I.Wハーパーを…。」
呟く様に言った甘粕の声を聞き取り、初老のバーテンが動き始めながら返事をした。
「かしこまりました。」
「お前はこういうとこに来てるのか…。」
男は、甘粕の大学の同期だ。
サークルの剣道部で共に4年を過ごし、現在は大手の弁護士事務所で弁護士をしている。
雇われ弁護士だから暮らせて行けているのだろうが、国選弁護人や、金になりそうに無い貧乏人の刑事事件の弁護ばかりやっている。
昔から世話好きで、お節介な程人が良い、良い奴だ。
「所長に無理矢理、クラブに連れてかれたんだけど、お姉さん方に囲まれて疲れ切っちまって、フラッと入ってから病み付き。落ち着くんだ。」
確かにこの店の雰囲気はとても落ち着いている。
イギリス風の落ち着いた調度類に囲まれ、照明も暗めに落とし、店員は初老のマスター兼バーテンの男と、フロアに居る目立たないタイプの青年だけだ。
客も1人で来ている者ばかりで、話し声もしない。
落ち着いた古いジャズが静かな店内に流れている。
そんな雰囲気だ。
甘粕には、逆にこれが落ち着かない。
思わず、バーボンを忙しく飲み干すなり言ってしまった。
「ごめん。店変えないか。」
「え?気に入らないか?」
「いや…。いい店なんだけど…。親父の書斎そっくりな感じが…。」
「そっか…。でも、ちょっと他に聞かれたくない話だから、ここで聞いてくれないか。ここのマスターは口は堅いし、お客も少ないから、小声で話してれば、他に聞かれる事もない。」
この男ー仙崎がわざわざこの店を指定し、甘粕に外で会いたいと言うのにも、理由があったのかもしれない。
甘粕は旧友の頼みと思い、わがままは諦めた。
「ー分かった…。それで?」
「でも、お前嫌なんだよな。やっぱり変えようか。」
「いや、いいよ。どした。」
本当に大丈夫かと何度も聞きながら、仙崎は話し始めた。
「水道工事人してる小林誠治って男が、シーマっていう中小企業の社長殺した一件なんだ。」
「ああ…。強盗目的とかいう…。」
「うん。ところがさ、どうも妙な気がしてさ。」
「妙とは?」
「犯人、小林誠治は、すげえ清々しいんだよ。」
「ーは?」
「ほんと、『は?』だろ?。なんかこうやりきった、俺偉いみたいな感じ。」
「やりきったって…。金も取れてねえし、直ぐに捕まったんだろ?」
「そうなんだけど、凄えんだよ。幸福感が。殺した満足感が。
だからって、殺しが快楽っていうんじゃないんだ。
丸で、正義の行いをやったみたいな感じ。
とにかく反省の色なんか全くない。
あいつは悪い奴だと、シーマ社長が極悪人で殺されて当然だという。
だけど、いくら調べても、シーマ社長と小林に接点はないんだ。
シーマ社長も、マスコミ沙汰になる様な悪い噂は無かった。」
「接点もない人間を極悪人呼ばわりかよ。勤め先の水道工事の関係で、シーマの社長がなんかしたとかは…?」
「全くない。大体業種が全然違う。」
「シーマって何の会社だ。」
「デジタルカメラの会社だよ。と言っても、一流の一眼レフとか出してるところじゃないくて、トイカメラとか、水中カメラとか、お遊びカメラばっかり出して、最近一部上場したってところ。」
「はあああ…。そら知らん。」
仙崎はクスッと笑った。
「そうだよな。お前は昔からカメラは一眼レフしか使わないもんな。」
「うん。ふーん。そうか…。接点は何も無いのに…。でも、最近よくあるぜ。見ず知らずの著名人を、嫉妬心から勝手に逆恨みって。」
「俺もそうかなと思ったんだが、それとも違う。それならほら。小林の自宅に、シーマ社長の事調べ上げたなんかが出てくるはずだろ?そんなもの一切無いんだ。ただ1つ、出て来たのは、浮気の証拠。」
「浮気?」
「そう。浮気。と言っても、現存している証拠は物の見事に何も無い。男ってのはバカだから、大抵どっかに証拠残しちまうもんだが、一切無いんだ。奥さんが1回、彼女からのLINEを見ただけ。」
「奥さんは何を見たんだ。」
「小林が外泊した翌日、帰って来た小林が、ニタニタしながら隠れて携帯見てるから、日頃から浮気を疑ってた奥さんは確信を持って、小林と格闘して、奪い取って見てみたら、愛って女らしきから『昨夜は本当に楽しかったわ。また会ってね。読んだら消去忘れないで。奥さんを苦しめちゃダメよ。』って書いてあったんだと。
小林を問い詰めたら、逆ギレして、『お前なんかに愛情なんか無い。ブサイクな嫁とガキの騒がしい家に毎日帰って来て、給料運んでやってるだけでもありがたいと思え』とか言って、出て行って、そのまま事件起こしたと。」
「うわあ…。酷え男だな…。」
「まあな。でも、言いたくもなるんじゃないかなー。飾ってあった結婚式の写真と、今の奥さん別人だもん。あんな変貌されたら詐欺だし、子どもは疳の虫かってくらいうるさいし、浮気のチャンスが出来りゃ、やっちまうかもなって感じ。」
「そうなんだ…。その時系列で行くと、愛って女は事件に関与してそうだが、身元は割れないのか。」
「全く。小林の浮気の足取りも掴めないし、小林は事件を起こす前に、携帯をトラックに轢かせてる。LINEのアドレスも追いようがない。だったら、シーマ社長の関係者かと探ってみたが、シーマ社長は真面目な男で、女が居る様なクラブの類いも行かないし、浮気のうの字も無い。愛って女の影も形も無い。」
「うーん…。なんか非常ににおうな…。」
「だろ?愛って女にそそのかされて、殺しをやったとしか思えないじゃないか。それが立証出来れば、小林の刑は相当軽くなる。だから、愛って女を調べたいんだ。」
「小林は愛って女に関しては?」
「知らぬ存ぜぬの一点張りだ。嫁の記憶違いだ、浮気なんかしてないと。」
「なるほどね…。俺に相談てのはそれか。」
「いや、厳密には違う。たまたまなんだが、逢坂に会ったんだ。弁護士会の集まりで。」
「おおー、逢坂。元気か、あいつ。」
逢坂というのも、剣道部の同期だ。
もっとも逢坂の方は、国選弁護人ばかりの、全く儲かっていない弁護士をやっているのは仙崎と同じでも、個人事務所なので、常に火の車状態だった。
あまりに報酬そっちのけで仕事をするものだから、しょっ中裁判所で空腹で倒れては、善意の施しを受けているという噂の超変わり者だが、甘粕は逢坂が好きだったし、気もあった。
最近忙しくて会っていないので気になっていたところに名前が出たので、つい嬉しそうな声を上げてしまうと、仙崎も微笑んだ。
「甘粕とは仲良いもんな。うん。元気だったんだが、その時、逢坂が手がけた事件を聞いて、アレっと思ったんだよ。」
「ん?」
「2〜3年位前に、大手家電メーカーの課長が殺されたろ?あの犯人の長沢って奴。あいつも同じだったんだってさ。清々しい程の満足感、幸福感。達成感。そして女の影。だけど、あの逢坂をもってしても、女は突き止められず、結局、強盗殺人で15年の刑が確定。そして、さらに気がかりな事を聞いたんだ。」
「どんな。」
「その長沢、逮捕されて1週間後に拘置所で首吊って自殺した。」
「な…。」
「俺、長沢だけじゃないんじゃないかと思うんだ。
愛って女が男を使って、殺人を起こさせてるとしたら、他にも居るんじゃないかと思って、それをお前に調べてもらえないかと思ってさ…。
お前の課は管轄外のところのでも、調べられるんだろ?」
「まあな…。そうか…。分かった。ちょっと調べてみよう。ただ、課長の許可が下りるかどうかわからない。今のところ、うちの課っぽい事件なのかも微妙だ。俺個人で調べることになったら、時間もかかる。そこは了解してくれるか。」
「勿論。有難う。助かるよ。」
「だけど、お前はもう首突っ込むな。仮にお前の推理通り、愛って女が男を唆して、殺人を起こさせているとしたら、組織的な物かもしれない。そうなると、探りを入れた奴の命も狙うだろう。捜査はこっちに任せとけ。」
「うん。分かった。よろしく頼む。じゃあ、もう一杯どうだ。」
甘粕は情けなさそうに項垂れて頷いた。
落ち着かないが、今夜はここから出られそうにない。
「へええ…。いいんじゃないのかー。安部朋樹の行方も分からんままだし、他の容疑者も浮上して来ないしな。正直、する事はないのに、身動きとれん。」
実際その通りだった。
芥川達の地道な捜査で、漸く一人の目撃者が現れた。
被害者と同じ中学に通う中三生で、塾の帰り道、被害者宅の前を通った時、安部朋樹がおっさんぽい服を着て、辺りを警戒しながら出てくるのを見たらしい。
その後、被害者宅の全員が殺されたと聞き、中学時代の粗暴さや、養護教諭にした事件を思い出し、安部朋樹がやったのではないかと思ったものの、そういう人格だけに、通報できなかったらしい。
その証言もあったので、重要参考人としてなら指名手配をかけていいかと刑事部長に迫ったが、未成年の高校生を指名手配するのは、まだ実名報道も許されていない頃であったし、刑事部長は許さなかった。
つまり、太宰達はまた動けない状態でいたのだった。
そんな状態もあってか、翌朝早速報告すると、太宰は気の抜けた様な声でそう言った。
「本当にいいんですね?課長。なんかちゃんと聞いてもらえてる気がしないんですが。」
「聞いとるわよ。失敬な。但し、安部朋樹の方で新展開があったら、そっち優先。そうで無くても、うちの事件が起きたら、その殺人教唆かもしれない事件の方は後回しね。」
「はい。」
「ん。じゃ。おやり。」
甘粕は席に着き、パソコンを開きながら、首を捻った。
何故、太宰の機嫌がこんなに悪いのか、想像がつかないからだ。
すると、甘粕の疑問に答えるかの様に、霞が微笑みながら、甘粕の耳に囁いた。
「刑事部長と喧嘩したそうです。廊下まで声が聞こえてたって、芥川さんがさっき言っていました。」
「朝から?なんで。」
「それはよく分からなかったそうですが、太宰課長が『テイのいい追い出しにかかったって、そうは行かねえぞ、この野郎!』って怒鳴ってたみたい。」
「テイのいい追い出し?どういう事…。つーか、刑事部長に向かって、この野郎って、大丈夫なのか…。」
「大丈夫じゃなさそうよね…。でも、これだけ成績上げてる課の課長さんだから、刑事部長さんだって、この野郎って言ったからって、追い出せないんじゃ?」
「まあね…。」
2人が話している内容を知ってかしらずか、太宰が機嫌の悪いまま言った。
「ネタが少ねえから、範囲広げるぞ。取り敢えず、過去5年間。被疑者が一見ガイシャと無関係と思われる関係の中、殺しやって、逮捕後1年以内に自殺している事件、データベースから全て洗い出せ。んじゃ、始めて。」
太宰も含め、4人は無言で作業に取り掛かった。
珍しく電話も無く、集中出来た4人は、夕刻には全てを洗い出し、それぞれが書き込んで行ったホワイトボードを見て、驚いていた。
2年半前の、逢坂弁護士が担当した長澤による大手家電メーカー営業課長の殺害から、1週間前の小林が起こしたシーマ工業社長の殺人まで、2年半の間に、四人の被告が自殺している。
「こりゃ…。当たりかもしれねえな、甘粕…。」
太宰の呟きに、霞が頷いた。
「どう考えても不自然ですものね…。自殺した時期は、殺害直後、拘留後3日から1週間とマチマチではありますが、全員自殺。
しかも、前科も無く、被害者との接点も無く、いきなり殺しているという点まで一致。
これは誰かの差し金と考えた方が自然です。」
ずっと黙っていた夏目が霞を見た。
「愛って女がやらせて、自殺に追い込んだと。」
「そう考えた方が自然だと思います。」
「そんな事が出来るんですか。」
「出来ます。相当な心理操作の手練れでしょうけどね…。」
霞の目が挑戦的に燃え始めたのを見て、太宰が苦笑した。
「お見事にうちの事件の様だ。本格的に調査に入るって、報告入れとく。明日から早速、手分けして洗い出すぞ。」