Bring Me The Horizon―5
喫茶店でテレビを観たり、ゴミ箱に捨てられた新聞のクロスワードを解いたりして、午後は無為に過ごした。そして夕闇が迫る頃、俺はロックヘヴンを後にした。彼女のいないキャブは、軽快な足取りで一二〇号線を進んでいった。ロックヘヴンを離れるにつれて、道は勾配がきつくなり、山間を流れる川に沿ってうねりを描き始めた。あたりは人家もなく静まりかえっていて、生命の気配といえば、ヘッドライトに照らされて暗闇の中でうごめく鹿くらいのものだった。
頭上にはずっしりとした曇天がのしかかり、その下には全てを飲み込む暗闇が広がっていた。その暗闇をヘッドライトで切り裂いて、俺はひたすらキャブを走らせた。車内にはチャールズ・ミンガスの『Cジャムブルース』が大音量で流れていた。ラサーン・ローランド・カークが奏でる驚異的なソロを聴きながら、俺はハンドルの縁を叩いてリズムを取っていた。ネオンサインのように、浮かんでは消えていくジェニファーの顔を必死に振り払おうと、音楽に意識を集中させた。だが、意識すればするほど音楽の波は遠のいていき、テナーサックスのジョージ・アダムスが暴走し始めた頃には、俺の頭は彼女のことでいっぱいになっていた。生まれて初めて夢を語った女の顔が、浮かんでは消えていく。俺はダイナーで歌う彼女の姿を思い描いた。スポットライトを浴びた彼女が、ほの暗い客席に向かって、ピアノの伴奏で歌う姿を。
「そういえば、あいつの歌声、聴いたことなかったな……」
誰に言う当てもなく、俺はぼそっと独りごちた。二十分越えのセッションが終わり、車内が静寂に満たされた頃、ヘッドライトの向こう側に黒いバンが停まっているのが見えた。近づいてみると、バンが停まっている場所は、緩やかなカーブの外側にはみ出した形で設置されているレストエリアだった。それは、駐車スペースに街灯が突っ立っただけの粗末な空間だった。俺はバンから少し離れた場所にキャブを停めて、タバコに火をつけた。
坂道の中腹に位置したこのレストエリアは展望台の役割も兼ねていて、ガードレールの袂に立つと、小さな街の夜景が一望できた。俺は、眼下に広がる風景を眺めながら、ゆっくりと煙を吸い込んだ。紫煙に混じって樹木の香りが鼻孔を突き抜けた。やや湿気を帯びた山の香りが全身に染み渡り、俺は陶然とした気分になった。その時、どこからともなく男の声が聞こえてきた。
「……だから、突然どうしたってんだよ、えぇ? 自分から言い寄ってきて、こんなところで突然降ろしてくれとは、あんたの気がしれねぇよ」
「わがまま言って悪かったと思ってる。ここでいいから、早く降ろしてよ。お願いだから……」
俺は自分の耳を疑った。黒いバンの中から聞こえてきたその声は、紛う方なく彼女の声だった。驚きと興奮で心拍数は跳ね上がり、吸い込んだ紫煙が肺で暴れて、俺は咳き込んだ。すると、バンの中で何やら動く気配がして、突然声は聞こえなくなった。
「おい、ジェニファー! あんたなんだろ? そこにいるんだろ?」
俺は暗闇に佇むバンに向かって叫んだ。だが、応答はなく、バンはじっと沈黙を保っていた。俺はまっすぐバンに近づいていって、後部座席のスライドドアに手をかけた。一瞬の逡巡の後、ドアを開けようと腕に力をこめたその刹那、おもむろにドアが開いた。中から拳が現れて俺の眉間に命中し、視界が大きくぐらついた。視界が定まった時には、覆面姿の男が俺に向かって突進していて、俺は為す術もなく男に押し倒された。男が拳を振り上げる。俺は咄嗟に両腕で顔を守った。
「……!! やめて、お願い、やめて!!」
視界の外から彼女の悲鳴が聞こえた。俺の中で何かが蠢いた。全身をアドレナリンが駆け巡り、怒りがこみ上げて恐怖を押し殺す。俺はガードしていた腕を解くと、振り下ろされた拳をひっつかんで、男を横倒しにした。地面に倒れた男の顔を蹴り上げる。車内灯が眩しいバンの中に、彼女は居た。美しい金髪は乱れ、頬には赤い斑点が浮かび、疲弊しきった表情を浮かべている彼女が。その時、助手席からもう一人、男が現れた。俺は雄叫びを上げながら体当たりし、男の頭をサイドミラーに押しつけた。鏡がひび割れ、男の頬に紅い筋を刻んだ。俺はジェニファーの手を取ってバンから降ろした。俺たちは、しっかりと手を握り合ったまま、脇目も振らずにキャブへ走った。背後からは男の怒声が聞こえていた。俺たちは素早くキャブに乗り込むと、目いっぱいアクセルを踏み込んでその場を逃げ出した。急勾配の緩やかなカーブを、時速六二マイルで突き進む。
「あのね……現金が……!! 大量の現金があったの!」
助手席に座ったジェニファーが、息を弾ませて言った。俺はバックミラーに鋭い一瞥をくべながら、
「昨日の銀行強盗だと?」
「間違いないわ! あれだけの現金、見たことないもの」
「どうして奴らと一緒に?」
「あんたと別れてからヒッチハイクしたのよ。あ、後ろ――」
彼女がそう言うや否や、サイドミラーに先刻のバンが映った。俺は更にアクセルを踏み込んだ。坂道は峠を越えて、下り坂に差し掛かった。GPSには蛇のように曲がりくねった道が示されていた。あたりには蕭条たる静寂が広がり、純然たる漆黒が大きく口を広げていた。対向車はもとより、獣一匹通らぬ山道だった。
「あんた、どうするつもりよ?」
大きなS字カーブを曲がった遠心力で、ジェニファーは窓の方へ上体を傾けた。俺は横目でGPSを確認した。数百メートル先には、巨大なヘアピンカーブが待ち受けている。
「あんたのお望み通り、地獄へ連れってやるのさ」
「|あんた正気《Are You CRAZY》!?」
そう叫ぶ彼女の口吻には、先日と同じ浮き足だった気色が滲み出ていた。
「俺たちの命が神様にとって、どれくらいの価値があるのか、それを見極めようじゃねぇか」
俺は正面を見据えながら、ウインクした。彼女はとびっきりの笑顔でもって、それに応えた。
「あんたって、最高にクレイジーね!」
俺たちの背後には、奴らのヘッドライトが迫りつつあった。小さなカーブでブレーキを踏むたびに、奴らと俺たちの距離はじりじりと縮まっていた。暗闇の中で白くほの光る速度計は、時速七四マイルを示していた。タイヤのグリップ性能が悲鳴を上げるのもお構いなしで、俺たちは下り坂をぐんぐんと加速していった。死の門はすぐそこまで迫っている。速度が速まるにつれて、ハンドルの抑制がきかなくなってきた。視界の一切が、俺たちの背後にあった。何もかもが、俺たちの背後にあった――――曇天も、森も、ニューヨークも、しみったれた日常も、夢への曙光も。何もかもが。俺は彼女にちらりと目配せして合図を送った。背後のバンがあと数メートルまで迫った時、ヘッドライトの先に巨大なヘアピンカーブが現れた。
「こんな世界、くたばっちまえ!」
ありったけの大声で叫びながら、ブレーキを踏んだ。後ろから鈍い音が響き、車体が押し出される。ハンドルを目いっぱい右に切る。ギアをローに落としてサイドブレーキを引く。都会慣れしたひ弱なエンジンが泣き叫んだが、知ったこっちゃない。慟哭が絶叫に変わった刹那、クラッチを離す。素早くハンドルを逆に切る。トヨタ・カムリハイブリッドは、白煙をたなびかせてヘアピンカーブを疾駆した。背後から突っ込んだ奴らのバンは獲物を取り損ない、高速でスピンした。五臓六腑が非現実的な方向に捻れ、脳内が激しく揺さぶられる。背後から衝撃音が聞こえる。俺たちのキャブは、何とかカーブを持ちこたえたが、勢いを殺しきれずにコントロールを失った。約二四〇度回転した後、ガードレールを一〇〇メートルほど擦過し、ようやく停車した。
俺は朦朧としながら、助手席を見やった。ジェニファーはひび割れた窓ガラスにむかって頭を垂れていた。
「おい、大丈夫か……?」
俺は身をよじって、助手席へにじり寄った。ボサボサに乱れた彼女の金髪を指でそっとかき分けると、彼女は薄笑いを浮かべていた。こめかみに刻まれた切り傷から、紅い血がじわっと湧き出していた。やがて彼女は肩を震わせて哄笑し始めた。
「生きてる…… あたしたち、まだ生きてる ……!!」
「あぁ、そうだな。地獄に行きそびれた」
俺たちはすっかり歪んだドアを蹴破って、急勾配の坂道に降り立った。俺は急に思い立って、座席の下から筆箱とスケッチブックを引っ張り出した。
「そういえば、まだあんたの名前聞いてなかったわ」
ふらふらとした足取りで歩き出しながら、彼女が言った。「エドワードだ」と答えて握手を求めると、「じゃあ、エドでいいわね」と呟いて、彼女も手を差し出した。俺たちは改めて挨拶を交わすと、互いの手をぎゅっと握りしめた。地平線の彼方から朝日が顔を覗かせて、空に淡いグラデーションを描いていた。眼下に横たわる小さな湖の上で、陽光が反射してちらちらと輝いている。俺は朝陽に染まった彼女の横顔を、じっと見つめた。
「なぁ、ジェニー。あんたの歌、聴かせてくれないか?」
彼女は照れくさそうに俯きながら、ぼそっと呟いた。
「あんたの絵、見せてくれる……?」
どこまでも続く下り坂を、俺たちは歩き始めた。




