これは、誰がくれたチョコなのでしょうか。
すっかり薄暗くなった放課後の教室。
窓際の一番後ろの席に、黒木は一人で座っていた。
戸口に立った俺に、よう、と片手を挙げる。
「よう、じゃねえよ」
俺は黒木に近付いた。
「何やってんだ、こんなところで一人で」
「ちょうどよかった、紺野。お前も考えてくれよ」
黒木はそう言って、無造作に小箱を机の上に置く。
それを見た俺は思わず、ひっ、と声を上げた。
「お、お前、これ」
「帰ろうと思って下駄箱開けたら、上の段に入ってた」
黒木は何でもないような口調で言う。
「チョコレートだ」
チョコレート。
一瞬、脳が理解することを拒否しかける。
黒木が、チョコレート。
こんな、俺と大差ない冴えない男が。いつもふらふら歩いてるから、陰でグロッキーって呼ばれてる黒木が。
チョコレート。
「今日はバレンタインだからな」
黒木が言う。
バレンタイン。
こんな、無造作ヘアが無造作すぎて昨日どんな体勢で寝たのか枕の位置まで全部わかっちゃうような男が。
バレンタインですって。
「まあ、別にもらったのはいいんだけどよ」
モラッタノハイインダケドヨ。
ちょっと言ってる意味が分かんない。
「てめえ」
思わず声が出た。
「てめえ。まじで……てめえ。てめえ、この、てめえ」
やばい。ムカつきすぎて、てめえ、しか出てこない。本当はこういう時、リア充爆発しろ、とか言うんでしょ? 知らんけど。
でもね、本当に心の底からそう思ったときは、そんな言葉出てこないんだよね。
そりゃ俺だって、梶川みたいな普段からモテるやつが山ほどチョコもらってたら、苦笑いしながら言うよ。
リア充爆発しろ、って。
でも黒木ですよ。グロッキー黒木。略してグロとか呼ばれることもある、黒木さんがですよ。なんか急に渋い顔して、もらったのはいいんだけど、ちょっと腑に落ちねえ、みたいなこと言うの聞いたら、もうそりゃ、てめえって言うしかないじゃないですか。だって、そんなこと言う黒木君なんて、あなたでも君でもなくて、そりゃもう……てめえじゃないですか。
「てめえてめえって、うるせえな」
黒木はそう言ってにやりと笑った。
殺したい。
「俺が悩んでるのは、これだよ」
黒木は小箱を開けた。
中にはハート形のチョコレートが三つ。
うわー手作りじゃないですかやだー。
これ、義理じゃないやつじゃないですかー。義理チョコももらったことない僕にはよく分かりませんけど、義理じゃないほうのチョコって何て言うんでしたっけ。ええと、義理じゃないから人情チョコ?
これって人情が固まって黒くなったのかな?
「ほら」
そう言って黒木が小箱の隅からきれいに折りたたまれた紙片を取り出す。
なんかふんわりしたピンクっぽい色のそれは、いかにも女子が使いそうなちっちゃな便箋で、女子が使いそうなだけあって男子の僕には今までとんと縁がありませんでした。
「見てみ?」
黒木が紙片を開いて俺に見せる。
中には幸い日本語が書かれていた。黒木にチョコを贈るような人間だから地底語かなんかで書かれてるだろうと思ったのに。
いつも授業中に見てるの、気付いてる?
このチョコで気付いてほしいです。
紙片には可愛い文字でそう書かれていた。
女子だ。
これは知っています。私にも分かります。これは女子の字です。
何故知っているかというと、女子が黒板に書く字がこういう字だからです。
「てめええええぇぇぇ!!!」
「うるせえな」
黒木はちょっと嫌な顔をして、それから紙片を指差す。
「名前が書いてねえんだよ」
黒木は言った。
「誰からだと思う?」
「知らねえよ!!!」
今までの人生でこんなに心の底から思ったことはない。知らねえよ、と。
「さっき部活から戻ってきたときは、なかったんだよ。下駄箱に体育館履きを戻した時は」
黒木は平然と話を続ける。
「それから教室で荷物持って、帰ろうとしたらこのチョコが上の段に入ってたんだ。だから、その短時間に誰かが入れたんだよ」
あれ? 僕、知らねえよって言いましたよね。腹の底から声を絞り出しましたよね?
なのに、なんで黒木君は平気でぺらぺらと聞きもしないことを喋ってるんだろう。ばかなのかな? それとも人の心が分からない子になってしまったのかな?
「お前、知ってるだろ? 誰が入れたか教えてくれよ」
「俺が知るわけねえだろうがああ!!!」
「だってお前、廊下をずっとうろうろしてたじゃん」
「してねえよ!!!」
「いや、してただろ。用もないのにうろうろと」
「用はありましたあああ!!」
放課後に教室に残ってた女子が、もしも俺の下駄箱にチョコを入れてくれたとして、俺がそれに気付かずに帰ってしまったらその子は深く傷つくだろうし最悪の場合チョコを回収してしまうかもしれない。
そういった悲劇を未然に防ぐために巡回を強化していただけですが何か?
「俺、部活から帰ってきたばっかだったからよく見てなかったんだよ。誰がいたんだよ、教室に」
「だからなんで俺がそんなこと知ってるんだよ、ばーかばーか。そん時教室には青山さんと赤井さんと白石さんしか残ってなかったし!!」
「おう、その三人か。みんな結構かわいいじゃん」
結構じゃねえよ。めちゃめちゃかわいいよ、ばーーか。
すらっとしたスタイルのいいモデルみたいな体型の青山さんと、運動部に入っていて元気で明るい赤井さん、それにおっとりとした天然癒し系の白石さん。このクジ、どれを引いても全くはずれなしじゃねえかよ!
「どうすりゃこのチョコが誰からのものか、分かると思う?」
なんだ、こいつ。俺に聞くんじゃねえよ。
「青山さんと赤井さんと白石さん。その三人の誰がくれたんだろうな」
だから聞くんじゃねえって言ってんだろ!
「メッセージの筆跡と学級日誌の筆跡とか比べたらいいんじゃねえのか、くそが!!」
「おう、なるほどな」
黒木は頷いて立ち上がると、黒板の横の棚に立てかけられた学級日誌を手に取った。
「全然思いつかなかったぜ。やっぱり紺野、頭切れるな」
俺が切れてるのはてめえにだよ。っていうか全然思いつかなかったって、すげえばかだな。
「どれどれ、三人の筆跡は、と」
黒木は学級日誌をぱらぱらとめくり、それから唸った。
「今月は白石さんしか日直やってねえな。青山さんと赤井さんの分はねえぞ」
「ああ?」
覗き込んでみると、確かに先月の日誌は担任に回収されてしまっていた。青山さんと赤井さんは今月、まだ日直が回ってきていない。
「とりあえず白石さんの字じゃねえな。っつうか白石さんの字、イメージと違うな」
黒木の言う通り、白石さんの字は意外に乱雑で、メッセージの可愛い文字とは似ても似つかなかった。
「残るは二人か。でもこれじゃもう手掛かりもねえし、分かんねえな」
黒木がそう言ってため息をつく。
「青山さんか、赤井さんか。さすがの紺野もこれ以上は分かんねえだろ?」
なんだこいつ。脳みその代わりに川底のヘドロでも詰まってんのか。
「メッセージをよく読めよ、くそが」
「メッセージ?」
黒木が便箋を手に取る。
「これがどうかしたか? 名前も書いてねえし、筆跡だって追えなかったじゃねえか」
「赤井さんの席はどこだよ、くそが!」
俺はそう言いながら教卓の前の机を指差した。
「赤井さんの席あそこだぞ! あんな前の席から授業中にずっと一番後ろのお前を見てたら、すげえヤバい女だろうが! 赤井さんじゃなくてヤバいさんになっちまうだろうが!!」
「あ、そうか」
黒木は改めて便箋に目を落とす。
いつも授業中に見てるの、気付いてる?
メッセージにはそう書かれていた。赤井さんの席では、授業中に黒木なんて見ることはできないのだ。
「ということは、つまり」
黒木はそう言いながら、自分の席の二つ横の席に目を向ける。
そう。そこは、青山さんの席だ。
「うそだ!!」
俺は叫んだ。
「青山さんのわけない!!」
「だってお前が言ったんだろうが」
黒木が困った顔をする。
「教室に残ってたのは青山さんと赤井さんと白石さんだけで、白石さんでも赤井さんでもないって」
「そうだけど! そうだけども!!」
理屈で割り切れることの方が世の中には少ないんだよ! 世界は人間の感情のエネルギーで動いてるんだよ! お前みたいなばかには分かんないだろうけど!!
「そうか。青山さんがくれたのか」
黒木は複雑な表情で机の上の小箱を見た。
「どうしようかな」
は?
何が?
「うーん……」
え、何だこいつ。
嘘でしょ。なんで青山さんにチョコもらって嬉しそうじゃないの?
脳の代わりに詰まってる川底のヘドロが誤作動か接触不良起こしてるの?
「いや、俺、実はさあ……」
黒木が何か、おそらく俺にとっては一円の得にもならないであろう打ち明け話をしてこようとした時だった。
がらり、と教室のドアが開き、一人の女子が姿を見せた。
「あ」
黒木が目を丸くする。
「緑川さん」
「あれ、黒木。まだ残ってたの」
緑川さんはちょっと慌てたようにそう言うと、ふくよかな身体を揺らして教室に入ってきて、黒木の机に置かれた小箱を見て、あ、と言った。
そこで足を止めて、黒木を見つめている。
黒木も何かを感じたように緑川さんを見つめ返す。
緑川さんはルックスとか体型とかはまあそのあれだが、ええと、よく言えば明るいと言い換えることも可能ながさつな性格で話しやすいと言えば話しやすい、それによって男子からの人気を一身に集めることは決してない女子だったのだが、そう言えば前に、緑川って意外とかわいい字書くんだよな、とか話題になったことがある。
まさか。
俺はまだ机に置かれたままだった学級日誌を掴むと、ぱらぱらとめくった。
緑川さんの書いたページを開く。
ビンゴ。
まさにメッセージと同じ筆跡だった。
かわいいな、緑川さんの字。くそ。
そういや緑川さん、授業中に振り返って後ろの席の金子とよく話してたわ。
あれ、金子に話しかけながら黒木のこと見てたのか。
っていうか、今までどこにいたんだよ緑川さん。さっきも教室にいなかったじゃん。
「私、黒木が帰ってくるの見て、チョコを下駄箱にいれてからトイレで時間潰してたんだけど」
緑川さんがそう言いながら髪を指でくりんくりんする。
「まだ残ってたなんて思わなかった」
「え。じゃあこのチョコ、緑川さんが」
黒木が言った。その顔を見て、俺は確信する。
黒木もビンゴじゃん。
何だ、こいつら。両想いかよ。
あ、そうか。
不意に俺は悟った。
そうか。こういう時に言えばいいのか。
俺は笑顔で黒木の肩を叩いた。
「リア充、爆発しろ」
それから俺のことなどもはや存在もしていないかのように無視して見つめ合う二人を残して、俺は教室を出た。
さあ、家に帰って母さんが買ってきた板チョコでも食うか。
そんなことを考えながら玄関まで歩き、自分の下駄箱を開ける。
そしてそのままの姿勢で固まった。
上の段に、小さな箱が入っている。
それは、どう見てもチョコレートの箱で。
「ぐお……」
変な声が出た。
え?
誰からのチョコレート?
青山さん?
赤井さん?
白石さん?
三人の顔が頭の中でぐるぐると回る。
どうやら、今日はまだまだ家には帰れそうにない。