うじがわく
半年間後には出て行ってくれるのが条件という安アパート。
敷金礼金無し。
二万五千円。
六畳風呂、台所無し。
共同トイレ。
住所は東京下町に住み始める。
「若草荘」壱号室
条件こそ付いてるが、取り敢えずの宿を手に入れた。
なんでもマンションに立て直すまで繋ぎだそうだ。
上京したばかりで手荷物さえない。
僕は寝ていると、なんか違和感を感じずにはいられなかった。
体が重い。
しかしそれは気のせいだろう。
その日、僕は口から目から鼻から蛆が湧きだす。
「うわっ」僕は目を覚ました。
汗びっしょりだ。
心拍数も早い。
「夢か」
ヤバい夢を見たな。
事故物件なんだろうか?
毎晩のように変な夢にうなされる。
家賃を削ったせいか。
とは言え、東京に知り合いもなく、金がない。
住むところなんてどうでもいい。
僕は取り敢えずバイトを探すことにした。
このアパートじたい、つなぎで入室したに過ぎない。
だからと言ってネット喫茶暮らしは嫌だし。
それで敷金礼金無しで激安物件と言うと、ここしかなかった。
取り敢えず半年後までに貯金をして、他の場所に移るしかない。
場所的には学生が多いせいで学生向けのバイトがいくつもあった。
その夜も蛆虫が体中の穴という穴から湧き出す夢を見た。
目を覚ますと、汗。
頭が割れそうなほど痛い。
トタンの屋根は直接太陽をうけて焼けているせいか、部屋の中は外よりはるかに熱い。
どうも体が重い。熱中症か?
ボーっとする頭で僕は外に出た。
風が涼しい。
でも頭痛は消えない。
一日中扇風機を浴びてるせいかもしれない。
理由は分からないが扇風機を浴びて寝て死ぬなんて話、よく聞いた。
僕は今日もバイトを探した。
とはいえ、三十歳を過ぎてのバイト先は予想以上に見つからない。
ほとんどが学生を求めていたからだ。
しかも誰もが知る一流大学出と言うのがネックになっているのは間違いなさそうだ。
「どうしてこんないい大学出てて、こんなバイトを」
「いくらでもいい就職先があると思うよ」と多くの面接官が言葉を濁す。
まあ三十過ぎのおじさんを断る理由なのかもしれないが、どこに行っても同じことを言われる。
逆に何かあるのかと疑いたいぐらいだ。
三十過ぎのバイト探しがこれほど大変だとは。
ほんの最近まで一流企業で働いていたせいもある。
「給料は安くなるよ、大丈夫?」
金銭面の話か。
金に興味は薄い。
およその物欲が皆無に等しい。
仕事しかない生活が嫌だから、バイトを探しているのだ。
仕事、仕事。毎日サービス残業。
僕のための時間は一切なかった。
僕は心を病みかけていた。
僕はレースを外れ、自分探しをしてみようと考えた。
そうして引き籠ること二年半。
貯金も尽きようとしていた。
僕は答えのない日々に、答えを求めて上京したのだ。
バイトは決まらない。
やっと見つかった仕事が日雇いの短期バイト。
包装業務。
ただひたすら手を動かす日々。
しかもやたらと遠い。
電車に揺られること往復2時間。
これで本当に人手不足なんだろうか?
そう思いながら、引っ越し費用を貯めるために、一日五時間のバイト、二時間の通勤を始めた。
帰るとラジオしかない。
テレビは引っ越してからでいい。
パソコンは持っているが、ネット環境の無いアパートではただの箱と化している。
僕はやることがなさ過ぎて、ラジオを聴きながら、寝る日々を送っていた。
今日も体中を蛆虫が這いまわる夢を見た。
目を覚ますと、足元をムカデが歩いてる。
僕は思わず足を振って払いのけた。
本当にこの部屋、何もないのか。
誰か自殺したりしてないのか。
そう思わずにいられない。
短期のバイトはすぐに終わった。
結局何を包んでいたかもわからなかった。
封筒に商品と手紙みたいなものを入れ続ける仕事。
五日で四万円を手に入れた。
暇はいっぱいあった。
僕はクーラーのある図書館を避暑地代わりにして過ごしていた。
とはいえ、毎日長居するのも気が引ける。
小さな図書館があちこちにあるので、そこを回るのがルーティン化していた。
新聞の求人欄、求人雑誌も見飽きた。
仕事がないわけじゃない。
選んでるから見つからないのも確かだ。
しかし僕は二度とノイローゼになる気はない。
同じような業種は嫌だ。
かと言って、肉体労働も自信がない。
考えてみると理不尽なことばかりだ。
思い出すと怒りしかこみあげてこない。
なのに職場から離れることができなかった。
多くがレールから外れることを恐れている。
だからまかり通っている世界なのだ。
今日は脳みそが割れ、脳がはみ出す夢を見た。
脳みそに蛆が湧き、それを見てる僕がいる。
夢は自分を俯瞰から見ているな、いつも。
いくら霊を信じてないとは言え、さすがにこう毎日ではやってられない。
僕はその原因を探ろうと考えた。
僕は町のことについて調べてみることにした。
この村の伝承。お化けの話のようなものを探す。
すると僕のアパートの辺りで昔心中事件があったことが新聞に載っていた。
昭和二三年八月。
太宰治が心中したのはいつだろう。
確か同じ年の六月十三日。
「人間失格」を描き終えてすぐのことのはず。
相手は愛人の山崎富栄。
とすればいわゆる太宰に感化されての心中事件といったところか?
ウェルテル効果ってやつか。
ゲーテの「若きウェルテルの悩み」だったっけ?
太宰が殺したのは愛人だけじゃない。読者も道連れにしたんだな。
アパートの名が書いてある。
「若草荘」壱号室。
今住んでるアパートじゃないか。
この当時の新聞にはプライバシーという概念ないのだろう。
壱号室まで書いてある。
あの夢…。
霊の仕業と言うのか?
僕は元来霊とかいう怪奇現象を全く信じていない。
そのせいかここに至っても、単なる偶然と思ってしまう。
このアパートは元々、暗渠の上に家が建っている。
玉川の上に蓋をして、その下を川が流れているのだ。
僕は真下を流れる暗渠に入ってみたくなった。
神田川に合流する場所から暗渠に入ることが可能だった。
とは言え立ち入り禁止の看板。
それを越え、僕は暗渠を先に進んだ。
GPSを使うことで大体の位置を把握できた。
そして僕はアパートの真下付近にたどり着いた。
川は干上がっていたが、水は少し流れていた。
暗闇以外に、他は何もない。
懐中電灯で照らしながら、僕はスコップで穴を掘ってみた。
表面の砂地は上流から流れてきた砂なのだろう。
その下に石ころ。
さらにその下を僕は掘り進めた。
何があるか分からない。
何もないかもしれない。
でも僕は彫り続けた。
と、スコップが固いものに当たる。
大きな石だろうか。
僕は周辺から掘り返してみた。
「うん、骨だ」
変色しているが、それが骨だとすぐに理解した。
人間の骨。
やっぱりここに骨が埋められている。
なぜだろうと思う。
あの時、骨を見ても驚きもせず、出てきた骨がすぐに犬とか猫とかじゃなく、人間のものだと理解した。
悪夢のせいだろうか。
今にして思うと、何かに導かれていたとしか思えない。
「遺跡発掘のようだ」
骨が二体抱き合うように寝かされていた。
それは骨格の違いから男と女の骨だと悟った。
これは心中した二人の骨か?
僕は暗渠を出てから警察に行かず、図書館に行くことにした。
どうしても調べたいことがあったからだ。
警察に連絡するのはそれからでもいい。
今まで七十年近く見つからなかったのだ。
一日や二日遅れても問題はないだろう。
この暗渠は月に何度か、清掃員が入り、上流から流れてくるごみを処理するらしい。
万が一のため彼らに発見され、疑われないように僕は骨を埋め戻した。
あの心中の記事だ。
死体は心中した二人のものに間違いないだろう。
七十年ぶりに僕が掘り起こしたのか。
新聞を見つけ、記事を読み返す。
心中事件の首謀者は橘博司。
女は日野菊。
橘は秋田の酒蔵の一人息子で…。
僕は図書館のパソコンで、秋田の酒蔵を調べてみた。
今もその酒蔵は続いている。
橘幸平。
今の当主だ。
今はインターネット社会のせいか、いろんなことが簡単に調べられる。
酒蔵について調べてみれば、橘家の生い立ちがある程度読み解ける。
酒蔵は江戸時代から続いている。
先祖を辿る家系図。
その中に博司を探す。
橘博司は昭和六十一年まで生きていた。
一体どういうことだろう。
確か、心中したのは博司ではなかったのか?
博司は一人息子で、他に子供はいない。
心中で死んだはずの人間が、なぜ生きているのか。
博司のテレビ取材の映像も残っている。
ごくごく平凡なお金持ちのお年寄りである。
博司の父豪太は県会議員も務めているというから、秋田周辺では名士であったに違いない。
橘博司の東京での経歴だけはっきりとしない。
博司の経歴は酒蔵に勤めて以降のものしか出てこない。
僕は素人なりに、橘博司の東京での足跡を追ってみた。
「心中事件について調べてるんですが」と言っても、昔過ぎてその頃を知るお年寄りにさえあえない。
僕は一体何のためにこんなことをしてるのだろうと、迷い始めると夢に蛆が現れる。
なんなんだ、この蛆は。
誰かの呪いか。
じゃあ他を当たってくれよ。
僕は少しノイローゼ気味になっていた。
そんな中、僕の噂を聞き付けた老人が、連絡をくれた。
図書館員の紹介だ。
僕は老人の家を訪ねた。
僕の唯一の手掛かり。
「ああ、あの心中事件ね」
老人は小さな声で話し始めた。
「橘は知ってるよ。戦前、共産主義にかぶれてたからね」
「赤ですか?」
「今の言葉で言うなんちゃって赤だな。赤がかっこよく見えたんだろうね。お坊ちゃんだから」
「金持ちですしね」
「でも憲兵にビビッて、すぐやめたけどね」
当時は治安維持法で多くの共産主義者が拷問を受けている。
「まあ、橘にしてみれば女にもてたくて赤気取ってただけだし、命を懸けるほどの信念はなかったんだよ」
そう言って老人は本を取り出した。
「橘の文章を読んでみるかい」
それはいわゆる赤の同人誌「文芸戦地」。
「戦旗」や「種をまく人」のような本であろう。
文は稚拙。内容も模倣っぽい。確かににわか共産主義者と言えなくもない。
「戦後、その反動かね、愚連隊みたいな連中と仲良くしてたな」
橘ほどの金持ちなら、戦後、農地改革やなんかで没落したはず。
なのに今も酒蔵を営んでいる。
「親がほら、政治家かなんかだったから暇さえあればやってきてたな」
戦前と前後、橘にも当然違いが訪れたはずである。
家出少年は不良になったのだろうか。
「とは言え、その後いわゆるアプレゲールっていうのかな、僕もあの頃の思想にハマってたんだけど」
アプレゲール…。聴いたことがある。
終戦で価値観を失った若者が無秩序に犯罪を起こす。
太陽クラブ事件なんかは有名だが…。
「当時は太宰の後を追って死ぬ若者も多かったし」
老人は言葉を詰まらせていた。
何か共感するところがあるのだろうか。
太宰信者なのか?
「橘の心中事件は新聞に載ったんだっけ?」
老人は薄笑いを浮かべた。
「はい載ってます」
僕は記事のコピーを見せた。
「うん、この記事は間違ってるね」
「橘君は自殺はしてないはずだよ」
「確か、橘君じゃなくてこの女子の方に別の恋人ができて、心中したんじゃなかったっけ」
その後訂正記事は載っていない。
僕は考えた。
あの二つの死体は橘博司ではなく、別人。
それも心中でなく、心中に見せかけた殺人。
この条件に当てはまる犯人は橘博司しかいない。
女に別の男ができ、怒った橘は二人を刺殺し、心中を装って殺した。
その後女に引き取り手がいないことをいいことに、川に二人を心中したように抱き合った状態で遺棄したのではないだろうか。
その後橘は地元に戻り、家を継いだ。
橘の父の政治力を借りたのかどうかは分からないが、隠蔽工作をしたとしても驚くに値しない。
心中の男は行き倒れの男。
戦後すぐで、まだ食料も安定してなかった時期。
行き倒れの人は容易に手に入った。
玉川上水でなくても、死体はそこらへんに転がっていただろう。
ほとんどが身寄りがなく、心配する者もいない連中だ。
震災孤児が街に溢れていた。
だから彼らに頼んで、死体を調達してもらったのかもしれない。
僕は当時を知る孤児を探した。
年齢は七十五前後くらい。
数人に聞くも、そんな話は知らないと言う。
やっぱり無理か。
例え知ってても口を閉ざしてるかもしれないし。
と、あの頃の孤児の一人に出会った。
僕の推理を話すと、急に思い出したかのように、喋り始めた。
「ああ、いたな、そんな人。チョコくれたから覚えてる」
身なりのしっかりしたお金持ちが、チョコ一枚と死体を交換してくれたらしい。
老人は過去を探るように目を泳がせている。
「だから僕らは死体を見つけ、若葉荘の前の川に死体を埋めた」
これは決定的証言だ。
間違いなくそのお金持ちが犯行に関わっている。
そしてそれは橘にちがいない。
僕が橘の写真を見せても、老人は全く覚えてないと言う。
それも仕方ない。
時間は七十年以上たっているのだ。
ただあの男の死体は身寄りのない青年の行き倒れ死体で間違いないだろう。
橘が少年たちをつかって、死体を見つけ、少年たちに埋めさえた。
それが真実のようだ。
その夜、僕は警察に電話した。
警察官は疑いの目で僕を見、立ち入り禁止の看板を見て、「ここを入っていったのか」と僕を責めた。
そして二体の骨を見た途端、僕の逃げ道を塞ぐように立ち尽くした。
そうだ、第一発見者の僕は犯人と疑われているのだ。
しかしその警官たちの行動さえ、僕には想定内だった。
きっと警官は僕を疑うだろう。
三十過ぎのアルバイト暮らし。
それだけで心証は悪い。
多くの冤罪がこうして生まれてきたに違いない。
見た目だけの印象で。
目の前には二体の白骨。
状況は明らかに最悪。
なのにわざわざ通報する馬鹿がいるだろうか?
それが至って常識的判断だ。
ところが警官にはそんな解釈は微塵も感じられない。
推理小説なんかで見かけるいわゆるダメ警官。
骨を見た瞬間から、彼らは僕を犯人と決めつけ、語調が威圧的になり、命令形になっていた。
僕は両脇を固められ、暗渠を出た。
そして立ち入り禁止の場所に入ったと言うことで拘留されることになった。
僕が殺してないから安心はしている。
ましていわんやあの死体、七十年も前のものだ。
唯一心配してるのは、警察機構がそのことを見抜けないこと。
ちゃんと炭素年代測定法のようなちょっと金がかかるような作業をしてくれるだろうか。
僕はそれを取り調べで分からせてやらないといけなかった。
「なぜあんな暗渠に入ったんだ」
取り調べは二人。四十くらいの中年と二十代の新人。
あと書記が一人。
「穴を掘った場所が一か所しかない」
取り敢えず四十男が主導権を持っているようだ。
多分名前を言ったはずなんだが、覚えていない。
どうも最近物忘れが激しい。
幸い、過去のことはよく覚えているが、最近のことがちょっと曖昧になりがちだ。
四十男と二十男で認識している。
「まるでそこに死体があることを分かっているかのようにね」
四十男は僕をじっと見つめてる。
「君がやったのかね」
そう、警察は最初から僕が犯人で、二人の遺体を埋めたのだと決めつけていた。
「あの死体は誰だ」
二十男はまだ口を開いてない。
「はっきりと断定はできませんが、僕が調べた限りにおいては」と僕は図書館で調べたことを話した。
と、ここからのやり取りはそれから何度も繰り返されることとなる。
「君はその女性とは知り合いかね」
「いいえ、全くの他人です」
「わざわざ調べ物までして、犯人探しかね」
「いえ、毎晩毎晩怪異、いえ、殺された彼女の霊が僕に訴えてきていたとしか」
「君は霊媒か何かか」
「いいえ」
「それは夢なんだろ。君は夢を信じて穴を掘った」
「そうです」
「毎晩蛆虫に襲われる夢を見た」
「そうです。だからいろいろ調べたんです」
と、四十代の警官は外に出た。
「お化けか」
四十男はじっと考え込んでいた。
「精神状態が安定してるんでしょうか?」
マジックミラー越しに観察していた警官が言う。
彼も二十代っぽい。がたいのでかい男である。
柔道男と言ったところか。
「一応精神鑑定をしてみるか」と四十男。
「そんなの、無駄ですよ。予算を削れと言われてるじゃないですか」
「そうだな」
「状況証拠だけだと、明らかにクロだな」
「そうですよ」
「ただ、じゃあ、あの死体は誰の死体だ?」
「奴の周りに失踪者はいない」
拘留はすでに1週間に及んでいた。
その間事件についての捜査は続いている。
死体が誰かすら分からない。
「通りすがりのカップルを殺したんですよ。そして金を盗んだ」
「証拠は?」
「だから自供させるんですよ」
「でも引っかかるんだよな」
四十男は少し悩んでいた。
「いつものことじゃないですか」
そう、警官の通知表は検挙数。
見た感じ男はロクでもない男だ。
安定した職にも就かずブラブラとしてる。
それだけで十分な罪だ。
税金を納め、国のために尽くすことを怠っている。
例え冤罪だとしても、疑われるような日常を送ってるのだ。
証言をさせてしまえばそれでいい。
「私がやりました」と証言させてしまえばどうにでもなる。
それに俺には感じる、いわゆる刑事の勘というやつだ。
柔道をしていて相手の行動が先読みできる時がある。
獣の勘だ。戦うものの本能だ。
悪いやつはすぐに見抜ける。
獣の発する殺気が俺にはわかる。
「大丈夫ですよ、彼が犯人ですよ」柔道男は言った。
なぜだろう。
その時は不自然に感じなかったのだが、僕は壁の向こうの警官の会話が筒抜けになっていた。
聴こえるはずのない声が聴こえる。
これは僕がやっぱり精神を病んでいるからなのか?
俺は何か薬を常用してるのだろうか?
最近の頭痛の原因も薬を飲んでない副作用だろうか?
「お前が殺したんだろ、あの二人」
最近取り調べの口調が暴力的に変わってきていた。
最近はロクに眠らせてもらっていない。
頭がボーっとする。
頭痛もひどい。
でも意識はまだはっきりしている。
警察は強盗殺人で事件を処理するつもりのようだ。
僕はなんでそうなるのか、疑問だった。
「岡警視が今月いっぱいで九州に赴任になる。その前にこの事件を手みあげにしたいんだ。だから早く自供してくれ」
四十男は思わず本音を漏らした。
ふと弱気になっていた心に人間らしさを取り戻させる一言だった。
その言葉を聞いた時から僕は黙秘することにした。
警察は僕の逮捕在りきで話が進んでいる。
あれほど訴え続けている炭素年代測定法もする気がないようだ。
だとしたら僕は70年も前の呪いによって犯人にされようとしている。
じゃあ呪いは僕に向けられるものだったのか?
いやそうじゃないだろ。
呪いは真犯人に向けられるはずだ。
むしろ僕はその手助けをしていると言っていい。
これじゃおかしいではないか。
僕にはおおよその犯人像が浮かんでいた。
酒蔵のダメ息子。橘博司。
やつが犯人で…。
突然僕は脳が割れそうな痛みに襲われた。
誰かが僕の頭をかち割ったような痛みだ。
その時僕は閃きにも似た映像が浮かんで消えた。
男の顔。
それは見覚えのある顔。
誰だ。そう、ネットで見た写真。
犯人は橘博司じゃないんじゃないかと。
橘博司の父、酒蔵の橘豪太。
どうも考え事をすると、脳みそが痛い。
ヤバいな、頭が痛いと言うより、脳が痛い。
耳から口から脳みそが溶けて出てくるようだ。
僕は拘置場で現場の風景を思い出していた。
骨にはいっぱいの刺し傷のあとがあった。
強烈な憎しみによる犯行。
心中に見せかけ、犯人は逃げた。
僕は弁護士に頼んで、炭素年代測定法を骨にしてもらうことにした。
そしてその認可が下りた。
当然のことだが、死体は七十年前、太宰治が心中したのと同時期のものと分かった。
弁護士はその結果を警察に提出した。
これで僕は釈放されると思った。
しかし現実はそうではなかった。
僕は相変わらず拘留されたままだった。
橘家は名士で、そんな名士が人殺しなんかするわけもなく…。
こんな状況証拠だらけの事件で、取り調べなどしたら、その岡とかいう警視の出世にも響きかねないのだろう。
だから僕が犠牲になるのか。
そんなのは嫌だ。
僕は元々蛆が湧く夢を取り除きたかっただけなのに。
第一回公判。
炭素年代測定法の曖昧さについて検察は主張し、さらにDNA鑑定の結果を持ち出してきた。
死体についた僕のDNAを証拠として提出した。
それは僕が死体を掘り出した時に触れたせいである。
警察はミスを犯さない。
これは絶対だ。
検挙した犯人は全て有罪。
もしそれを許せば、警視としての俺の未来に汚名がつく。
だからどんなことがあっても、証拠を捏造しても、犯人は有罪にしなければいけない。
今月末までに犯人を落とせ。
それが命令だった。
そして証拠不十分で起訴に踏み切った。
四月になると警視は本庁に戻っていった。
検察の主張はこうである。
「犯人は少し精神を病んでいる。
お化けに操られてると、信じてる。
この一点だけで犯人の有罪は間違いようがない。」
岡警視はその日から毎晩のように蛆虫に包まれる夢を見た。
蛆は全身を包み込み、警視を締め付ける。
目が覚めた後も全身が痛い。
全身に跡がついて赤くなっていた。
それはまるで縛られていたかのように見えた。
夢のまんまじゃないか。
次の日もその次の日も同じ夢を見た。
それは犯人が証言していたのと同じ夢。
全身が蛆に包まれ、穴という穴から蛆が湧いてくる夢。
それはマゴットセラピーの域を超えている。
それは壊死した場所に蛆を這わせ、食べてもらうことで直す医療法。
戦争映画などでために見る治療法。
警視は毎晩毎晩蛆に包まれる夢にうなされた。
公判中に僕は急に釈放された。
理由は分からない。
ただ警視がそれを支持したらしい。
検挙した事件を検察が覆すとは、よほどのことがない限りあり得ない。
噂によると岡警視の両親が事故に会い、妻が死に、子供が死んだのだと言う。
さすがの警視も恐ろしくなったようであった。
その後、僕は呼び出された。
どうも最近脳みそが痛い。
痛い?
脳みそには痛点がないと言うのに。
「あの骨の主と僕は他人ですよ。
何で調べてたかですって、
悪夢を見るんで。」
「そうか」と四十男。
「僕も見たんですが、心中なら、傷口は一つ、せいぜい2つくらいでしょう。でもあの死体。何か所も刺されてる。あれは心中じゃなくて、殺人事件ですよね」
警察は決めつけ捜査を行ったせいで、刺し傷についてあまり正確には調べてなかった。
自供が全てという風潮があったからだ。
疑わしきは締め上げろ。そして自供をとれ。そうすれば犯人は検挙できる。
「犯人は橘豪太だと思いますよ」
僕が助言すると、四十男はにやりと笑った。
「どちらにしても時効だ」
実に事務的処理だ。
「もう八十年ほど前のことだ。迷宮入りなんだよ」
警察は権力者には味方なのだ。
橘豪太は、当時の心中事件に絡めて犯行を行った。
その後死体を川に埋めたとは考えられないだろうか。
霊はそれを伝えたかったのか?
僕の中ではまだ事件は終わってなかった。
なぜなら今も蛆が湧く夢を見るからだ。
僕は新聞を調べてみる。
あの後男の死体だけは身内が引き取りに来たと言う。
しかし女の死体は引き取り手がなく、河へ放棄された。
いや、それじゃ、死体は一つのはず。
死体が二つあるのはおかしいではないか?
一体どういうことだ。
僕は寝ていると、蛆虫が目から湧き出す夢を見る。
どういうことだ。
僕にどうしてほしいと言うのか。
と、図書館からの帰り道、僕は何者かに刺される。
腹から内臓が溢れ出し、僕はそれを必死で抑えた。
消えそうな意識の中で僕は全身を蛆虫に覆われた。
目が覚めると、僕はアパートにいた。
確か刺されたはず。
なのに傷は塞がってる。
あれは夢なんかじゃない。
確かに刺された。
あれは僕への脅しではなのか。
橘家が証拠隠滅を図ったのか。
それとも僕に対する脅しか。
とにかく僕の腹に傷跡がある。
しかし痛みはない。
蛆だ。
マゴットセラピーか?
と、僕の貯金に十万円の振り込みがあった。
警察からの振り込みだ。
一体これは何の金だろう。
口封じの金か。
警察に聞いてみるか?
いや、とにかく拘留されてたせいで僕はバイトすらできなかった。
もうすぐこのアパートを出ていかないといけないのに。
背に腹は代えられないということか。
僕はその金を引っ越し費用に充てることにした。
場所はすぐ近くの安アパートだ。
相変わらず四畳半の風呂無し物件。
築四五年か。
前よりは新しい。
僕がアパートを引き払い、別のアパートに引っ越すと、夢は見なくなった。
しかしすべての物事がうまく行きすぎてはいまいか。
七十年ほど前の出来事なのに、まるで何ものかに導かれるように謎が解けていった。
図書館に行こうと思ったのも自分だが、それさえ怪異に操られていたのかもしれない。
まだ疑問は残っている。
心中と見せかけられて殺されたのはいったい誰か?
行き倒れの人間。
いや、怪異。
だとしたら誰の呪いか分かるまい。
一番信用できないのは警察だ。
とは言え今夜見た夢はある意味啓示のように思えた。
僕はもう一度警察を訪れた。
そして見慣れた警官に、刑事を呼び出してもらった。
すでに警視はいない。
栄転したのだろう。
「で夢をを見たから来たと言うんだね」
「そうです」
「しかしねえ、警察が夢なんかを信じて行動したなんて知れたら、週刊誌に何を書かれるか分からないからね」
「とにかく、もう一か所別の場所に死体が埋まってるんじゃないかと思うんです」
「相手は元県会議員だしね。しかも息子が地盤を引き継いでいるからね」
「じゃあ、僕が掘ります」
「いや、また警察に捕まる気かね」
「じゃあ、許可をください、あの暗渠に入る許可を」
「どうせ時効だしな…」
「時効だから逆にいいじゃないですか。県会議員さんには迷惑はかけません」
「かかるんだよね。噂でも殺人を犯してたとしたらね」
何とも煮え切らない。
「いやあ、遅れてすまん」と一人の男が現れた。
僕はこうなることを予想して、出版社を訪れていた。
そして話をし、記者と待ち合わせをしていたのだ。
「一人で乗り込むなんて、無謀じゃないか」
「遅刻するからですよ」
男は2時間以上遅れてやってきた。
「週刊春眠」の田所です。
名刺を見ると、刑事の顔が急に強張った。
今までの会話の録音です。
僕はボイスレコーダーを渡した。
「実は昨日僕はナイフで刺されたんです。被害届を出していいですか」
これは口封じだ。
じゃあ誰がそれを望むのか。
きっと現県会議員橘氏以外考えられない。
「いやあ、今まで田所のことを調べてたよ」
「遅刻のいいわけですか」
「いや、地元まで行ってきたんだ」
「僕は傷口を写真にとられた」
「君を刺した男はいるかい」
田所は四枚の写真を並べた。
その中に犯人と思われる男がいた。
僕は指をさす。
「矢島か。やくざだ」
「こいつが犯人だから」
田所は警察に写真とプロフィールのコピーを渡した。
多分今頃渋谷のサウナにいるはず。
「そこまでわかるんですか」
「怪異だよ。俺にも怪異がついてる」
僕には怪異は見えなかった。
「怪異が耳打ちしてくれるんだ」
「あとは警察の仕事だな」
僕たちは警察を出た。
怪異の呪いは橘だろうね。
そのやくざは全身蛆だらけで発見された。
蛆が消えると白骨化していた。
それでもDNA鑑定で矢島と分かった。
橘の雇った殺し屋?
その後、橘家で事件が起きた。
息子が家中の家族を切り殺したのだと言う。
怪異の仕業か?
事件は精神を病んだ息子の大量殺人で片付いた。
ただ精神鑑定の結果、息子は正常と判断された。
「何者かに操られてやった」
それが息子の証言だった。
岡警視の場合とよく似ている。
恨みを果たすために僕を呼びつけ、犯人を捜し、怪異が皆殺しにした。
それが真相なのか?
しかし少年たちが集めてきたのはそもそも死体だったはず。
なぜ橘家に恨みを持つのだろう。
やっぱりあの死体、女の彼氏だったのかもしれない。
戦災孤児で彼を取り囲んでみんなで一斉にガラスの破片で一気に刺した。
ガラスの破片だからなかなか絶命せず、最後に虫の息になった時に橘が現れて、とどめを刺した。
そして死体を川に捨てに行った。
あの時穴は全部で二つ掘った。
「人を呪わば穴二つというだろ。だからもう一つ掘ってくれ」
僕らは躊躇いなく二つの穴を掘り、死体を埋めた。
全てが終わり、「もう一つの穴は?」と僕が問うと、
男は突然、僕に切りかかってきた。
銃を取り出し、三発撃った。
子供たちが倒れてく。
男に殺されると思った少年が男に跳びかかる。
その隙に僕は必死で逃げた。
最後に銃声がした。
それ以降僕は怖くてあそこには近づいていない。
そして誰にも話していない。
僕はいたんだ、あの現場に。
震災孤児の一人なのか…。
頭が痛い。
脳みそが飛び出しそうな痛みだ。
多分、みんな死ぬな。
それで呪いは完了だろ。
きっと成仏するさ。
気がついていた。
僕はもう怪異を感じることができなくなっていることを。
怪異にとっての僕の役割はもう終わったのだ。
僕は生き残った。
その日以降蛆の夢は一度も見ていない。
とは言え、橘家で起きる惨劇の数々はテレビで毎日報じられていた。
警官が身辺警護をしているにもかかわらず、突然の心臓発作。
橘家の子供が発狂。
ナイフを手に家族を惨殺と、横溝正史ばりの事件に週刊誌は大喜び。
そして橘家から誰もいなくなった。
事件はこうして幕がひかれた。
気になるのはいまだに僕に刑事の見張りが二人ついてることだ。
彼らが僕のアリバイを証明してくれているが、警察はどうしても僕を犯人にしたいようである。
僕はと言えば事件に巻き込まれてもバイト代が出るわけでもなく、家賃を払うためにバイトの日々。
幸いだったのは週刊春眠のバイトを紹介してもらったことだ。
バイトなのに実に忙しく働かされる。
ブラックバイトぎりぎりだ。
しかし僕にとっては僕のアリバイを証明してくれる時間であった。
結局僕は何を求めて東京に来たのか、分からなくなっていた。
警察も僕を犯人にすることは諦めたようだった。
警官場二人、僕の家に現れた。
四十男と二十男ではなかった。
新しい刑事か?
どちらも四十歳くらい。
ノッポと、禿げ。
「今日もバイトだろ」
警察は僕がバイトをしてることを知っている。
まだ尾行をしてるのだろうか。
「心中事件に関して、彼はシロだよ」と禿げ。
「多分ね」ノッポ。
「どうやってこれでやつに事件を擦り付けるんだろうね、上は」
「さあ。面子とかいう厄介なもののせいで彼の人生はきっとむちゃくちゃにされるんだろうね」
「なら俺たちで守るしかないだろ、絶対シロなんだから」
「君の出身は宮城だね」とノッポ。
「はい」
「君の両親は生きてるのかい」
「いいえ」
「地震で死んだのかい」
「いいえ」
「じゃあなんで」
「地震後のストレスだと思いますよ」
「他人事みたいだね」
「何が言いたいんですか」
「君は宮城警察からも疑われてるね」
「無罪ですけどね」
「本当に無罪なのか?」
「はい」
「君は家に引きこもっていた。いや、介護をしてたんだね、二年近く」
「はい」
「で、介護に疲れて二人を殺した」
警察はそういって僕を問い詰めた。
「でも僕は殺してないんですよ」
「確かに二人とも死因が甲状腺癌なんだよ」
「君は被爆者か」
「ええ、みんな被爆者です。しかし国が決めた枠から外れていて」
「君じたいはどうなんだ」
「多分僕もやがて癌を発症するでしょう」
「東京に出てきたのは、両親が死んで身軽になったからですよ」
「遺産が入ったのは偶然で、誰が欲しがるって言うんですか、あんな土地」
そうだ、僕が東京に来た理由を思い出した。
僕は政府から目をつけられていたのだ。
原発被害を訴え、甲状腺癌と被爆の関係を声高に訴えていたからだ。
ある時は国会議事堂の前で声を上げ、街頭で被爆の苦しみを訴えた。
「僕は福島で被爆し、両親を亡くしました」
そう言うと数名が立ち止まって話を聴いてくれた。
僕はずっと警察から目をつけられていたのだ。
「僕が何をしたいかって?さあ…、分かりません」
「僕らは君を助けたいんだよ。いや、こんなこと言っても信じないか。ただ僕らは公安の人間だ。そして僕は君のことを信じてる」
ノッポは唾を飛ばしながら、そう言った。
釈放されると、いや、取り調べが終わると、いや尋問か…。
とにかく僕の身元引受人は今、週刊春眠の田所だった。
飲みの席で、田所は言った。
「君に一つ提案があるんだよ。君自身に起こったことを記事にまとめてみないか」
それは啓示のように聞こえた。
僕は怒りの言葉を文章に置き換えていった。
「君の記事が紙面を飾るよ」
その日橘氏の血筋がみんな死に絶えた。
僕の記事は差し替えになった。
そして僕が逮捕された。
犯人は僕だと言うのだ。
「証拠として週刊春眠に掲載予定だった記事を提出します」
僕の憎しみが殺人に結び付いたようにしか見えなかった。
「死刑を言い渡す」
裁判官がそう言うと、雷が鳴り響き、裁判所に避雷した。
停電だ。
暗闇の中、僕は怪異の存在を実感していた。
そして電気がつくと、そこは血まみれになっていた。
僕以外の人間が皆、血まみれになって死んでいた。
僕は怪異の存在が消えていくのを感じた。
しかしすべては怪異の仕業だろう。
「これで僕の死刑は確定したな」
僕はその場所を離れることにした。
裁判所を出て、僕は東京の町をさ迷った。
もう僕の逃げ場所はない。
玉川上水の橋の上に立っていた。
「死ぬか」
まるで太宰が手招きしてるかのようだった。
後悔はない。
無いと言えばウソになる。
今なお使い続けられる原子力発電所。
それが消えた世界を見届ける。
それが僕の目指した夢だった。
しかしそれも叶いそうにない。
ならばこれからの僕の未来は傷つくばかりで、闇しかない。
いっそ地獄の方が闇が浅いのかもしれない。
玉川の先の方に三途の川への入り口があるらしい。
僕は玉川に身を投げた。
それが全ての終わりであり、始まりでもあった。
僕の遺書じみた文章は書籍化され、そこにあった内容は、原発被害者の悲劇として取り上げられるようになったからだ。
しかし壁は高くやすやすと壊れるものじゃない。
日本の原発付近で、呪いの言葉が聴こえると、噂が立ち始めた。
原発が海岸線沿いにつくられるせいで風の音がそう聞こえるだけだと言う説。
それに反してその声は実に三十キロ四方に聴こえるようになっていた。
「黄泉の扉が開いた時世界が呪いで滅びるだろう」
彼の書いた小説の題名は何を暗示してるのか?
テレビではオカルト扱いされたが、それがかえって原発の恐怖を植え付けることになった。
最近広島や長崎でケロイドのお化けが出ると子供たちが騒ぎ始めてる。
原爆の屍が夜な夜な歩いていると言うのだ。
警察は取り締まりを強めるが、いたずらではないようで、逮捕者はいまだゼロである。
いわゆる都市伝説の一種だろうと結論付けられたが、目撃談も多く、今まで原爆について語らなかった多くの市民が原爆に興味を持ち出したのは間違いなかった。
そして日本中に蛆が湧く夢にうなされる人々が増える事態となった。
蛆が湧く夢怖さに眠れずにいる人が事故を起こしたり、自殺をしたりと社会現象化する中、政府は異例の事態に追い込まれる。日本中の原発前に人々が押し寄せたのだ。
それだけじゃない。
原発に関わる役人、政治家、あらゆる人々も毎晩蛆の夢にうなされる事態におちいっていた。
日本中でお祓いが行われたが、効果はなく、ついには原発停止という事態に追い込まれた。
僕の死体が玉川上水で発見された。
僕の死体はすでに白骨化が始まっており、頭を真っ二つに割られていた。
ナタのようなもので殴られた跡だ。
頭部は蛆が湧き脳が蛆だらけになっていた。
僕は殺されたのだ。
僕にはっきりとした記憶はない。
ただ記憶の断片が残っているだけだった。
そうだ、僕が怪異なのだ。
それだけは確かのようだ。
蛆が湧いたせいか記憶も曖昧だが、怪異の僕はいったい何をしたと言うのか。
橘家を呪い殺したのは…。
記憶は曖昧だが、違うとも言い切れない。
頭を割られたせいだ。
じゃないとこんなに記憶が混乱するはずもない。
僕がやったのか。
多分そうに違いない。
僕はこれで成仏できたのか。
まだこの世界でさ迷っていると言うのに。
僕は僕の死体を見ながら、あと何をしないといけないのか、考えていた。
こうしてこの世をさ迷っていると言うことは僕にはまだやり残していることがあるからだろう。
と、僕は意識を失うように、それはまるで眠りにつくかのように、堕ちていくと言うのが正しい表現なのか。
僕は再び目を覚ました。
死体は焼かれたようだが、今なお僕はさ迷っていた。
待てよ、僕は確か心中を手伝い穴を掘った…夢を見たのか…。
分からない。
記憶が曖昧だ。
いつ殺されたのか?
ナタを振りかざしたのは…。
やくざの…、違う、橘豪太だ。
もう殺した。
七十年も前の話だ。
あとは誰が生き残っていると言うのか。
蛆が湧く夢を見るすべての人間が僕のターゲットなのか。
ほんと、記憶が曖昧だ。
さすがに脳を割られたのはまずい。
僕は何が正しくて、誰がいけないのかさえ分からない。
取り敢えず目印は蛆。
蛆が湧いた夢を見た人間は僕には蛆だらけの姿をして歩いてる。
蛆をこの世から抹消する。
それが今の僕の使命。
今日も二人闇の世界に葬った。
目覚めると消える記憶。
僕はもう人間として考える能力さえないのかもしれない。
全てを怪異に乗っ取られつつあった。
僕の使命は蛆をなくすことだけ。
目を覚ますたび僕は怪異に近づいてる。
今度が最後かもしれない。
完全なる怪異になってしまう日も近い。
政治家が何人も死んでいるらしい。
僕がやったのかもしれないし、僕じゃないのかもしれない。
とにかく今日も二人。
僕はもう眠いんだ。
寝かせてくれ。
起きたら何も考えられなくなってた方がいい。
きっとその方が僕にとっては幸せだろう。