8 昏い執着心
悠李がアサンの屋敷で過ごすことになって数日が過ぎた。
エルドリスカ邸は魔術師の屋敷に相応しく、不思議なものであふれている。
独りでに床を掃いている箒、その箒の傍で辺りを照らしてあげているランプ。夕食の準備なのか、食器も、どこかの部屋へとすいすい宙を移動していった。
(あまり深く考えないようにしよう、そう、ここは『リスティーアの乙女』の世界なんだから)
悠李は、アサンに大陸地図を見せてもらってから、この世界が乙女ゲームの中であるとやっと確信した。
アサンという名前、魔法によって薄々は感じ取っていたが、認めたくなかったのだ。
(確か、ゲーム主人公のライバルキャラは、一緒に召喚された少女だった。聖女ではない彼女は神官たちに追いやられ、街で酷い目に合う。その恨みや、聖女への嫉妬から、魔族と手を組みヒロインを妨害する――。そして、最後には、攻略対象と戦い死んでしまったはず)
つまり、ヒロインのライバルキャラの立ち位置は、悠李の状況ととても似ているのだ。
今回はたまたま、アサンが助けてくれたため同じ展開にはならなかったが、一歩間違えば自分もそうなっていたかもしれない。
「……死なずに元の世界へ帰るためにも、気を引き締めなきゃ。それにしても、この御屋敷、人の気配がないわよね」
自由に過ごしても良い、というアサンの言葉を受け、悠李はアサンが執務で居ない間、屋敷を探索していた。本来なら、あまり人の家をうろつくのは良くないが、ファン心が疼いてしまい、つい色々と見て回ってしまう。と言っても、廊下を歩いてドアが開いている部屋をちらりと見るだけだ。
「ゲームではあまりアサンの屋敷とか、詳しく見れなかったからなあ」
悠李が独り言を呟いていると、背後から突風が吹く。
驚いて振り返ると、そこには屋敷の主が立っていた。裾の埃を払うしぐさをして、アサンは悠李に向き直る。
「び、びっくりした。お帰りなさい」
「また驚かせてしまってすみません。ただいま戻りました」
アサンのアメジストのような瞳が、優しく細められた。
「ユウリ様、お食事にいたしますか?」
「良いんですか? 何か、お手伝いします」
「いいえ、私が準備します。どうぞ、ゆっくり寛いでいてください」
と、このように、悠李がなにか手伝おうとしても、アサンは全て断ってしまう。
洗濯も掃除も、何もかも彼の魔法で済んでしまうのだ。唯一手伝えそうな料理も、アサンが自ら作ってくれるため悠李は何もすることがない。
(しかも、料理も完璧だし)
このように尽くされていると、悠李も逆に罪悪感に蝕まれてしまう。
――悠李のために何かするアサンは、いつも幸福そうだ。だから悠李も、強く言うことが出来ない。
「そうだ、ユウリ様にお渡ししたいものが御座います」
「え」
「こちらを」
そう言って渡されたのは、小さな箱。
促されたので開けてみると、アサンが普段つけているものと、よく似たデザインの指輪が入っていた。柔らかな輪郭の造りは、見るからに高級そうだ。
「魔力が宿っている指輪で、持ち主が危険なときに身を守ります。何かあれば、私にもわかるので、すぐ駆けつけることが出来ます」
「こんなに良い品、いただくことはできません」
「ユウリ様のために用意した品です、受け取って頂けなければ。さあ、私がつけて差し上げます」
自然な動作でアサンは悠李の手を取った。
右手の薬指に、指輪が嵌められる。
(アサンの手、凄くきれい。爪もぴかぴかだし、指も長い……って何考えてるの)
頬を染める悠李を見て、アサンが機嫌よく微笑んだ。
「本当は、左手の薬指に嵌めたかったのですが」
「へっ?」
悠李がアサンを見上げる。
アサンは悠李をじっと見つめて、彼女の心を惑わせた。
(アサンって、こんな冗談言うキャラだったっけ……?)
「あは……、アサン様ったら、女性にそんな冗談言ったら勘違いされますよ」
「冗談?」
背の高いアサンが、身をかがめた。耳にかけられた美しい黒髪が、さらりと頬に落ちる。
そして、アサンは悠李の手を取ったまま、ゆっくり指先に口づけた。
「振り払わられないと……愚かな私は、期待してしまいます」
深く、鮮やかに、見上げた紫の瞳が煌めいた。
その目には、はっきりと欲望が宿っている。凄まじい色香に、悠李は動くことが出来ない。心臓がバクバクと音を立て、手には汗がにじんだ。
さりげない動作で、アサンが悠李の髪を耳にかけ、距離を更に縮めた。その時である。
パリン。
どこかで何かが割れる音がした。
「!」
どうやら、魔法で運ばれていた食器が落ちて割れてしまったようだった。すっ、と2人の距離が離れる。悠李は息をついて、緊張を解いた。
「私としたことが、集中を切らすなんて」
アサンが片手で顔を覆い、俯いている。その耳は赤い。悠李はその姿を見て、自らの耳も赤くさせた。
「貴女様の事となると……私は……」
(びっくり、した)
悠李は深く動揺していた。ゲームの中のキャラであると頭ではわかっているのに、心が追い付かない。現実世界では見たこともない、何もかも完璧な男性に甘い言葉をささやかれたら、簡単に落ちてしまいそうになる。
だが、元の世界に戻るのであれば、恋をしてはいけない。
(アサンの冗談に決まってる。だから、平静でいないと)
その後、何もなかったかのように悠李は振る舞い、共に食事をとった。アサンは何か言いたげだったが、悠李は気づかないフリをした。
(早く、元の世界に戻るための方法を探そう)