Bring Me The Horizon―4
目が覚めると、窓の外には白銀の世界が広がっていた。安普請のモーテルを白雪が覆い隠し、眩い暁光がその上で反射して踊っていた。俺はシャワーを浴びて髭を剃ると、ジェニファーの部屋の扉を叩いた。しばらくすると、微かに開いた扉の隙間から起き抜けのジェニファーが顔を覗かせた。彼女は「支度するから待ってて」と呟くと、再び奥へと引っ込んだ。
吐息が白くなるくらい冷え冷えとした屋外で、俺はタバコを二本吸った。ようやくジェニファーが現れた頃には、ライターをつけるのも億劫になるくらい、手がかじかんでいた。俺たちは無言のままキャブに乗り込み、駅前の広場へ向かった。広場には噴水を中心に、屋台がいくつも軒を連ねていた。色とりどりの屋台は、中古車販売店にかけられた旗のように、声高にその存在を主張していた。広場の奥には、急ごしらえの舞台があって、屈託のない女学生たちがチアダンスを披露していた 。
俺たちは手近な屋台でホットドッグとコーヒーを買って、舞台の方へと足を向けた。この間、俺たちは一言も言葉を交わさなかったけれど、お互いに何を求めているのかは分かっていた。姪の晴れ舞台を見に、はるばるやって来た夫婦のように、さも当然といった素振りで人混みを押し分けて進んでいく。ちょうど舞台の中央を見渡せる位置へ達すると、俺たちは歩みを止めた。舞台の上では、チアダンスが終わって演劇が始まるところだった。美術スタッフがセットを組み立てている間に、進行役の男子学生がジョークを披露して場をつなげた。
『Mom、洗面台にあった僕のピルケース知らない?』
(母、台所で朝食を作りながら)『父さんが頭痛いってうるさいもんだから、持っていかせたの』
『Oh……Seriously?』
『あ、ちょっと待って。今ちょうど父さんから電話だわ……まだ痛むの? あら、そう……』
『どうしたの、Mom?』
『 父さん、はち切れそうなくらい痛いんですって!』
最前列にいた老夫婦が、ひときわ大きな笑い声をあげた。ちらりとジェニファーを見やると、しらけた面持ちで黙々とホットドッグを頬張っていた。やがて照明が消え、幕が上がった。『欲望という名の電車』という題材は、学祭で上演するにはいささか高尚すぎるような気もしたけれど、主役二人の演技はなかなか堂に入っていて、ことのほか引き込まれてしまった。気がつけばホットドッグは乾燥してパサパサになっていたし、俺のコーヒーはジェニファーの手に渡っていた。
上演時間の都合からストーリー中途は省略されていたが、ブランチ役の体当たりな演技を前にして、そんなのは物の数ではなかった。やがて、ストーリーはクライマックスに差し掛かり、いよいよブランチが自身の過去をミッチに暴露するという段になって、俺はジェニファーがいないことに気付いた。人垣を押し分けながら、あたり一面を見渡してみたが、目に飛び込んでくるのは屈託のない笑顔をたたえた学生連中と、彼らの雄姿を拝みにきた家族の姿ばかりだった。
次第に足取りは落ち着きを失い、胸が早鐘を打ち始めた。血眼になって彼女を探す俺の脳裏に、一抹の不安がよぎった。最悪の状況が思い浮かんでは、それを必死に振り払う。色や匂いまで感じ取れるほど鮮明なそれは、掃いたそばから舞い落ちてくる枯れ葉のような執拗さでもって俺を苦しめた。不安と焦燥がピークに達した時、劇が終幕を迎え、歓声の渦が俺を飲み込んだ。方々から口笛と拍手が飛び交い、あたりは祝祭的なムードで満たされた。歓喜の坩堝から少し離れたところ、広場の中心に据えられた噴水の縁に、彼女はぽつんと座っていた。パーティー会場の片隅に佇んで、平静を装いながら祝賀的な空気だけはきっちり堪能している学生のように。俺は黙って彼女の隣に腰を下ろし、すっかり冷え切った彼女の手をそっと握った。しばらくの間、俺たちは無言のまま、ただじっと行き交う人々を眺めていた。
「なんだか、昔の自分を見てるみたいで、居ても立ってもいられなくって……」
「あの子たち、眩しいくらいに輝いてたな。怖いものなんか何もない、何でもかかってきやがれって顔してやがる。羨ましいよ、まったく」
背後で吹き上げた噴水が、風に揺られふわりと宙を舞った。細かい水しぶきは陽光を含んでキラキラと輝きながら、俺たちの頭上をそっと湿らせた。
「私もカンザスに居た頃はそうだった。小さな田舎町、それが私のすべてだった。ブロードウェイなんて、テレビの中にしか存在しない架空の街。でも、一歩外の世界へ踏み出すと、誰も私のことなんて見向きもしてくれなかった。どれだけ必死にアピールしても、ニューヨークの雑踏は容赦なく私の声を飲み込んでしまうの」
そう呟くと、彼女はすっかり冷め切ったコーヒーをぐいと煽った。
「それがニューヨーク流の挨拶なのさ。自由と正義を胸に抱き、夢を追う人々が星の数ほどいるってのに、みんな自分のことで頭がいっぱいなんだ」
「仕事の合間を縫って演技の勉強をして、朝起きてから発声練習をして、休みの日は図書館で有名な役者が書いた文献に目を通して…… プライベートレッスンを受ければ、もっと上達するのは分かっているけれど、お金のない私にそんな贅沢は許されなかった。これだけ必死に努力してるんだから、少しくらい認めてくれたっていいじゃないの……
私の何がいけないっていうのよ」
こみ上げる感情を抑えきれなくなって、ジェニファーは両手で顔を覆い、うなだれ込んだ。俺は、震える彼女の肩にそっと手を回した。広場を往来する人々が、怪訝そうな視線を俺たちに投げかけた。俺と目があった小さな男の子は、とっさに白い風船を手放した。灰色の雲底めがけて飛翔していくそれは、マーク・ロスコの抽象画のように、茫々たるコントラストを形成していた。
「なぁジェニー、俺は思うんだ。必要な努力の量ってのは、人によってバラバラなんじゃないかって。運とか、才能とか、そういった類いの下地によって、必要な経験値ってのは変わってくるんじゃないかって。哀しいかな、才能のある奴ってのは一定数いるんだ。こいつだけは俺たちにはどうにもできないんだ」
「何寝ぼけたこと言ってんのよ! 才能なんて万人に等しく配分されてるの。才能に見えてるそれは、血の滲むような努力の表側にすぎないのよ!」
ジェニファーは傲然と立ち上がると、怒りに顔を歪ませながら俺を見下ろした。
「運ですって? できることを全てやり尽くした後で、加算されるボーナス得点――
それが運なの。運が占める割合なんて、全体の一パーセントにも満たないわ! ついでに言うと、あんたのやってることは努力なんて呼べないのよ!」
華奢な体躯からは想像もつかないほど大きな声で、彼女は叫んだ。俺は腹に据えかねて、涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を睨み付けた。
「あんたに俺の何が分かるってんだ、くそったれ!! あんたは俺と同じ穴のムジナなんだよ。この世界を死ぬほど憎んでいながら、そのじつ世界から認めて欲しくてたまらない、どうしようもない夢想家なのさ」
「あたしはあんたと違って、努力している自分に甘んじていないわ! 少なくとも、夢と目標を混同して、いつか叶えばいいとは思ってないし、そのための犠牲は惜しまない。そんな自分を世界で誰よりも信じてる」
「自分を信じるだって? その自分自身から頑なに目をそらし続けているのは、あんたの方じゃないか! あんたは自分が一番だと思ってる。だけどな、そういう奴がニューヨークにはごまんと居るんだ。そんな中で認めてもらうには、時機や運が必要なんだよ。ただひたすらに待つしかないんだ。待っている間に挫折するか、持ちこたえるか、成功の境目ってのは、それだけの違いなんだ」
ジェニファーは空になった紙コップを握り潰し、噴水の中へ放り投げた。そして、ありったけの大声で「くたばれ!」と叫ぶと、踵を返して雑踏の中へ消えていった。激しい怒りが全身からすっと引いていくのを感じながら、俺は水面に漂う紙コップを眺めていた。不規則なリズムで揺れる、くしゃくしゃのそれは、やがて水分を含んでゆっくりと沈んでいった。ちらちらと舞う雪が、俺の鼻先に触れて水滴に変わった。俺はポケットに手を突っ込むと、どこへ行く当てもなく歩き出した。今はただ、何も考えたくなかった。