第三話 Where am I?
目が覚めると、知らない天井がそこにあった。
重たい頭を抱えて上体を起こす。ぼやける眼で辺りを見渡す。ログハウスの中、丸太と藁と布を組み合わせて作った簡易ベッドで俺は寝かされていたらしいことがわかった。
そのままぼんやりしていると、生木の新鮮な香りに交じって、野菜の煮えたいい香りが漂ってくる。と、同時に腹が鳴った。
「腹が減るということは生きている証拠じゃな」
カーテンがかかっただけの簡易的な仕切りから顔を覗かせたのは、小柄な老人。
毛量の少ない白髪に、クタクタになった赤いベレー帽、アジアの民族衣装に似た、カラフルな刺繍とツギハギだらけの羽織を着た、何処にでもいそうな、皴だらけで目の細い老人だった。
「あなたが助けてくださったのですか?」
尋ねると、
「とりあえず、そこの服着てこっち来な」
と言って姿を消した。
よく見なくとも、俺は全裸だった。
ベッドの脇に畳まれていた服を借りる。
サイズは肩周りが少々キツめで、質感もガサつく。麻でできた、素朴な服だ。借りる以上、文句は言ってられない。
さっさと整え、カーテンをくぐって隣の部屋へ。
どうやらそこは居間のようで、六畳間程の空間を机や椅子、暖炉が設置され、壁には狩猟用の道具や木製の食器等が並んでいた。どれも手作りの温かさが漂う。中には獲物の角か牙だろうか、鋭く長い代物も大事そうに掛けられている。
老人は小さな厨房で、何か小さな獣を解体していた。
「期待させといて悪いが、もう少し待っとれ」
手際よく肉を切り分けると、内臓もろとも鍋に放り込んだ。
何ともワイルドな調理か。現代的な料理に慣れ過ぎて、かなり新鮮な光景だ。
程なくして、独特な獣臭が混じり始めた。
「ご老人。私に手伝えることはありませんか」
何気ない一言。
そこで彼の手が止まり、振り向かずにこう言った。
「お前さん、何様のつもりじゃ?」
凍てつく言葉だった。
「失礼しました。私にできることがあれば、何なりとお申し付けください」
そう言って頭を下げる。
この緊張感にはどこか懐かしさを感じてしまう。
「……。いい。そこの席に座っておれ」
「……はい」
言われるがまま、部屋の真ん中にある、丸太と切り株で作られたテーブルセットに腰かけた。自然と背筋が伸びる。
コトコト煮込むこと十数分。その間、会話もなく、スープの煮え立つ音だけが部屋に流れる。
この絶妙な緊張感が、時間の流れをゆっくりに感じさせた。
「待たせたな」
「ありがとうございます」
待ちに待ったその言葉と共に、木の器に盛られたスープが、美味しそうな湯気を立てて運び込まれた。
対面に老人も腰掛ける。
俺は老人が手を付けるのを待った。
「とりあえず食え」
彼はその様子を見て不思議そうに言った。
「……いただきます」
手を合わせ、これまた小さな木製のスプーンで掬う。
ところどころ粗削りされた手作り感のあるスプーン。だが、皿状の部分はとても滑らかな円形をしている。
「変わった祈り方をするの」
「ええ、まぁ」
老人からスープに目を移す。
脂の浮いた透明感の強いスープ。湯気は野菜と肉のよく煮えた香りを運んでいた。
だが、俺は知っている。
それを味わうことができないことを。
少し冷ましてから、それをゆっくり口に運ぶ。
クタクタになった野菜、少々臭みの残った獣肉。スープの温かさや、ハーブの香りを感じることはできる。だが、味は死んでいた。
それが、人を捨て、人智を超えた力を手に入れた代償である。
「……」
それでも、一口、また一口と運ぶたび、食道を伝う熱いものが俺の中をくすぐる。
生きている。
ただ、それを感じた。
「もう少し味わって……ん?」
老人が細い眼をさらに縮める。
「何泣いてるんじゃ」
「は?」
目を摩ると、手が濡れる感覚。俺は何故か泣いていた。
「何故、ですかね」
「さぁな」
老人は興味なさげに器に口を付ける。
そして、僅かに沈黙。
「ご老人。一つ伺ってもよいですか?」
「ワシは『ご老人』なんて名前ではない」
間髪入れずに指摘が飛ぶ。
「ではなんとお呼びしましょう?」
彼は瞳を閉じ、数拍待つと、
「『ギュエロ』とでも呼んでくれ」
そう言って再びスープに戻った。
「承知しました。ギュエロさん」
「その気持ち悪い喋り方も止めてくれ」
「わ、わかった」
どうも敬語自体気に入らなかったらしい。
「で、ギュエロさん。聞いてもいいか?」
「なんじゃ」
「俺は、どうして生きているんだ?」
俺はあの時、確実に死んだ筈だ。そういう『奥の手』というものを今回使った。そうでもしなければ勝てなかったからだ。だが、こうしてまた死に損なった。
「こんな環境で、医療設備が整っているとは思えない。さらに不自然なのは、俺の身体に傷がない。これはどういうことだ?」
「聞きたいことは一つじゃなかったのか?」
「す、すまない」
不可解なことが多すぎて、つい疑問をぶつけてしまった。
「その答えは……」
「その答えは?」
ギュエロは腕を組み、じっくり考える。
俺が生きている理由。もしかしたらそこに、このわけのわからない現状を解き明かすヒントがあるかもしれない。
「その答えは……そのうち分かるじゃろ」
「なんだそら!」
つい大声が出てしまった。
「元気は取り戻せたようじゃの」
「そう……みたいだ」
腹も心も満たされた感覚。非常に久しい感覚だ。
記憶は曖昧だが、コロシアムに居たころはまともな飯にありつけず、基本的に檻の中に入れられていた。寝るか、食べるか、闘うか。それしか俺にはできなかったのだ。
だが、脱出のきっかけをくれた少年は無事にミッションをこなせたのだろうか。少しだけ自分に余裕が出てくると、そちらが心配になってきた。
「そういえば、あのコロシアムに居た他の怪物たちはどうなったんだ?」
あの場所で闘わされていたのは俺だけではなかった。あの時、俺は観客側を焼き払い、最期に自爆をした。爆心地にいた俺が生きているのであれば、他の怪物たちが生きている可能性もある。あの魔界貴族と名乗った男も生きている可能性はあるが……。
考えを巡らせていた時、皴だらけの指を伸ばして老人は言った。
「お前さんの言う怪物とやらは、そいつのことかい?」
玄関の扉を吹き飛ばして現れたのは、角の生えた狼だった。
「こいつ、やっぱり生きていたか!」
コロシアムの檻の中で見たことがある。
黒い毛皮に捻じれた一対の角を持つ、狼に似た四足獣。体高もおおよそ一メートルはあるだろう。もちろん、俺の知識にこんな生物はいない。
「この辺じゃ見かけん魔物じゃな。連れてこられたもんが何かしらの原因で逃げ出したのかのぅ?」
そう言ってジロリと俺の方を見る。
「ギュエロさん、下がっていてくれ。俺が何とかする」
台所の大振りな肉切り包丁と鍋の蓋を盾代わりで手に取り、構える。
怪物は低い唸り声を鳴らしつつ、こちらの出方を覗っているようだった。
「見た目通り、知能は高そうだな」
こちらもうかつに手は出さない。
得体のしれない相手である以上、今回も油断はできないのだ。
一歩、一歩と間合いを図りながら両者睨み合う。
と、先に仕掛けたのは怪物だった。
物凄く早い加速。だが、見切れない程ではない。訓練で磨いた動体視力で相手の動きに合わせて盾で受け流しに入る。その隙にカウンターで包丁を突き立てようとした。が。
「ぐぬ!」
受け流しきれない力が盾を通じて感じる。とてもではないが、カウンターは打てそうにない。
「何だこれ。またあの違和感? それだけ鈍っているってことか?」
この獣のスピード、目測の重量では考えられない威力の攻撃だった。
受け流せなかったわけではないが、力を押さえることで精一杯。
怪物は攻撃の手を緩めるつもりはないらしく、ラッシュは止まらない。
「何故だ! 全然歯が立たない!」
攻撃を受けるたびに行動パターンが読めてきた。避けるだけでなく、併せてカウンターをぶつけられるようにもなったが、三発目の時点で刃こぼれしてしまっている。
「どうやら、お前さんはいい歳してレベルが相当低いようじゃな」
「レベル? またそれか。何なんだ、それ」
隙を見ながら訪ねると、こんな状況にも拘らず笑いながら答えた。
「ほっほっほ。能力の差と言った方がわかりやすいかの」
「はい?」
「センスは抜群じゃのに、レベルが低いとは気持ち悪いの……」
そう言ってギュエロは、部屋の隅に立てかけられた杖を拾う。
「やれやれ。こうも早くヒントを教えることになるとは。よ~く見ておれよ!」
そのままブツブツと何かを呟いた後、
「伏せるのじゃ! それ、ライトニング!」
と、効きなれない単語を叫んだ。
と同時に、眩い光と熱が襲う。
「ぬぁ!?」
慌てて顔を覆い、目を守る。
そしてすぐに目を開けると、玄関が巨大な穴を空けてしまっており、怪物の姿すらも消えていた。
「なんだ、これ」
「これが、ヒントじゃ。ふぃ……疲れた」
彼はドカッと椅子に腰かけ、優雅にお茶を啜った。
そこには、目が点になった俺だけが取り残されていた。