93.白狼の調教
【ヴァシュタル】
何故、悪魔は皆、魔王の命令に従うのか。悪魔たちの問いかけに、俺は望む答えを出せなかった。王の命令だから従うのだろう。何が違うのか。カナエは、従う者にも意思があると俺に言う。そりゃそうだ。だから、皆、出来損ないの俺に従わないことを選ぶ。絶対の力を持つ魔王の命に従う。簡単なことじゃないか。
「魔王が強いから、従うんだろ」
「てんでダメね」
「悪魔の王はそうだけれど、ニンゲンの国の王はそんなに強かったかしら?」
いつの間にか、俺を責めるメンツに精霊まで加わっている。カナエは、人形のような悪魔に連れられてどこかへ行ってしまった。
「奥方様は緩衝材にと思って巻き込んだけど、まさか犬がここまで酷いと思わなかったわ。陛下も頭を痛めるはずよ」
地べたに座る俺を見下して、ボータレイと呼ばれていた女が頭を振る。精霊は、ふわふわと空中を漂いながら俺を見ていた。精霊は俺と目が合うと、にっこりと笑う。
「頑張って、と愛されし子が応援しているわ」
こいつの言う愛されし子ってのは、カナエのことらしい。この精霊は、魔王ではなくカナエに付き従っているようだ。
「お前は、何故魔王に服従しない?」
「わたし?わたしには愛されし子がいるもの」
愛する存在があるから、何なんだ。聞いた俺が馬鹿だった。精霊の考えはさっぱり分からねぇ。近付く足音に振り向くと、エミリエンヌと呼ばれていた人形が戻ってきたところだった。エミリエンヌは、精霊の姿を見て目を見開く。丸い瞳はガラスのようだ。
「まあ、精霊様までいらっしゃいましたのね。御后様ったら、お優しいんだから」
「愛されし子が願っているから。愛されし子の願いは、わたしの大切な願いよ」
にこにこと笑って、精霊が言う。こいつも、カナエの願い……つまりは命令に従っているってことだ。見ていた限りじゃあ、この精霊は帝国のヤツに力を悪用されたらしい。そこを救い出したのが、恐らくはカナエなんだろう。
「精霊は、カナエに恩返ししてるのか?」
「慎みなさい。奥方様の御名を軽々しく口にするものではないわ」
カナエを名前で呼ぶと、ボータレイが鋭く睨みつけてきた。本人がいた時には名を呼んでいたくせに。そう考えていたら、ごつ、と鈍い音がして視界が回る。追って、後頭部に鈍痛が走った。
「御后様を陛下の下へ送り届けたのは、こうするためでもありますのよ?御后様には、あまり野蛮なところをお見せできませんもの」
声の方を見ると、エミリエンヌがひらひらと片足を揺らして見せる。どうやら、後頭部に蹴りを入れられたようだ。気配すら感じられなかった。悪魔ってのは、どいつもこいつもどうなってやがる。
「御后様は、精霊様を助言のためにお呼びしたのでしょうけれど、ちょうどいいですわ。死なない程度に回復してくださいませんこと?」
「ええ、愛されし子は、魔の狼の子が成長することを願っているもの。死なれてしまっては困るわ。それと、魔の狼の子。わたしは恩返しをしているわけではないの。愛されし子が、愛おしいから願いを汲むのよ」
「意味、分かんねぇよ」
大体、愛おしいってなんだよ。大切?守りたい?そりゃ、俺だってアサギナを守りたい。失うのは嫌だと思うくらいには、大切に思ってる。
「あなたはもしも陛下に、アサギナの民を殺せと言われたら従えますの?」
「俺が?んなこと、従えねぇよ」
「では、陛下がいくら強力な力をもっていても関係ありませんわね。力に怯えているあなたすら従わないのでしょう」
「……そりゃ、そうだけどよ」
王の命令に従うかどうかは、王の力じゃない。じゃあ、何なんだ。エミリエンヌは、静かに微笑んで俺を見た。
「私は、もしも陛下が、仲間である悪魔を殺せと命じられたなら従いますわ」
「そうね。アタシも従うわよ」
ボータレイも、エミリエンヌの言葉に頷く。どうして、そこまで魔王に忠誠を誓える?魔王は力で抑えつけてるわけじゃないんだろう?現に、悪魔は魔王に怯えていない。畏怖の念もあるにはあるだろうが、それよりも……。
そうだ、それよりも、こいつらはもっと深いところで魔王を称えている。尊敬、崇拝、いや違う。命令に従う、その根本にあるものは何だ?そこに気付けと、こいつらは言っているのか?
「お前たちは、魔王が、悪魔を殺せと言うと思うのか?」
「さあ、分かりませんわ。これから先、そのような命を下されるかも、下されないかもしれませんわね」
魔王の考えに共感してるから、ってわけでもないらしい。力でもなく、考えでもない。じゃあ、何だ?魔王の何が、悪魔を従えさせている?
「今、ここであなたとお話をしているのも、私自身は無駄だと思っておりますのよ」
「けれど、お前は従うんだろ?魔王の命令に」
「ええ、それが陛下の命であるならば」
「無駄だと、お前自身は思うのに、か」
「そうですわ。他ならぬ、陛下の命ですもの」
「……魔王は、これが無駄にならないと考えているのか?」
俺の問いかけに、エミリエンヌは微笑んだまま何も言わなかった。エミリエンヌもボータレイも、魔王が俺に期待していることを、俺が成長すると魔王が考えていることを、知っている。己がそう考えていないにも関わらず、俺を育てろという魔王の命令に従う。魔王の決断を、何故否定しない?悪魔であるこいつらの言葉なら、魔王も耳を貸すだろうに。何故、魔王に伝えない?自分の考えとは違うのだろう?
こいつらは、魔王を信じているのか?己の考えよりも強く、魔王を信じているのか?信じているから、自身の考えと違っても命令に従うのか?
「命令に従うのは、魔王の決断を、信じているから、か?」
口に出せば、エミリエンヌは人形の微笑みを濃いものに変えた。ボータレイも俺の答えに頷くように瞼を下ろす。
「当然ですわ。でなくば、この命ごと陛下に捧げるなど、恐ろしくてできるはずもないでしょう?」
「魔王は、全ての悪魔に、信頼されているのか?」
「ええ。陛下は、私たち悪魔の忠誠に応えうる器をもっておりますの。だからこそ、悪魔は陛下に従う。陛下は数多の悪魔を従える」
これが、答えか。俺は、誰にも信頼されていない。だから、誰も従わない。魔王は違う。国を任せるに足る信頼を得ている。ボータレイはようやくね、と呟いてから口を開いた。
「今回の戦も、陛下は一人の悪魔も犠牲にしていないわ。それは、アタシたちがそう望んでいるからよ。陛下はそれに応えてみせた。一人でも犠牲になる可能性があれば、そもそも陛下は戦に臨まなかったでしょうしね」
「んな、馬鹿な……」
「アタシたちが王に求めるのは、荒唐無稽とも思えるくらいの要望に応えることなの。決して折れず、民の犠牲を出さず、傷の一つもつかずに誇り高く君臨する魔王。揺らぐのはアタシたちが弱いだけ。そう思える存在を、悪魔であるアタシたちは望んでいるのよ」
無茶苦茶だ。折れることなく、兵の一人も死なせずに、尚且つ自身も傷付かずに頂点に立つだなんて、そんなことができるはずがない。俺の母……、アサギナの女王も、国を守るためにどれほどの犠牲を払ったか知れない。それこそ、あの魔王でなければ叶えられない望みだ。
望んだだけで王になどなれないと、そう俺に言った魔王の姿が脳裏によぎる。そうか。そういうことか。
「ああ、だから、あいつが魔王なのか」
民の求めるものを汲んで、応じる。その繰り返しで信頼を得る。こんな無茶に応えて実現しやがるヤツが魔王だから、悪魔は全幅の信頼を寄せる。信頼する魔王の命であれば、自身の考えは蹴ってでも従うのか。
「あんなの、遠すぎて、分からねぇよ」
魔王に、王の何たるかを教えてほしいと乞うた自分がアホらしくなる。全然見えてなかった。魔王は、あの悪魔を統べる王は、遥か高みにいて、俺が生涯捧げたって魔王の爪先にも届くはずがない。
「アナタには教えておきましょうか。悪魔が悪魔たる所以を」
「そうですわね。陛下が期待をかけるのですから、このようなとこで勝手に折れられては困りますわ」
ボータレイとエミリエンヌが頷き合う。悪魔の、悪魔たる所以?魔王の力以上におかしな話があるのか?
「他言無用ですわよ。まあ、あなたが言ったところで誰も信じないでしょうけれど」
人形はくすりと微笑んで、陶器のような人差し指を自分の唇に当てた。姿はイタズラでもする子供のように見えるのに、俺はぞくりと体を震わせる。
「私たち悪魔は、年を取ることがありませんの。ずぅっと、私は子供の姿のまま。もう数百年の時を過ごしておりますわ」
「……は?」
教えられたのは、俄かには信じたい悪魔の実態だった。悪魔は、年を取ることがないだなんざ、早々に信じられるかよ。
「陛下も、数百年、陛下のまま、ずっと私たちを纏めておりますのよ。万が一にも追いつけるなどと思わないことですわね」
「ふ、ざけんなよ、悪魔ってだけで規格外なのに、何だよ、そりゃあ」
エミリエンヌは、微笑んでいる。だが、俺を見る目は、氷以上に冷たい。冗談だろうと、笑い飛ばせない。
「ニンゲンが、年を取らぬ私たちを不気味だと迫害したのでしょう。だから私たちは、森の奥深く、死んだ大地の上でニンゲンに関わらぬように暮らしてきたのですわ」
今も、悪魔がもし俺たちの国で見つかったならば、有無を言わさずに駆除される。悪魔は魔物が力を付けて進化した存在で、甘言で人を惑わす災厄だから、だ。そう、信じられてきた。けれど、悪魔が実際に退治されたのは数十年、下手をすれば百年以上前の話だ。文献で残っているから、俺たちは昔話の教訓として教えられている。実際に対峙したことはないが、もし目の前に文献の通りの悪魔が現れたならば攻撃するだろう。悪魔が何を言おうとも、己の身の安全のために俺たちは必死に戦うはずだ。
「だから、魔王も、悪魔も、ニンゲンが憎いのか」
「ニンゲンにとっては過去の祖先が起こした程度の話でしょ。けれど、アタシたちは違う。全部、この身に降りかかったことなのよ」
「今更、ニンゲンの認識違いを正そうとは思いませんわ。幾度となく繰り返して、諦めましたもの。けれど、白狼の忌み子、あなたは覚えるべきですわ」
エミリエンヌが微笑みを消した。ボータレイは、元よりくすりとも笑っていない。
「私たちはあなたに優しいわけではないの。然るべき器がないのであれば、陛下に進言致しますわ。挿げ替えろ、と」
ぞく、と背筋が凍った。
「学ぶのであれば、お早めにどうぞ。本気で変わろうと思えないのなら、差し伸べる手を凶器に変えますわ」
カナエの存在が、俺を油断させていた。こいつらは、悪魔だ。ニンゲンじゃない。それでも、縋ったのは俺だ。
ただ胸の内に思うのは、また逃げるのは絶対に嫌だということだった。俺は、せめて、逃げない。この国を慕う民の上に立てなくても、俺は、こいつらから学んでやる。
精一杯の意地でエミリエンヌとボータレイに頷くと、二人は目を細めた。宙に浮く精霊は、ただただ微笑んで俺たちを見ているのだった。